酈炎

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酈 炎(れき えん、150年 - 177年)は、後漢文人は文勝。本貫涿郡范陽県

経歴[編集]

前漢初期の酈食其の末裔にあたる。親孝行で、文才があり、音律を解し、弁論は流れるように早く、かれの展開する理論は多くの人を感服させた。霊帝のとき、州や郡が召しだそうとしたが、いずれも応じなかった。

かれの作品に「見志詩」2首や「遺令書」があった。

酈炎は後に精神を患い、若くして認知症にかかった。母が死去すると、かれの症状は悪化し、初産の妻を驚かせて死なせてしまった。妻の実家がこのことを訴え出ると、酈炎は収監された。酈炎は病のために筋道立った答えができず、177年熹平6年)に獄中で死去した。享年は28。彼の師であった盧植はその死を惜しみ、徳行を称えた[1]

著書に文集2巻があった[2]

脚注[編集]

  1. ^ 後漢書』巻80下文苑列伝
  2. ^ 隋書』経籍志四、『旧唐書』経籍志下、『新唐書』芸文志四はいずれも「酈炎集二巻」という。『宋史』芸文志七は「酈炎文四篇」とする。

伝記資料[編集]