野ざらし紀行

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野ざらし紀行』(のざらしきこう)は、江戸時代中期の俳諧師松尾芭蕉紀行文貞享元年(1684年)秋の8月から翌年4月にかけて、芭蕉が門人の千里とともに出身地でもある伊賀上野への旅を記した俳諧紀行文。「野ざらし」は、旅立ちに際して詠んだ一句「野ざらしを心に風のしむ身かな」に由来する。ちなみに、門出の歌に「野ざらし」はかなり縁起が悪い。また、出立が甲子であることから「甲子吟行」とも呼ばれる。発句が中心となって文章はその前書き、詞書としての性格が強く出ており、やがて文章に重きを置いた「笈の小文」を経て句文が融合した「おくのほそ道」へと発展する嚆矢としての特徴が現れている。

芭蕉は前年に死去した母の墓参を目的に、江戸から東海道伊勢へ赴き、伊賀上野を経て大和国から美濃国大垣名古屋などを巡り伊賀で越年し、京都など上方を旅して熱田に一時滞在し、甲斐国を経て江戸へもどった。

芭蕉(ばしょう)の俳諧(はいかい)紀行。一巻(一冊)。別名「甲子吟行(かっしぎんこう)」。1685年(貞享2)成立。書名は冒頭の句「野ざらしを心に風のしむ身哉(かな)」による。1684年8月門人千里(ちり)を伴い、芭蕉は深川の草庵(そうあん)を出発し、東海道を上り伊勢(いせ)、伊賀、大和(やまと)、吉野を経て、山城(やましろ)、近江(おうみ)に出、美濃(みの)大垣に木因(ぼくいん)を訪問。ここで「死(しに)もせぬ旅寝の果よ秋の暮」の句を詠む。さらに桑名、熱田(あつた)を経て名古屋に至り、この地で荷兮(かけい)らと『冬の日』五歌仙を興行。この年は郷里伊賀上野で越年し、翌1685年奈良、京都、伏見(ふしみ)、大津を経て、ふたたび尾張(おわり)に至り、さらに甲斐(かい)を経て初夏江戸に帰着。以上のほぼ9か月の紀行を、発句(ほっく)を中心に述べたものが本書である。木因訪問までの前半は緊迫した感情がみられ、句文ともに誇張した佶屈(きっくつ)な表現が顕著だが、後半ではそれが風狂を主としながらもしだいにくつろいだものに変化している。芭蕉最初の紀行文であり、かつ蕉風開眼の過程が如実に示されており注目に値する。[雲英末雄]

『中村俊定校注『芭蕉紀行文集』(岩波文庫)』

内容[編集]

芭蕉は江戸を経つと箱根で霧しぐれに隠れる富士を趣深いと感じ、駿河では富士川のほとりで捨て子を見て、「猿を聞く人捨て子に秋の風いかに」と詠んで杜甫の心境に迫ろうとした。東海道を上って伊勢参りをし、故郷伊賀上野で母親の墓参をし「手にとらば消えんなみだぞあつき秋の霜」の一句をのこした。上方では「山路来て何やらゆかし菫草」の句を詠み、琵琶湖を眺望して「辛崎の松は花より朧にて」と吟じ東海道を下り尾張に滞在し、四月十日に鳴海知足亭を発って木曽甲州路を経て芭蕉庵に帰還している。