達磨寺 (奈良県王寺町)
| 達磨寺 | |
|---|---|
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| 所在地 | 奈良県北葛城郡王寺町本町2-1 |
| 位置 |
北緯34度35分23.095秒 東経135度42分24.652秒座標: 北緯34度35分23.095秒 東経135度42分24.652秒 |
| 山号 | 片岡山 |
| 宗派 | 臨済宗南禅寺派 |
| 本尊 |
千手観音 達磨大師 聖徳太子 |
| 創建年 | 推古天皇21年(613年) |
| 開基 | 聖徳太子 |
| 中興年 | 延応年間(1239年 - 1240年) |
| 中興 | 勝月房慶政 |
| 札所等 | 聖徳太子霊跡第19番 |
| 文化財 |
絹本着色涅槃図・木造聖徳太子坐像・木造達磨坐像・達磨寺中興記石幢(重要文化財) 方丈(県指定文化財) 木造千手観音像ほか(町指定文化財) |
| 公式HP | 片岡山 達磨寺 |
| 法人番号 |
7150005006054 |
達磨寺(だるまじ)は、奈良県北葛城郡王寺町にある臨済宗南禅寺派の寺院。
歴史[編集]
この寺の創建については、推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山で飢えていた異人に衣食を施したという片岡山飢人伝説にからめて語られる。その後は、衰退と中興が繰り返され、江戸時代には幕府から30石が与えられた。
片岡山飢人伝説とは、『日本書紀』の推古天皇21年(613年)12月条[1]や『元亨釈書』に見える次のような話である。聖徳太子こと厩戸皇子が片岡山を通りかかったところ、飢えて瀕死の異人に出会った。太子はその異人に当座の寒さと飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えた。翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、すでに息絶えていたので、丁重に葬った。それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、死体は消えており、衣服だけがきちんとたたまれて、棺の上に置かれていた。これを知った里人は、あの異人は達磨大師の生まれ変わりに相違ないと言い、聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったのが達磨寺の始まりであるという。
建久年間(1190年~1198年)に解脱上人貞慶によって達磨像や堂が修理され、達磨寺と称するようになった。嘉禄年間(1225年~1228年)には興福寺によって焼き討ちされて衰亡するが、延応年間(1239年~1240年)に松尾の勝月上人によって再興される。永享年間(1429年~1441年)には建仁寺の南峯禅師が住持として入っている。
永禄年間(1558年~1570年)には松永久秀によって焼かれてまたも衰亡したが、正親町天皇の綸旨や豊臣秀頼の支援があり、再興している。江戸時代には徳川家康から30石の朱印地の安堵がなされている。
境内[編集]
達磨寺の境内には達磨寺1号墳・2号墳・3号墳と称される3基の古墳(6世紀頃の築造)が存在し、このうちの3号墳の上に本堂が建てられている。この古墳は平安時代には聖徳太子ゆかりの達磨大師の塚であると信じられていたようである。寺院としての形態が整うのは鎌倉時代以後と思われる。なお、1号墳は聖徳太子の愛犬である雪丸の墓とされている。境内には雪丸の像もある。
また、天正5年(1577年)10月の信貴山城の戦いで自害した松永久秀の墓がある。
文化財[編集]
重要文化財[編集]
- 絹本着色涅槃図
- 木造聖徳太子坐像 - 建治3年(1277年)作。
- 木造達磨坐像 - 永享2年(1430年)作。水墨画家として著名な周文が彩色を担当している。
- 達磨寺中興記石幢 附:石碑(嘉吉2年(1442年)銘)、青磁香炉、大甕2口
本堂背後に立つ高さ185cmの八角石柱。文安5年(1448年)建立。各面に達磨寺の由緒が刻まれている。附指定の3点は2000年(平成12年)に本堂改築工事に伴い石幢を移動した際、地下から検出されたもの。
奈良県指定文化財[編集]
王寺町指定文化財[編集]
- 木造千手観音像 - 室町時代作。
- 達磨寺石塔埋納遺構出土品 - 鎌倉時代。2002年(平成14年)に本堂の建て替えにともなう、発掘調査を行った際に出土。石製宝篋印塔が本堂基壇の下の小石室に入っていた。その石製宝篋印塔の中には、土師質の合子が入っており、さらにその中には水晶製五輪塔型舎利容器が入っていた。さらにその舎利容器の中には、非常に小型の石英片岩の舎利が入っているという何重もの入れ子構造をとっていた。13世紀前半に達磨寺3号墳が整備され、寺院として開基するときに納められたと考えられている。
交通アクセス[編集]
脚注[編集]
- ^ 達磨大師はの名は『日本書紀』の記事には無いが、『元亨釈書』には登場する。