里見甫

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里見 甫(さとみ はじめ、1896年明治29年)1月22日 - 1965年昭和40年)3月21日)は、ジャーナリスト実業家三井物産のもとで関東軍と結託しアヘン取引組織を作り、阿片王と呼ばれた。

来歴・人物[編集]

加賀藩の上級家臣である平士で、安房里見氏末裔の元海軍軍医で退役後に日本各地の無医村をまわっていた里見乙三郎とスミの長男として、赴任地の秋田県山本郡能代町(現・能代市)に生まれる。1913年、福岡県立中学修猷館を卒業し[1]、同年9月、玄洋社第二代社長進藤喜平太の助力により、福岡市からの留学生として上海東亜同文書院に入学する。

1916年5月、東亜同文書院を卒業後、青島の貿易会社に一時期勤務するが退社し、帰国して東京で日雇い労働者となる。1919年8月、同文書院の後輩である朝日新聞北京支局の記者であった中山優の計らいで、橘樸が主筆を務める天津の邦字紙である京津日日新聞の記者となる。1922年5月には第一次奉直戦争に際して張作霖との単独会見を行っている。1923年6月、京津日日新聞の北京版として北京新聞が創刊されるとその主幹兼編集長に就任する。ここでの新聞記者活動を通じて、関東軍参謀であった板垣征四郎石原莞爾と知己となり、国民党郭沫若と親交を結び、蔣介石との会見を行うなどして、国民党との人脈も形成された。1928年5月の済南事件では、日本軍の建川美次少将、原田熊吉少佐、田中隆吉大尉から国民党との調停を依頼され、2ヶ月に亙る秘密工作の末、国民党側との協定文書の調印を取り付けている。

1928年8月、南満洲鉄道(以下「満鉄」)南京事務所の嘱託となり南京に移る [2]。ここで、国民政府に対し満鉄の機関車売り込みに成功するなど華々しい業績をあげている。

1931年9月に満洲事変が勃発すると、翌10月に関東軍で対満政策を担当する司令部第4課の嘱託辞令を受けて奉天に移り、奉天特務機関長土肥原賢二大佐の指揮下で、甘粕正彦と共に諜報宣伝宣撫の活動を担当する。これらの活動を通じ、中国の地下組織との人脈が形成された。また司令部第4課課長松井太久郎の指示により、満洲におけるナショナル・ニュース・エージェンシー(国家代表通信社)設立工作に務め、陸軍省軍務局課長鈴木貞一の協力のもと、新聞聯合社(以下「聯合」)の創設者岩永裕吉や総支配人古野伊之助電通の創業者光永星郎との交渉を行い、1932年12月、満洲における聯合と電通の通信網を統合した国策会社である満洲国通信社(以下「国通」)が設立され、初代主幹(事実上の社長)兼主筆に就任する [3]。 1933年5月には、聯合上海支局長であった松本重治に、ロイター通信社極東支配人であり、後に同社総支配人(社長)となるクリストファー・チャンセラーChristopher Chancellor)との交渉の斡旋を依頼して、交渉の末ロイターとの通信提携契約を結び、国通の名を国際的に印象付けている。1935年10月国通を退社し、同年12月、関東軍の意向により、天津の華字紙「庸報」の社長に就任する。1936年9月、5年住んだ満洲を去る。

1937年11月、上海に移り、参謀本部第8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を依頼される。1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂[4]の副董事長(事実上の社長)に就任する。ここで、三井物産三菱商事大倉商事が共同出資して設立された商社であり実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇紅幇などとも連携し、1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立[5]ペルシャ産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の傀儡であった汪兆銘南京国民政府にも回した。また、里見機関は、関東軍が極秘に生産していた満洲産阿片や、日本軍が生産していた海南島産阿片も取り扱っている。この活動を通じて、青幇の杜月笙盛文頤や、笹川良一児玉誉士夫吉田裕彦岩田幸雄許斐氏利阪田誠盛清水行之助らとの地下人脈が形成された[6]

1943年12月、宏済善堂を辞し、満鉄と中華航空の顧問となる。1945年9月に帰国し京都や東京に潜伏するが、1946年3月に民間人第一号のA級戦犯容疑者としてGHQにより逮捕され、巣鴨プリズンに入所する。1946年9月、極東国際軍事裁判に出廷して証言を行い、同月不起訴となり無条件で釈放される。その後、渋谷峰岸ビル(現在のQFRONT)に日本商事(医薬品関連の日本商事とは別)を構え代表に就任する。戦後、祖神道本部の熱心な信者となった。

1965年3月21日、家族と歓談中に心臓麻痺に襲われ死去。享年70。千葉県市川市国府台總寧寺にある里見の墓の墓碑銘「里見家之墓」は、岸信介元首相の揮毫による。

家族[編集]

  • 父・里見乙三郎(1864年生) ‐ 医師。金沢医学校卒。[7]
  • 弟・たかし
  • 妻・相馬ウメ(=里見由美)(1933.9〜1959.6離婚)、
  • 妻・湯村治子(1959.7〜)。
  • 子・里見泰啓(1959.11誕生)。

周辺人物[編集]

  • 梅村うた ‐ 秘書。高木契圓(大倉組ニューヨーク支店長のち資生堂)の内妻。高木との間に一男三女を儲けたが滞米中に高木と離縁。
  • 梅村淳 ‐ うたの養女。

実験場としての満洲[編集]

「里見は、電通が今のような広告会社になったきっかけを作った一人である」とした佐野眞一の一文がある。電通通信史刊行会の「電通通信史」 (1976; 以下『電通史』と略す) によると現在の広告代理店の電通は光永星郎を創業者とする「日本電報通信社」という通信社に始まっている。光永は日清戦争で従軍記者だった経験をもつが、戦場から記事を書いても新聞が記事を掲載しなかったり、掲載しても時間が遅いなどに不満をもち自ら通信社を興し日本中の新聞に迅速にニュースを送るという大望を抱いた (詳細は通信社の歴史を参照)。

御手洗辰雄の「新聞太平記」 (1952; 以下『太平記』と略す) では、光永が通信社経営のために苦心した様子が描かれている。光永はニュースを新聞社へ売ったとしてもそれだけでは経営が立ち行かないと考え、全国の新聞の広告欄について広告主と新聞の仲介者として手数料を取る広告代理店の業務を兼業し、ニュース配信と金銭の流れとしては相殺するアイデアに至る。通信社が広告代理店となったのはこれが最初ではなくフランスのアヴァスにも例があり、国内でも光永が最初ではない。しかし新聞市場を科学的に研究した光永は「新聞年鑑」を発行するなどプランを実現化する (詳細は通信社の歴史を参照)。

月間の広告取扱高は150万円、日本の新聞広告の7割を掌握し、株主配当7分という優良企業に成長した電通は銀座の顔となった8階建ての自社ビルを建てる (『電通史』)。ただし、同時に新聞の部数を把握して新聞社の生命線である広告単価を握っていた電通のやり口は周囲の反感をもたれていたとする見方もある (『太平記』)。新聞と広告の二本柱で「国を代表する通信社」となった電通を広告のみと分割させたのは、情報局を背景とする国家代表通信社「同盟通信社」の創設である。

これを電通のライバルである「新聞連合社」の古野伊之助の策謀にあると見る者がある。駄場裕司は『後藤新平をめぐる権力構造の研究』 (2007) で、同盟通信社設立を取り上げた朴順愛「『十五年戦争期』における内閣情報機構」(『メディア史研究』第3号、1995)についてその硬直性に言及しているが、現在は広く以下の観点が一般的である。

即ち、戦前の日本の新聞社は外国からのニュースを通信社から得ていたが、古野は国家の中枢に働きかけ外国から情報を得る通信社を一元させようとして電通を切り崩しにかかったとする見方である。これは国家の情報統制と歩みを一つにしているとする見方である。このステップとなったのが満洲における電通勢力の排除であり、その結果として「満洲国通信社」は創設されたとする見方である。関東軍は当初、満洲国通信社を里見ではなく陸軍の長老である高柳保太郎に任せようとしていた。時代遅れの高柳にさせられないと現地の佐々木健児が本庄繁に推薦したのが兄事していた里見であった。(満洲国通信社の『国通十年史』 (言論統制文献資料集成に収録) による)。里見はこれにより初代主幹となる。ちなみに里見の役職は組織が曖昧なため主幹という名称となっている。

ただし古野と里見の意図した点はそれだけではなく、強力な単一の通信社を作らせて通信網を独占させ、さらに満洲における新聞資本を1つにまとめあげ、そのうえで単一通信社と単一新聞社を包括したメディア機関を作る点にあった。日本における新聞統合の実験場としての「満洲弘報協会」が設立される。古野と里見はそれぞれ関東軍に「満洲弘報協会設立要綱」「満洲弘報協会設立に関する意見」という論文を提出した。しかし里見は国通を離れ(1936.3.31)、満洲弘報協会の理事長に高柳(1936.9.28〜1937.6.30)となると、高柳は当初の構想の意味をまったく理解できず、古野は国通の社長と弘報の理事長は兼任とさせて元朝日新聞の森田久を据えた。

『国通十年史』では本庄に創設に関する研究を指示された里見だが、通信社と国内の情報機関についての内情が不明なため、1932年に来日した際に面識のあった大阪の能島進 (電通支社長) に説明をもらった上で白鳥敏夫鈴木貞一上田碩三古野伊之助と面談して組織の基盤作りにも松本重治の協力を求めたとしている。佐野の一文はこのような背景がある。(佐野眞一『阿片王 満州の夜と霧』)

脚注[編集]

  1. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』同窓会員10頁
  2. ^ 陸満普大日記 昭和7年
    昭和7.10.1〜7.10.5 「満受大日記(普)其21」
    陸軍省 憲兵司令官 外山豐造
    昭和6年11月19日
    「陸満普受第四五七号 邦人秘密情報機関設置ニ関スル件報告(通牒) 昭和六年十一月十九日 憲兵司令官 外山豐造 陸軍大臣 南次郎殿 首題ノ件左記報告(通牒)ス 左記 前満州日報編集長 竹内克己 右者従来往々反軍的行動アリシ者ナルカ十月二十九日満州日報社株主総会ニ於テ編集長ヲ辞シ大連ニ国際情報局ヲ設置正式ニ関東庁ノ許可ヲ 受クヘク準備中ノ処許可ノ可能性ナキ為メ私信ノ形式ニテ欧文情報ヲ発行シ希望者ニ配布シツツアリト 因ニ本名ノ情報関係連絡者次ノ如シ、里見甫 満鉄南京駐在員 波多野貫一、時事新聞記者 鵞澤與二、時事新聞北京特派員 高木陸郎、中日実業副総裁 日笠芳太郎、満日東京支局顧問(久原系) 小林和助、大連取引所長」
  3. ^ 陸満普大日記 昭和8.5.2〜8.5.15 「満受大日記(普)其8 2/2」
    陸軍省 関東軍参謀長 小磯國昭
    昭和8年4月3日
    「陸満普受第一五一三号 満洲国通信社主幹帰朝ニ関スル件 昭和八年四月三日 関東軍参謀長 小磯國昭 陸軍次官 柳川平助殿 満洲国通信社主幹里見甫本月四日当地出発帰朝ス其ノ用務ハ可成速ニ東京ニ満洲国通信社支社ヲ設置スル方針ノ下ニ調査並交渉等ノ諸準備ヲ為サムトスルニアリテ本件ハ同社内容充実ノ為重要ナル事項ナルノミナラス連合並電通トノ間ニ既有契約ノ改訂ヲ要シ相当困難ナル問題ト予想セラルルヲ以テ外務省側トモ連絡ノ上可然指導並助力ヲ与ヘラレ度 追而参考ノ為満洲国通信社内容充実ニ関スル弘報委員会幹事会 決議事項ヲ添付ス 第五回弘報委員会幹事会決議事項 議題第一 満洲国通信社内容充実ニ関スル件 議決 東京支社設置ニ関スル件〜」
  4. ^ 杜月笙ら青幇の指導者をリーダーに立てて、中国人だけで販売と集金がなされた。竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 54
  5. ^ 三井物産は一両つまり32グラムを35円で軍に納入し、これを里見機関がグラムあたり22-23円で宏済善堂に卸した。四川省産よりも品質の良いペルシャ産のアヘンはサスーン財閥系によって上海に流入したが、これを三井物産上海支店が仕入れていた。この上海支店には佐藤喜一郎がおり、調達資金を工面していた。竹森久朝 『見えざる政府-児玉誉士夫とその黒の人脈』 白石書店 1976年 P 54
  6. ^ また、以下の者と知己となった。
    ・関東軍参謀長であった東條英機
    満洲国総務庁次長であった岸信介古海忠之
    古海は後に里見の葬儀委員長を務めた。
    ・満洲国民政部禁煙総局長であった難波経一
    ・満洲国産業部鉱工司長であった椎名悦三郎
    ・岸信介の実弟であり当時鉄道省から上海の華中鉄道設立のために出向していた佐藤栄作
    興亜院蒙疆連絡部経済課長であった大平正芳
    ・興亜院華北連絡部書記官であった愛知揆一
    ・興亜院華中連絡部書記官であった長沼弘毅
    ・海南島・厚生公司東京事務所責任者であった高畠義彦
    ・上海の国策新聞「大陸新報」社長であった福家俊一
    満洲国の首都新京特別市副市長であった関屋悌蔵
  7. ^ 里見乙三郎日本医籍録 : 附・医学博士録・法規 (1分冊) 2版 医事時論社、1926

関連項目[編集]

関連人物[編集]

  • 甘粕正彦(里見と共に“陰の満洲国建国の立役者”とされている)
  • 蔣介石(戦前、汪兆銘同様に里見から阿片資金を貰い受けていたとされている。クン・サも参照)
  • 東条英機(大連にいた里見が東条の長男英隆を預かっていたとされる)
  • 影佐禎昭(陸軍中将、特務機関員)
  • 楠本実隆(陸軍少将、特務機関員)
  • 古海忠之(満洲国総務庁次長。蒙疆や熱河産阿片の売り捌きを里見に依頼していたとされている)
  • 福家俊一(代議士。里見が選挙も支援していたとされている)
  • 里見嘉一 (甥。日本画家)
  • 二反長音蔵 (もう一人の「阿片王」)
  • 吉田秀雄 (社則「鬼十則」を作った)

参考文献[編集]