郭敦
郭 敦(かく とん、1370年 - 1431年)は、明代の官僚。字は仲厚。本貫は博州堂邑県。
生涯[編集]
郭政寛と侯氏のあいだの子として生まれた。1393年(洪武26年)、郷試に及第し太学に入った。戸部広西清吏司主事に抜擢された。衢州府知府に転じ、善政で知られた。永楽初年、南京に召還された。衢州の故老数百人が宮殿を訪れて郭敦の留任を請願したが、永楽帝は聞き入れなかった。後に廷臣の推挙により、郭敦は監察御史に任じられた。河南左参政として出向し、陝西左参政に転じた。1418年(永楽16年)1月、胡濙の推挙により、礼部右侍郎に抜擢された。太僕寺卿を兼ねた。1421年(永楽19年)4月[1]、給事中の陶衎とともに順天巡撫をつとめた。1422年(永楽20年)、永楽帝の漠北遠征の食糧輸送を監督した。
1424年(永楽22年)、洪熙帝が即位すると、郭敦は喪中にあって斎戒しなかったことから、太僕寺卿に降格した。まもなく戸部左侍郎に進み、詹事府少詹事を兼ねた。1427年(宣徳2年)8月、戸部尚書に進んだ。1431年(宣徳6年)4月11日、在官のまま死去した。享年は62。