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近野信雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近野 信雄
生誕 1899年7月23日
山形県東置賜郡亀岡村
死没 (1944-03-13) 1944年3月13日(44歳没)
八丈島西方海面
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1921 - 1944
最終階級 海軍少将
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近野 信雄(こんの のぶお、1899年7月23日 - 1944年3月13日)は、山形県出身の大日本帝国海軍軍人。海軍兵学校48期卒業。太平洋戦争中に護送船団を指揮するが戦死。最終階級は海軍少将従四位勳二等[1]米沢海軍武官会会員[2]

生涯

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1899年(明治32年)に山形県で生まれる。生家の近野家は上杉謙信所縁の一族、毘沙門天信仰[3]大日本帝国海軍職業軍人の家系[4]山形県立米沢中学を卒業後、海軍兵学校に入学し、第48期で卒業。海軍軍人としては1942年(昭和17年)頃まで駆逐艦長、戦艦副長など海上勤務が中心であったが、1944年(昭和19年)1月7日に機雷学校教頭兼研究部長となる。

1944年3月には東松2号船団運航指揮官として前線に戻り、海軍徴用輸送船「国陽丸」に乗船。船団部隊の総指揮を執る第11水雷戦隊司令官の高間完少将の下で、輸送船12隻の統制にあたる。3月11日、八丈島西方をサイパン島に向け航行中のところ、アメリカ潜水艦「サンドランス」の攻撃を受けて「国陽丸」が沈没[5]。この際に行方不明となり、3月27日付で戦死と認定された[6]。同時に雷撃された軽巡洋艦「龍田」座乗の第11水雷戦隊司令部は、「龍田」が航行不能(10時間後に沈没)となったために駆逐艦「野分」に移って船団の指揮を継続したが[7]、近野大佐は40分ほどかかった「国陽丸」沈没時に退艦しなかった。[8]戦死後に少将。

年譜

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その他

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脚注

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  1. ^ a b 『日本海軍史 第10巻』「近野信雄」
  2. ^ 『遠い潮騒』p.145
  3. ^ 花ヶ前盛明 『越後上杉一族』 新人物往来社、2005年。
  4. ^ 日本遺族通信2010年。
  5. ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II(2011年12月14日閲覧)
  6. ^ 第十一水雷戦隊司令部 『東松第二号船団部隊戦闘詳報』 アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C08030127000、画像5枚目。
  7. ^ 第十一水雷戦隊司令部 『東松第二号船団部隊戦闘詳報』 JACAR Ref.C08030127000、画像48枚目。
  8. ^ 財団法人「日本遺族通信」。
  9. ^ 日本遺族会新宿遺族会平成23年度役員名簿。

参考文献

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  • 松野良寅『遠い潮騒 米沢海軍の系譜と追憶』米沢海軍武官会、1980年。 
  • 松野良寅『海は白髪なれど 奥羽の海軍』博文館新社、1992年。ISBN 4-89177-945-4 
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史第10巻』第一法規出版、1995年。 
  • 日本遺族会『日本遺族通信』日本遺族会出版、2010年。