道摩法師

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道摩法師(どうまほうし)は、平安時代呪術師、非官人陰陽師。一般的には、蘆屋道満あるいは芦屋道満として知られる。活躍したとされる時代の文献ではその名を確認できないことから、実在の人物なのか架空の人物なのかは不明である[1]

江戸時代の地誌『播磨鑑』によると播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とされる。また播磨国の民間陰陽師集団出身ともいわれる。

江戸時代までの文献では、ほとんどにおいて安倍晴明のライバルとして登場し、「正義の晴明」に対して「悪の道満」という扱いをされる。安倍晴明が伝説化されるのと軌を一にして、道満の伝説も拡散し、日本各地に「蘆屋塚」「道満塚」「道満井」の類が数多く残っている。

道満伝説[編集]

成立年代不明[編集]

金烏玉兎集[編集]

  • 「晴明朝臣入唐伝」
  • 晴明が幼少の折、道満が上京し晴明と内裏で争い負けた方が弟子になるという呪術勝負を持ちかけたことにより、帝は大柑子(みかん)を15個入れた長持を占術当事者である両名には見せずに持ち出させ「中に何が入っているかを占え」とのお題を与えた。早速、道満は長持の中身を予測し「大柑子が15」と答えたが、晴明は加持の上冷静に「鼠が15匹」と答えた。観客であった大臣・公卿らは中央所属の陰陽師である晴明に勝たせたいと考えていたが中身は「大柑子」であることは明白に承知していたので晴明の負けがはっきりしたと落胆した。しかし、長持を開けてみると、晴明が式神を駆使してに変えてしまっており、中からは鼠が15匹出てきて四方八方に走り回った。この後、約束通り道満は晴明の弟子となった、と言われているという。
  • 遣唐使として派遣され伯道上人のもとで修行をしていた晴明の留守中に晴明の妻とねんごろになり不義密通を始めていた道満が、晴明の唐からの帰国後に伯道上人から授かった書を盗み見て身につけた呪術で晴明との命を賭けた対決に勝利して晴明を殺害し、第六感で晴明の死を悟った伯道上人が急遽来日して呪術で晴明を蘇生させ道満を斬首、その後に晴明は書を発展させて『簠簋内伝金烏玉兎集』にまとめ上げた。
この『金烏玉兎集』を盗写したという伝説は、のちに浄瑠璃、歌舞伎に脚色された。

平安・中世文学[編集]

『宇治拾遺物語』[編集]

  • 「御堂関白の御犬晴明等奇特の事」(巻14の10
藤原道長が可愛がっていた犬が、あるとき主人の外出を止めようとした。驚いた道長が晴明に占わせると、晴明は式神の呪いがかけられそうになっていたのを犬が察知したのだと告げ、ほかにこんな呪術を知っているのは道満以外いないと考え、道満は囚われの身となる。その後、道満は生国播磨に流罪となる。『十訓抄』(7の21)、『古事談』(6の64)にも同様の説話が収録されている。

『峯相記』[編集]

『峯相記』(ほうそうき。ぶしょうき、みねあいき、とも)[2]には、藤原伊周が道満に依頼して、道に呪物を埋める呪詛を藤原道長に対して行い、それを安倍晴明が看破。道満は播磨国に流され、その地で没したとする説話が紹介されている。

歌舞伎・浄瑠璃[編集]

歌舞伎浄瑠璃の作品では竹田出雲の「芦屋道満大内鑑」(葛の葉で知られる)が有名である(全5段)。蘆屋道満は悪役として描かれることが多い。安倍晴明の父である安倍保名と芦屋道満はともに天文博士賀茂保憲(917-977)を師匠としているが、二人による後継者争いが物語の枠である[3]。しかしこの後継者争いのモデルとなった事実は、『続古事談』に記載のある出来事で、それによれば、賀茂保憲が陰陽道のうちの暦道をその子の賀茂光栄に、また天文道を安倍晴明に継がせたことが、陰陽道宗家を二分する結果になり、安倍晴明と賀茂光栄がどちらが師匠の賀茂保憲に器重されたについての論争をしたということである。

脚注[編集]

  1. ^ 『京都魔界探訪』(蔵田敏明・著、扶桑社・刊)には「平安時代に道満という名の陰陽師がいて、高階光子という貴族の女性に召し使われていたという記録はある」という記述(015ページ)があるが、高階光子(藤原伊周#翻弄と失意の晩年参照)が首謀者とされた寛弘6年(1009年)の敦成親王(後一条天皇)呪詛事件の政務記録(『政事要略』)では、呪詛を行ったのは僧侶である円能の所業であり、道満の名前はない。
  2. ^ 1348年に播磨国の峯相山(ほうそうざん)鶏足(けいそく)寺を参詣した僧が聞き書きしたとされる播磨国の地誌。
  3. ^ 国立劇場第72回歌舞伎鑑賞教室、民俗学的歌舞伎鑑賞第66回

関連項目[編集]