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郭務悰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
かく むそう

郭 務悰
生誕 不詳
唐国
死没 不詳
職業 官吏
活動期間 664年? - ?
時代 飛鳥時代後期
活動拠点 唐国日本の旗 日本
肩書き 上柱国
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郭 務悰(かく むそう、生没年不詳)は、中国代の官吏白村江の戦い後に日唐関係修復交渉のため、3度(あるいは4度)倭国日本)を訪問している。

略歴

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郭務悰の事績はすべて『日本書紀』・『善隣国宝記』に引用された『海外国記』に記述されたもののみであり、大陸側の史料には一切現れていない。

最初の訪日は、664年麟徳元年、天智天皇3年5月)、百済の鎮将劉仁願により、朝散大夫の郭務悰らが派遣され、表函ふみひつ献物みつぎをたてまつった、というものである[1]。それから5か月後の同年10月に、郭務悰らを送り出す勅が発令され、同じ日に中臣鎌足が僧侶の智祥(ちじょう)を派遣して、物を郭務悰に与えている[2]。その3日後、智祥は郭務悰らに饗応されており[3]、12月に帰国の途についている。

『日本書紀』に描かれた記述は以上のようになるが、『海外国記』では、664年(天智天皇3年)の4月に郭務悰ら30人、百済の佐平である禰軍ら100人あまりが対馬に到着し、倭国側からは大山中采女通僧侶の智弁らが遣わされたとある。9月津守吉祥伊吉博徳・智弁らが筑紫大宰の言葉として、「客人たちのもってきた書状を見ると、天子(唐の皇帝)からの使いではなく、百済の鎮将の私使であることが分かったので、朝廷には奏上しなかった」とあり、使節団は入京を許されなかった。なお、郭務悰はこの時劉仁願からの「牒書ちょうしょ」を携えていたことも記されている。また、彼の役職は「上柱国」とも記されている。

665年(麟徳2年、天智天皇4年9月)、劉徳高らが倭国に派遣された際にも郭務悰と禰軍は同行し[4]、この時の一行は合計254人からなる大使節団であり、7月28日に対馬に到着し、9月20日に筑紫に入り、22日表函ふみひつを進上している。また、654年白雉5年)の「伊吉博徳書」によると、鎌足の息子の定恵がこの時の船で唐より帰国した、ともある。この時は入京を許されている[5]

その後、669年(天智天皇8年)、郭務悰らが2,000人あまりを率いて来朝した、と『書紀』に記されているが[6]、これは後出する天智天皇10年記事の重複であるようである。

668年総章元年)8月、劉仁願は対高句麗戦における失策を譴責けんせきされ、姚州雲南省)へ配流されたが、671年咸亨2年、天智天皇10年1月)にはその使いとして李守真が倭国に派遣されている。李守真は7月に百済の使人とともに帰国するが[7]、その4か月後の11月2日に唐国の遣使郭務悰ら600人、送使沙宅孫登ら1,400人を載せた、47隻の大船団が比知島に現れ、対馬国司は大宰府に急変を伝えている。やがて筑紫に着き駐留して軍兵と思われる2000人での駐留状態になり深刻な問題となった[8]。この船団の中には道久筑紫薩夜麻ら白村江の戦いで捕虜になったと思われる倭人も含まれており[9]直木孝次郎の説によると、この使節派遣の性格は、捕虜の交換とともに唐への軍事的な支援を要請するものだったと想定され、あるいは戦乱の続く旧・百済領内の避難民を倭国へ護送するものだったとも言われている[10]

しばらくして12月3日天智天皇崩御[11]、その知らせは翌年、阿曇稲敷を通じて郭務悰らに伝達された。郭務悰は哀悼の意を表し、喪服を着て、東に向かって拝んだ[12]。その上で、唐の皇帝の国書の書函と信物くにつもの進上した[13]。しかし交渉はもつれたのか、その後も駐留し続けた[14]。 交渉の末に唐使らに大量の甲冑弓矢ふときぬ1,673匹、2,852端、綿666斤の贈物をすることで5月30日帰国させた(『日本書紀』巻第二十八、天武天皇上 元年5月12日条、元年5月30日条)[14]

その後、『日本書紀』によると、692年持統天皇6年閏5月)に、郭務悰が天智天皇のために造った阿弥陀像を上送せよ、という天皇が出されている[15]

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇3年5月17日条
  2. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇3年10月1日条
  3. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇3年10月4日条
  4. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇4年9月23日条
  5. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇4年10月17日条
  6. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇8年是歳条
  7. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年7月11日条
  8. ^ 上田雄 2006, p. 67.
  9. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年11月10日条
  10. ^ 『古代日本と朝鮮・中国』、直木孝次郎:著、講談社学術文庫1988年昭和63年)よりp175 - p210「近江朝末年における日唐関係」
  11. ^ 『日本書紀』巻第二十七、天智天皇10年12月3日条
  12. ^ 『日本書紀』巻第二十八、天武天皇上 元年3月18日条
  13. ^ 『日本書紀』巻第二十八、天武天皇上 元年3月21日条
  14. ^ a b 上田雄 2006, p. 68.
  15. ^ 『日本書紀』巻第三十、持統天皇6年閏5月15日条

参考文献

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関連項目

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