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還住

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還住(かんじゅう、げんじゅう)は一度居住地を去った者がその土地に戻り再度居住することを意味する語。

本記事では[† 1]伊豆諸島青ヶ島で、安永9年(1780年)に始まった噴火活動が天明5年(1785年)になって激しさを増したため、島民が八丈島に避難して無人島になった後、文政7年(1824年)の旧青ヶ島島民全員の帰還、そして島の復興を達成し、天保6年(1835年)に検地を受けるまでの経過について記述する。

噴火前の青ヶ島[編集]

尾山展望公園から見る丸山。かつては淡水の大池、小池があった。

青ヶ島にいつ頃から人が住み始めたのか現在のところはっきりしていない。これは他の伊豆諸島の島々で発見されている縄文時代弥生時代の遺跡が全く発見されておらず、また中世の遺跡も見つかっていない上に文献資料も乏しいためである。15世紀になってようやく青ヶ島に人が居住しているとの記録が現れる[1]

青ヶ島は絶海の孤島で周囲を黒潮が流れ、波が荒いことが多く青ヶ島への船の航行は困難を極めた。また島の周囲は約50-250メートルの海食崖が発達しており船の接岸も困難であった。15世紀の青ヶ島についての記録の多くは船の遭難に関することであり、この船の往来の困難さは現在に至るまで青ヶ島に住む人々を悩ませ続けている[2]

往来は困難を極めたが、青ヶ島での生活には利点もあった。これは八丈島、八丈小島と比べて食糧事情が良かったことである。八丈島や八丈小島は19世紀サツマイモの本格的な普及まで慢性的な食糧危機に見舞われていた。これは主に台風の襲来による風害によるものであり、ひとたび強い台風が八丈島や八丈小島を襲うと多くの作物に甚大な被害がもたらされ、餓死者が出ることも稀ではなかった[3]

一方青ヶ島は大きな成層火山の山頂部が海面上に出ている地形をしており、島の南部には直径1.5-1.7キロメートルという成層火山の大きな火口にあたる池之沢がある[† 2]。池之沢にはかつて大池、小池という淡水の池があり、土地も肥沃であった。何よりも大きな火口の内側となる池之沢は周囲の山によって強風が遮られるため作物の被害が少なかった。このような土地であるため、元禄13年(1700年) 11月には激しい飢饉に襲われ青ヶ島へ出発した八丈小島の住民24名全員が行方不明になるという事件も発生した[4]

しかし池之沢は成層火山の大きな火口内であり、承応元年(1652年)に池之沢内で噴煙が上がり、寛文10年(1670年)から約10年間、池の沢にあった池から細かい砂が約10年間に渡って噴出したとの記録が残されている。いずれの事件も小規模な異変であったと考えられ、青ヶ島の島民に大きな影響を与えることはなかった。 安永3年(1774年)の記録によると青ヶ島には流人1名を加えて328名の島民が、農業やカツオ漁などの漁業、そして年貢としての生糸を生産するための養蚕を営みながら生活していた。島内で農業や養蚕の最大の拠点は、土地が肥え淡水の池があって風害から守られている池之沢であった[5]

噴火の開始[編集]

安永9年の噴火[編集]

安永9年6月18日(1780年7月19日)から23日までの6日間、青ヶ島は群発地震に見舞われた。6月24日には地震は収まるが、6月27日、池之沢に噴火口が出現し、そこから大量の湯が噴き上がった。池之沢内の大池と小池の水位は上昇を続け、やがて大池と小池は一つの大きな池となって耕作地を飲み込んでいった。また水温も上昇して7月半ばには手を入れられないほどの湯になってしまった。しかも大量に湧出し続ける湯は塩水であり、池之沢の耕地は甚大な被害を蒙ることになった。また噴煙の噴出も見られ、噴煙によっても農作物は被害を受けた[6]

青ヶ島名主の七太夫は7月末に噴火の被害について報告するために八丈島に渡った。八丈島役所も8月、被害の状況を確認するために見分を実施したが、この時は報告と見分の成果はなく、翌年の天明元年分の青ヶ島の年貢は規定どおりの納入が指示され、通常通り年貢は納められた[7]

天明元年の噴火[編集]

安永9年の噴火は翌安永10年(1781年) 4月頃までには小康状態となったが、翌月の天明元年(1781年)5月からは今度は火山灰を噴出する噴火が池之沢で始まった。噴煙は島全体を覆い、また再び池之沢内の池の水位が著しく上昇したが、今度は水が引いてしまい、このときに耕地の土が池に流出し、耕地には大きな石が残されるといった被害が発生した[8]

天明2年(1782年) 3月、青ヶ島で名船頭として知られた惣兵衛らが乗り込んだ「無人島」を探検する船が八丈島を出港した。惣兵衛らは青ヶ島から更に南へ向かい、現在の鳥島付近まで探検を行ったが、その後悪天候によって漂流を続けた上、何とか江戸にたどり着くことが出来た。惣兵衛らは天明3年(1783年)3月、勘定奉行より酒食の振る舞いを受け、更に4月には韮山代官である江川太郎左衛門からも酒食の振る舞いを受けた上、惣兵衛は八丈島へ戻った。後に惣兵衛は天明5年(1785年)に発生した大噴火の発生直後、青ヶ島へ向かい噴火直後の青ヶ島の状況を目の当たりにすることとなる[9]

天明2年(1782年)4月には韮山代官所の代官の手代らが、八丈島に在島していた名主の七太夫らとともに青ヶ島の巡検を行なった。巡検が行なわれた時には噴火は小康状態となっており、池之沢内で噴火の被害を蒙った農地の復興が進められていることが報告されている[10]

天明3年の噴火[編集]

安永9年と天明元年の噴火によって大きな被害を蒙った青ヶ島であったが、天明3年(1783)年3月からの噴火はこれまでのものよりも規模が大きく、甚大な被害を蒙った。

2月には島の北部にある神子浦(みこのうら)が大崩壊を起こし、舞い上がった土砂が島内の耕地に積もった。そして3月9日(1783年4月10日)には地震が頻発、そして池之沢に大きな火口が出現し、島内に灼熱した噴石が降り注いだ。そのために噴火開始時に池之沢にいた14名が死亡し[† 3]、高温の噴石によって火災が発生して61件の家屋が焼失した。噴石の噴出後には火山灰が激しく噴出し、島内は真っ暗となり火山灰が厚く降り積もった。火山灰は青ヶ島全体の耕地に壊滅的な被害をもたらした上に島の水源をも埋め、雨が降ると火山灰交じりの水が流れ出して人家に流れ込むといった二次災害を引き起こした[11]

天明3年の噴火は八丈島からも激しい火の手と猛烈な噴煙が立ち昇るのを見ることができた。青ヶ島からの報告を受けた八丈島役所では青ヶ島の被害状況の見分を行なうこととして、視察は5月に八丈島を出発し、噴火後の青ヶ島の状況を約一ヵ月見分して八丈島に戻る際、船が上総興津まで流された上、ようやく八丈島へと戻った。青ヶ島は多くの耕地が噴出した火山灰によって失われ、厳しい食糧不足に悩まされることになり、また多くの家も焼失した。しかし今回は年貢が免除となり、救援の穀物の支給なども行なわれた。また噴火の影響で荒廃した青ヶ島から八丈島へ住民が避難することも勧められた[12]

天明4年(1784年)には噴火はなく、青ヶ島の島民は噴火からの復興に向けて努力をしていた。しかし翌天明5年(1785年)に破局的な大噴火が起こり、青ヶ島島民は全島離島に追い込まれることになる[13]

天明5年の大噴火と全島避難[編集]

噴火の経緯[編集]

天明5年3月10日(1785年4月18日)、青ヶ島で大噴火が始まった。このときの噴火も八丈島から見ることが出来たため、「無人島」の探検後、八丈島に戻って来ていた惣兵衛は船に救援物資を積み込み、早速青ヶ島へと向かった。3月10日、八丈島を出発した惣兵衛は翌11日には青ヶ島近海に到着したが、島全体が黒雲に覆われ、時々稲妻のような火の玉が飛ぶのが見えるが、島の様子がほとんどわからない状態であった。しかも黒煙は青ヶ島近海上の惣兵衛の船にも襲いかかるありさまで、潮の流れも悪くなったこともあり上陸を断念せざるを得なかった[14]

3月後半になって、青ヶ島から噴火の様子についての注進が名主の七太夫らによって八丈島へもたらされた。それによると、3月10日午前に池之沢から噴火が始まり、運よく北西からの風であったため噴石は島の南側に降下したが、火山灰は島全体に降りかかった。噴火はその後も激しく続き、風向きによっては池之沢北方の人家がある方向にも火山灰が降り積もった。激しい噴火によって食糧の不足とともに水不足が深刻となり、島全体が降り続く火山灰のために昼も暗くなって昼夜の区別がつかなくなるほどであった[15]

このような状況を受け、もはや青ヶ島で生活することは不可能であり、島民はいったん八丈島へ避難するしか方法がないと名主の七太夫を始めとする島民は八丈島の島役所に申し立てた。このため八丈島の島役所では4月10日(1785年5月18日)に青ヶ島の視察船を出し、噴火による被害状況の確認を行なった。その結果、絶え間なく噴火による噴石や火山灰が噴出している状況は続いており、耕作地は厚い火山灰に覆われ畔がわからなくなっているほどであり、ほとんどの草木が枯れ果て緑は全く見えず、飲料水も極度に不足してわずかにある雨水も火山灰などの影響で飲むに耐えない状態である等、深刻な状況が改めて明らかになった。このため青ヶ島からの帰りの視察船には49人の青ヶ島島民を乗せて八丈島へ向かった[† 4]。青ヶ島から離れる際には船中に火山灰が降り注ぎ、苦労をしたものの、視察船は無事に八丈島へ戻ることができた。帰島後七太夫らの申し立て通り、島を離れる以外島民が生き延びる方策がないことが報告され、青ヶ島の島民の離島が決定された[16]

避難時の悲劇[編集]

天明5年4月27日(1785年6月4日)、八丈島島役所が派遣した3艘の救助船が青ヶ島に到着した。このとき青ヶ島には200人あまりの島民がいた。4月末になって噴火はいよいよ激しさを増し、島民たちは海に浸かりながら噴火による熱をなんとか避けている状況であった[17]

激しい噴火が続く中、3艘の救助船は青ヶ島への接岸に成功したが、救助時に悲劇が起こった。3艘の船では200人あまりの島民全員を乗せることが不可能であったのだ。まず体力のない多くの老人、子どもたちが船に乗り遅れ、熱い火山灰が降り注ぐ中、船に乗ろうとして海で溺れる者や浜辺で乗せてくれと泣き叫ぶ者たちが大勢いた。言い伝えによれば船端に取りすがった人の手をやむを得ず鉈で切り落としたともいう。結局3艘の救助船には108名の島民と1名の流人の、合計109名が乗船し、130-140名の島民は乗船することができずに噴火が続く青ヶ島で死亡したと見られる[18]

しかし避難時に100名以上の島民を置き去りにせねばならなかったことは、避難当時の記録には全く記されていない。このことは近藤富蔵が著した八丈実記に詳細が記されており、また後年青ヶ島への帰島が試みられる中、激しいネズミの害に悩まされ続けることになるが、ネズミは青ヶ島で非業の死を迎えなければならなかった人々の霊魂が化したものと考えられ、施餓鬼供養が行なわれるようになったことが記録に残っている[19]

帰島への挑戦と挫折[編集]

救助船は八丈島に無事到着し、天明5年の噴火によって八丈島にやって来た青ヶ島の島民は約160名に達した。また天明5年以前から八丈島に滞在していた青ヶ島の島民が約40名いたため、八丈島には約200名の青ヶ島島民が生活を営むことになった[20]

八丈島大賀郷の青ヶ島島民墓地。

激しい噴火のためにやむを得ず八丈島に逃れてきたものの、八丈島では青ヶ島で噴火が始まる前の明和3年(1766年)から明和6年(1769年)にかけて大飢饉に見舞われ、中之郷村では人口の約三分の二に当たる733名が餓死するなど、八丈島民の生活は苦しかった[21]。青ヶ島島民の大部分は大賀郷村の外れに集まって住み、主に八丈島島民の使用人として生計を維持するようになったが、飢饉が相次ぎ生活が苦しい八丈島に居候する形となった青ヶ島島民の生活は大変に厳しいものであった[22]。現在八丈島の大賀郷には八丈島で死去した青ヶ島島民たちの墓地が残っているが、周囲の墓よりも狭い場所に小さな墓が数多く建てられており、八丈島で暮らす青ヶ島島民たちの厳しい生活ぶりを見ることができる[23]

青ヶ島の名主の七太夫は噴火や島民避難の報告と救援依頼のために江戸に向かった。その結果米、麦、大豆を二艘の船に載せて青ヶ島島民の救援物資として八丈島に送られることになったが、うち一艘は天明5年10月9日(1785年11月10日)、八丈島沿岸に激突して破壊されてしまい、乗船していた七太夫も死亡した[24]

そのような中、天明6年(1786年)八丈島島民の高村三右衛門が、蓄えてきた500両もの大金を青ヶ島島民救済のために八丈島役所に提出した。この500両は八丈島の島民に年1割2分の利息で貸し出され、利息のうち10両は高村三右衛門の娘が受領することとし、残りの50両は青ヶ島住民たちの食糧の購入や青ヶ島の復興に充てられることになった[† 5][25]

噴火後3年目の青ヶ島[編集]

青ヶ島島民の八丈島への避難という事態を招いた天明5年の大噴火後、八丈実記には天明7年(1787年)6月には噴火後の様子を確認するために青ヶ島へ渡ったことが記録に残されている。また噴火後時々青ヶ島に渡り様子を確認していたとの記述もあり、噴火後の島の様子をしばしば確認していたことがわかる。しかし噴火直後の青ヶ島がどのような状態であったのかについては記録が残されていない[26]

噴火後の青ヶ島についての最初の記録は、噴火後3年目にあたる天明8年(1788年)4月に行なわれた八丈島役所が行なった見分の記録である。このときの見分によれば噴火はおさまっているものの、ようやく草木に緑が戻ってきた段階で、耕作地は火山灰に埋まり水を得にくい状態は続いており、道や船着場も大きく損壊しており、当分人が住めそうもないと判断され、4-5年は青ヶ島の見分は見合わせるべきとの内容であった[27]

名主三九郎の挑戦[編集]

上空からの青ヶ島北部、青ヶ島の人家はこれまでほとんどが北部の傾斜地にあった。

寛政元年(1789年)6月、青ヶ島の名主三九郎は青ヶ島の見分を行なった。その結果噴火はおさまっていて、木々の緑も少しずつ戻っているが、飲料水については利用できるかどうか見当がつかない状態であった。三九郎は噴火がおさまっていて危険もないと見られるため、少しずつ島の状態を改善していけば青ヶ島民が島に戻ることが可能であると判断したが、水も住居もない状態で全員を島に戻るわけにもいかないため、まず少数の島民が復興事業を開始し、その後全島民の帰還を果たすこと考えた[28]

同年、幕府から青ヶ島の復興開発費として257両2分銀6匁が支給された。翌寛政2年(1790年)3月、青ヶ島島民らに青ヶ島の起返(復興)についての申渡が行なわれた。寛政4年(1792年)には三九郎らは2度に渡って青ヶ島へ渡航して島内の様子の再確認と帰島への下準備を行った。八丈島へ戻った三九郎らは島の復興に取り掛かれる状態であると報告を行い、八丈島役所では穀物や農具を用意させた上で三九郎らに「起返」に着手させることとし、寛政5年7月12日(1793年8月18日)、三九郎ら青ヶ島島民20名は2艘の船に乗って復興のために青ヶ島に渡った。そして名主である三九郎ら8名は八丈島へ戻ったが、20名のうち12名が島に残り、島の復興に従事することになった[29]

ネズミとの戦い[編集]

寛政5年7月12日(1793年8月18日)に始まった青ヶ島の復興であったが、いきなり大きな試練にぶつかった。水不足や住居の問題、道路や船着場などのインフラの復興なども課題とされたが、復興を進めるにあたって最大の問題となったのがネズミの害であった。噴火後人が住まなくなった青ヶ島ではネズミが増え、おびただしいネズミの群れが穂を出した麦や粟を食い荒らしてたちまちのうちに丸裸にしてしまい、もちろん多くの食糧も食い荒らされた。復興に当たる島民らはネズミの駆除に乗り出し、復興開始から1年足らずの間に約1500匹のネズミを駆除したものの焼け石に水であった[30]

まず復興開始直後の8月28日(1793年10月2日)、穀物がネズミに食い荒らされるために芋など根菜類を入手することを目的として、復興に従事していた12名の島民のうち5名が八丈島へ向かった。しかし5名は八丈島へたどり着くことなく行方不明となってしまった[31]

そして復興には不運が重なった。寛政6年4月13日(1794年5月12日)、2艘の船に分乗した名主三九郎ら15名が、復興従事者のための穀物や食糧とともに青ヶ島に渡ったが、高波のために青ヶ島で船が壊れてしまい、物資も失われてしまった。青ヶ島の状況を見分した後、三九郎ら12名は火山灰に埋もれた青ヶ島の家や家財道具の古材を用いて船を建造し、何とか八丈島へ戻ることができた[32]

三九郎はここで諦めることなく、八丈島に戻ると韮山代官所に青ヶ島の現状についての報告と復興資金の援助を請願した。この結果、青ヶ島復興のために船が建造され、寛政6年(1794年)7月、さっそく物資を積んで青ヶ島へ向かったものの、船は青ヶ島へ着くことなく房総半島に漂着した。同年9月、三九郎は更に青ヶ島へ物資を積んだ船を送った。今回は青ヶ島到着に成功して物資の輸送も行なわれた。しかし約半年後の寛政7年(1795年)2月、八丈島への帰路、船が難破して乗員は全員死亡した。そして同年4月、青ヶ島に向かった船は無事に荷物を送り届けられ、八丈島にも無事に戻ってきた。しかし寛政7年(1795年)4月以降、結局八丈島からの船が青ヶ島で復興に従事する人々のもとへ着くことはなかった。まず寛政8年(1796年)4月、青ヶ島に向かった船は暴風によって青ヶ島へ到着することなく房総半島に漂着してしまった[33]

名主三九郎の死[編集]

寛政9年(1797年)6月、八丈島とは逆の南から一艘の奇妙な船が青ヶ島にやってきた。これは天明5年(1785年)、天明7年(1787年)そして寛政2年(1790年)の合計3回の海難事故で鳥島に漂着した野村長平ら14名が、流木などを材料として船を建造し、やっとの思いで鳥島から脱出した船であった。青ヶ島で復興に従事していた人々は苦しい生活を強いられた中でも彼らを歓迎し、2名の水先案内人をつけた上で八丈島へ向かうこととなった。流木で作られた船であったが八丈島に無事到着し、14名の漂流民は江戸へ向かい、その後故郷へ帰ることができた[34]

青ヶ島で復興に従事していた2名は、さっそく青ヶ島の現状について報告した。報告は主にネズミの害についてであり、作物は良く出来るものの穀類はネズミに食い荒らされるために収穫は皆無であること、芋についてはネズミの害はあるものの収穫が可能であること、作物は噴火以前のように良く実るので、開墾する人数を増やしてネズミの駆除につとめれば、青ヶ島での生活は可能であるといった内容であった[35]

青ヶ島の現状についての報告を受けた名主三九郎はさっそく青ヶ島へ向かうこととした。寛政9年7月29日(1797年8月21日)、名主三九郎ら14名の青ヶ島島民は物資を積み込み青ヶ島へ向かった。しかし船は猛烈な時化に遭い、青ヶ島へたどり着くことなく閏7月6日(1797年8月27日)、紀州に漂着した。14名の乗船者のうち11名が死亡し、名主の三九郎も死亡した[36]

三九郎死後の帰島の挑戦と挫折[編集]

三九郎の死後も青ヶ島島民らは帰島を諦めることはなかった。寛政11年(1799年)9月、33名の青ヶ島島民が青ヶ島へ向かった。しかし今度の船も漂流のあげく紀州に漂着した。結局乗組員のうち1名が死亡したが32名は無事に八丈島へ戻ることができた[37]

享和元年6月7日(1801年7月17日)、青ヶ島で復興に従事し続けてきた7名は青ヶ島を去り、翌6月8日に八丈島へ着いた。寛政7年(1795年)4月以降、6年あまり八丈島からの船が到着することがない中での孤軍奮闘も幕を閉じた。八丈島役所に提出された報告によれば、食糧として芋の他にアシタバソテツやユリなどの野生植物や漁をしながら何とか生きてきたが、衣服や鍋釜などが使用に耐えなくなってくるなど青ヶ島での生活の継続が困難となったため、火山灰に埋もれた家の柱などを材木とし、山刀や鍬を潰して釘を作って船を建造し、八丈島へ向かったという。享和元年(1801年)6月以降、青ヶ島はしばらくの間無人島となった[38]

享和3年(1803年)6月、勘定奉行松平信行の手代である秋元利右衛門が、八丈島の島民の半右衛門や青ヶ島名主の多吉らを伴い、無人島となっていた青ヶ島の見分を実施した。そして文化3年(1806年)5月、青ヶ島の起返願人となった半右衛門と名主の多吉らは江戸に向かい、青ヶ島の復興計画を提出した。この計画は家屋の再建から鬢付油代まで算定した詳細なものであり、復興には924両あまりの費用を要すとした。しかし文化4年(1807年)には大風のために八丈島は飢饉に見舞われ、その後文化8年(1811年)まで飢饉は続き、餓死者も相次いだ。八丈島に居候する形の青ヶ島島民は大変に厳しい状況に追い込まれたが、八丈島が厳しい困窮状態の中では青ヶ島への帰島を実施に移す余裕はなかった。天明5年(1785年)の離島以後20年以上の年月が経過し、青ヶ島で生活した経験を持つ島民は、復興時の相次ぐ海難事故もあって次々と世を去っていた。青ヶ島島民の中には八丈島避難後に生まれ、青ヶ島を知らない世代も増えつつあり、青ヶ島への帰島の実現は困難を増していった[39]

佐々木次郎太夫伊信の登場[編集]

青ヶ島への帰島実現が危ぶまれる状況下、文化14年(1817年)、佐々木次郎太夫伊信が青ヶ島の名主となった。次郎太夫は明和4年4月8日(1767年5月5日)に青ヶ島に生まれたと伝えられており、名主となったのは50歳の時であった[40]

名主となった次郎太夫はさっそく青ヶ島の見分を願い出た。見分願いの中で次郎太夫は、青ヶ島で生活した経験がある者は年老いてきており、八丈島で生まれた者のみで青ヶ島の復興を行なうのは経験不足のために失敗する可能性が高くなることを指摘した。また噴火後年月が経過していることから青ヶ島の復興は可能と判断している。そして5月に青ヶ島の現状について見分を行なった後、次郎太夫は八丈島自体が食糧難に見舞われている現状では、青ヶ島島民の生活は大変に厳しい状態であること、かつての青ヶ島を知る人々が少なくなってきており、これ以上帰島を遅らせるのは経験や復興への意欲の面からも限界があること、そして見分の結果、土地は噴火前と変わりがない状態まで戻っていることを確認したので、青ヶ島の帰返(復興)の実現を要請した[41]

綿密な計画とその実施[編集]

名主の次郎太夫は青ヶ島復興に取り掛かるにあたり、綿密な計画と準備を行なっていった。文化14年(1817年)の時点で青ヶ島島民は177名であったが、まず強健な男性27名を選抜して復興事業に当たらせることにした。27名のうち7名は青ヶ島-八丈島間の船の航行を担当し、残りの20名で青ヶ島の復興に当たることとした。復興事業はまず住居の再建、そして食糧の貯蔵倉庫の建設を行なうこととし、その後農作物の栽培を開始するといった計画を立てた[42]

また次郎太夫の計画は復興費用の節減にも力を注いだ。当初計画では復興にかかる諸費用は126両あまりと算定した。このうち約117両は天明6年(1786年)に高村三右衛門が青ヶ島島民のために拠出した500両の運用金と、寛政元年(1789年)に青ヶ島の復興開発費として幕府から支給された257両2分銀6匁の残余金でまかなうとし、不足分の9両あまりは翌年の500両の運用金を前借りする形としたいと申し出た[43]

次郎太夫は実際に青ヶ島の復興に携わる島民たちに対し、九か条にわたる懇切丁寧な約定を申し渡した。約定の中で最も強調されているのは復興にあたり、どのような事態においても一致協力して事態に当たる「和」の精神であった。また次郎太夫の指示は具体的かつ実際的でもあった。例えばこれまでの青ヶ島の復興で大きな障害となった青ヶ島-八丈島間の船の運航に関しては、天候状況を綿密に観察し、船長の独断で決めることなく他の乗組員の意見もふまえ、これで大丈夫という時に出航すべきとした。実際これまで多くの船が難破、遭難して復興に大きな支障をきたしていた青ヶ島-八丈島間の船は、次郎太夫が名主に就任した後は一度も遭難することがなく全て無事に運行されるようになった[44]

危機とその克服[編集]

次郎太夫の指揮の下、まず青ヶ島-八丈島間を繋ぐ船の建造が開始された。文政元年(1818年)6月には青ヶ島で開発に従事する人たちのための米、粟、麦が用意されており、本格的な青ヶ島の復興が開始されたことが確認できる。文政5年(1822年)頃にはかなり多くの島民が青ヶ島へ戻って生活をするようになっていたようで、青ヶ島に「頭取世話人」を置く話が持ち上がった。しかし名主次郎太夫の指揮の下に復興にいそしんでいた島民たちは、頭取世話人の設置を断った[45]

しかし次郎太夫による青ヶ島の復興は全て順調に進んだわけではなかった。まずこれまでの復興事業で大きな問題となったネズミは相変わらず復興の大きな妨げとなった。また復興に携わる人たちの「和」を何よりも重視した次郎太夫の指導下でも仲間割れは発生した。文政7年(1824年)5月の記録では、当時次郎太夫は八丈島にあって青ヶ島復興の総指揮を行い、青ヶ島では年寄の多兵衛が指揮を取っていたが、青ヶ島島内で多兵衛の派閥が勢力を持ち始め、次郎太夫や八丈島の地役人に対する批判を行い、また多兵衛の派閥に属さない人々を圧迫するようになった。そのため青ヶ島で復興に携わる人々同士の人間関係が悪化し、復興どころではなくなってしまった。この緊急事態に次郎太夫がどのような処断を下したかは明らかになっていないが、年寄を交代させ関係者を処罰したと考えられている[46]

還住の達成[編集]

年寄多兵衛らの問題が浮上していた文政7年(1824年)4月、名主の次郎太夫らごく一部の島民を除き、ほとんどの青ヶ島島民が帰島を果たした。天明5年(1785年)4月の離島から40年が経過しようとしていた[47]

帰還を果たした人々は、噴火とその後長い期間放置されていたことによって荒れ果てた土地の開墾、船着場、道路、水源地の整備など島の復興のために努力を続けた。そして激しいネズミの害については主に女性がネズミの駆除に携わった。かつての10人前後の人員ではどうにもならなかったネズミの害であったが、駆除を行う人数が増えたためにネズミは次第に大きな害をもたらさなくなってきた[48]

天保6年(1835年)、復興がほぼ成った青ヶ島は検地を受けた。検地の結果、4年後の天保10年から年貢の納入が決定されたが、一方で青ヶ島で生産することが困難である鍋や釜などの支給を受けられるようになり、また青ヶ島が年貢を納めるために使用する船を建造するために20両の助成金が受けられるようになった[49]

天保15年7月26日(1844年9月8日)、青ヶ島復興に大きな功績を挙げた佐々木次郎太夫伊信に対して、老中真田幸貫の名で銀10枚の褒賞と一代に限り苗字を許す旨の下知がなされた。佐々木次郎太夫伊信は嘉永5年4月11日(1852年5月29日)、青ヶ島で86歳の生涯を閉じたと伝えられている[50]

還住の語源と文学作品[編集]

八丈島と青ヶ島を結ぶ還住丸

火山の噴火によって止む無く故郷の青ヶ島を離れ、50年余りの年月を費やして再び青ヶ島での生活の復興を成し遂げることが出来た事実は、柳田國男昭和8年(1933年)に発表した「青ヶ島還住記」に取り上げられた。柳田が用いた「還住」という言葉はやがて苦難の末に青ヶ島住民が帰島を果たした事実を表す言葉として定着し、八丈島と青ヶ島を結ぶ定期船の名前にも用いられていた(2014年1月より、あおがしま丸に交代)。また柳田は還住の達成に尽くした名主次郎太夫を、青ヶ島還住記の中で「青ヶ島のモーゼ」と呼び、その功績を称えた[51]

また井伏鱒二は八丈実記の記録を参考にして、青ヶ島への還住を主題とした「青ヶ島大概記」を著した。

年表[編集]

  • 1780年(安永9年) 6日間の群発地震の後、池之沢から塩水の湯が大量に噴出し、噴煙も出て農地が大きな被害を受ける。
  • 1781年(天明元年) 池之沢から火山灰が噴出し、再び池之沢で湯が噴出し池之沢内の大池、小池の水位が急上昇した後、急速に水が引いたために、耕地の土砂が失われる。
  • 1783年(天明3年) 池之沢に大きな噴火口が出現し噴石、火山灰が大量に噴出した。池之沢に滞在中の島民が死亡し、噴火によって発生した火災のため多くの家屋が焼失した。耕地の多くが火山灰に埋まる。
  • 1785年(天明5年) 大噴火が発生。青ヶ島島内全体に噴石、火山灰が厚く積もり、青ヶ島での生活が不可能になったため1785年6月4日、島民は八丈島に避難するが、130-140名の島民は避難船に乗れず死亡する。
  • 1786年(天明6年) 八丈島島民の高村三右衛門は、自身が蓄えてきた500両を青ヶ島島民救済のために八丈島役所に提出。500両を基金として運用したお金は青ヶ島島民の食糧購入や復興資金に充てられることになる。
  • 1789年(天明9年) 青ヶ島の名主三九郎が青ヶ島を見分、島の復興は可能と報告した。青ヶ島の復興開発費として257両2分銀6匁が支給された。
  • 1793年(寛政5年) 青ヶ島に12名の島民が渡り復興計画が開始されるも、激しいネズミの害により復興は難航。ネズミの害に比較的強いと考えられた芋類を入手しようと八丈島に向かった5名の島民が行方不明に。
  • 1794年(寛政6年) 3度に渡って八丈島から青ヶ島に復興支援物資の輸送が行なわれるも1回しか成功せず、成功した1回も八丈島への帰還時に船が難破し、乗組員全員が死亡。
  • 1795年(寛政7年) 八丈島からの物資の輸送に成功。帰路も無事に八丈島へ戻った。
  • 1796年(寛政8年) 八丈島から青ヶ島へ向かった船は漂流の上房総半島に漂着、物資の輸送に失敗。
  • 1797年(寛政9年) 鳥島に漂着した野村長平らが青ヶ島にたどり着く。漂流民たちは復興に従事していた青ヶ島島民2名を水先案内人として八丈島へ向かう。八丈島に到着した2名から青ヶ島の現状を聞いた名主三九郎ら14名が青ヶ島へ向かうも、船が漂流して三九郎ら11名が死亡した。
  • 1799年(寛政11年) 八丈島から青ヶ島へ33名の島民が向かうも、船が漂流して紀州へ流される。
  • 1801年(享和元年) 青ヶ島で復興に従事してきた島民らが八丈島へ戻り、その後青ヶ島はしばらく無人島となる。
  • 1803年(享和3年) 勘定奉行松平信行の手代である秋元利右衛門が、八丈島の島民の半右衛門と青ヶ島名主の多吉らを伴い、無人島となっていた青ヶ島の見分を実施する。
  • 1806年(文化3年) 青ヶ島の起返願人となった半右衛門と青ヶ島名主の多吉が青ヶ島復興計画を立案するも、八丈島に飢饉が続いたため、計画の遂行は出来ず。
  • 1817年(文化14年) 佐々木次郎太夫伊信が青ヶ島の名主となり、青ヶ島の見分実施、復興計画の立案と精力的に帰島計画の実現に動き出す。
  • 1818年(文政元年) この頃から佐々木次郎太夫伊信の指導の下、青ヶ島への帰島計画の実施が進められる。
  • 1824年(文政7年) ほぼ全島民が青ヶ島へ帰島し、還住が達成される。
  • 1835年(天保6年) ほぼ復興成った青ヶ島で検地が実施される。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 小林(1980)によれば、噴火活動の激化によって八丈島へ避難した青ヶ島島民の青ヶ島帰還について、当時は「起返」ないし「開発」と呼んでいた。ここでは後述のように柳田國男の著作「青ヶ島還住記」以降、一般的に用いられるようになった還住を記事名とする。古くは「げんじゅう」と読むが、青ヶ島に関することでは「かんじゅう」と読まれることが多い。
  2. ^ 池之沢の地形についてはカルデラとされることが多い。ここでは気象庁活火山情報:青ヶ島の記述に従い火口とする。
  3. ^ 小林(1980)によれば、八丈島役所に提出された公式の記録では14名が死亡したとなっているが、八丈実記では7名死亡となっている。八丈実記の作者である近藤富蔵は被災した青ヶ島島民から直に確認した話としており、こちらが正しい記録である可能性もあるが、ここでは公式の記録に基づいた数字を採用する。
  4. ^ 小林(1980)によれば、このとき八丈島へ向かった青ヶ島島民の数は45名であったとの記録もある。
  5. ^ 柳田(1951)、小林(1980)によれば、文政4年(1821年)より利率が8分に引き下げられ、40両が青ヶ島島民のために使用されるようになったとする。

出典[編集]

  1. ^ 小林(1980)pp.15-17、内田(1991)「平成3年度第二次調査・青ヶ島」pp.26-29、樋口(2010)p.328
  2. ^ 小林(1980)pp.15-18、内田(1991)「青ヶ島の歴史的地理的環境」p.7
  3. ^ 小林(1980)pp.18-20、樋口(2010)p.328
  4. ^ 小林(1980)pp.18-21、pp.42-45、樋口(2010)p.328、気象庁活火山情報:青ヶ島
  5. ^ 小林(1980)pp.36-38、pp.74-76
  6. ^ 柳田(1951)pp.46-47、小林(1980)pp.95-119
  7. ^ 柳田pp.48-49、小林(1980)pp.122-130
  8. ^ 柳田(1951)pp.49-50、小林(1980)pp.119-122
  9. ^ 小林(1980)pp.133-135
  10. ^ 小林(1980)pp.130-139
  11. ^ 柳田(1951)pp.51-54、小林(1980)pp.139-150
  12. ^ 柳田(1951)pp.54-55、小林(1980)pp.150-163、茗荷(2010)p.74
  13. ^ 柳田(1951)pp.55-56、小林(1980)pp.163-164
  14. ^ 柳田(1951)pp.55-57、小林(1980)pp.164-168
  15. ^ 柳田(1951)pp.57-59、小林(1980)pp.168-170
  16. ^ 柳田(1951)pp.59-60、小林(1980)pp.170-184
  17. ^ 小林(1980)pp.184-185
  18. ^ 柳田(1951)pp.60-61、小林(1980)pp.184-186、樋口(2010)pp.328-329
  19. ^ 小林(1980)pp.184-189、p.228
  20. ^ 小林(1980)pp.186-189
  21. ^ 段木(1976)pp.164-165
  22. ^ 小林(1980)pp.189-192、pp.262-264、林(2010)p.257
  23. ^ 林(2010)p.257
  24. ^ 小林(1980)pp.193-195
  25. ^ 柳田(1951)pp.62-63、小林(1980)pp.200-202
  26. ^ 小林(1980)p.196
  27. ^ 小林(1980)pp.196-200
  28. ^ 柳田(1951)pp.64-65、小林(1980)pp.206-214
  29. ^ 柳田(1951)pp.64-65、小林(1980)pp.214-215
  30. ^ 小林(1980)pp.215-220
  31. ^ 小林(1980)pp.215-223
  32. ^ 小林(1980)p.216
  33. ^ 小林(1980)pp.221-227
  34. ^ 柳田(1951)pp.66-67、小林(1980)pp.227-235
  35. ^ 小林(1980)pp.231-236
  36. ^ 柳田(1951)pp.67-69、小林(1980)pp.236-241
  37. ^ 柳田(1951)p.69、小林(1980)pp.242-246
  38. ^ 柳田(1951)p.69、小林(1980)pp.246-248
  39. ^ 小林(1980)pp.268-269、pp.273-289
  40. ^ 小林(1980)pp.289-291
  41. ^ 柳田(1951)p.71、小林(1980)pp.294-305
  42. ^ 小林(1980)pp.300-307
  43. ^ 小林(1980)pp.300-307
  44. ^ 柳田(1951)pp.72-74,小林(1980)pp.307-317
  45. ^ 小林(1980)pp.317-329
  46. ^ 小林(1980)pp.329-333
  47. ^ 小林(1980)pp.331-333
  48. ^ 小林(1980)pp.332-334
  49. ^ 柳田(1951)pp.51-53、小林(1980)pp.334-357
  50. ^ 小林(1980)pp.357-364
  51. ^ 柳田(1951)p.44、菅田正昭のシマ論35 還住(かんじゅう)と還住(げんじゅう)

参考文献[編集]

  • 柳田國男「青ヶ島還住記」『創元選書 島の人生』創元社 1951年(1933年発表の著作)
  • 段木一行「離島伊豆諸島の歴史」明文社 1976年
  • 小林亥一「青ヶ島島史」青ヶ島村 1980年
  • 『小笠原諸島他遺跡分布調査報告書』東京都教育庁生涯学習部文化課 1992年
    • 内田保之「青ヶ島の歴史的地理的環境」
    • 内田保之「平成3年度第二次調査・青ヶ島」
  • 樋口秀司編『伊豆諸島を知る事典』東京堂出版 2010年 ISBN 978-4-490-10788-3
    • 林薫「八丈島」
    • 樋口秀司「青ヶ島」
  • 茗荷傑「青ヶ島島民の執念-噴火による無人島化からの復興」『地理55-3』古今書院 2010

外部リンク[編集]