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近藤正二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近藤 正二
アサヒグラフ1955年11月2日号より
生誕 (1893-02-05) 1893年2月5日
大日本帝国の旗 大日本帝国 新潟県新潟市
死没 1977年1月22日(1977-01-22)(83歳没)
日本の旗 日本国 宮城県仙台市
教育 東京帝国大学
著名な実績 栄養と体格・体力・寿命の関係の発見
食生活改善の啓蒙普及
学校給食の推進向上
国民体力の向上
健康長寿の実証的解明
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近藤 正二(こんどう しょうじ、1893年明治26年〉2月5日 - 1977年昭和52年〉1月22日)は、日本医師衛生学者。医学博士東北大学名誉教授。

略歴

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新潟県新潟市本町通10番町(現 新潟市中央区本町通10番町)の薬種商・近藤市蔵の次男として出生[1][注 1]

1910年明治43年)3月に新潟中学校を卒業[注 2][注 3]1913年大正2年)7月に第一高等学校を卒業[注 4][注 5]1917年(大正6年)12月に東京帝国大学医科大学医学科を卒業[5][注 6][注 7]

1918年(大正7年)1月に東北帝国大学医科大学細菌学教室細菌学講座(担任:青木薫教授)助手に就任[5]1920年(大正9年)11月に東北帝国大学医学部細菌学教室細菌学講座講師に就任[7]1921年(大正10年)3月に助教授に就任[8][注 8]

1925年(大正14年)3月に文部省在外研究員として出発[9]ドイツフライブルク大学パウル・ウーレンフートのもとで衛生学を研究、イギリスアメリカの各大学の衛生学研究の状況を視察[10]1927年昭和2年)6月に帰国[11][注 9]

1927年(昭和2年)8月に東北帝国大学医学部衛生学教室衛生学講座初代教授に就任[13][14][注 10]1937年(昭和12年)7月に東北帝国大学医学部第13代学部長に就任[15][注 11]

1956年(昭和31年)3月に東北大学を定年退官、東北大学名誉教授の称号を受称、7月に北海道学芸大学教授に就任、1959年(昭和34年)3月に北海道学芸大学を定年退官[5]

宮城学院女子大学宮城学院女子短期大学三島学園女子大学三島学園女子短期大学尚絅女学院短期大学の講師や仙台白百合短期大学の教授に就任[17]

大学での講義を終えて自宅で休んでいる間に胃から出血を起こし[18]1977年(昭和52年)1月22日午後2時50分に東北大学医学部附属病院胃潰瘍のため死去[19]、墓所は宮城県仙台市青葉区八幡龍寶寺[18]、戒名は明教院覚寿正道居士。

1935年(昭和10年)から36年間にわたり、北海道の北端から沖縄八重山諸島まで、日本全国の990ヵ町村を訪ね歩き、それぞれの食生活寿命の関係を調査し、その結果の概略が『日本の長寿村・短命村』という本にまとめられた[20]

調査・研究

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短命の原因

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1930年代日本の人口に対する70歳以上の者の比率・長寿者率欧米の半分程度(約2.65%)であり、日本人は短命であった。短命の原因を突き止めるため、近藤正二は日本全国の長寿者率が高い村・長寿村と長寿者率が低い村・短命村において気候地理的条件、生活事情(老人たちの若い時代からの労働食生活飲酒飲料水迷信風習など)について実地調査を行って比較検討した。その結果、寿命と最も大きな因果関係があるものは食生活であることが明らかになった[21][22]

近藤正二は1935年昭和10年)から40年以上にわたり日本全国の1000ヵ所以上の長寿村と短命村において食生活と寿命の関係を調査した[18][23][24]。若い年齢層が多く転入・転出する村は一律に見ることができないため省いている[25][注 12]

長寿村と短命村の食生活

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長寿村と短命村の食生活を要約すると次のとおりである[27][28][29][30][31][32][33][34][35][36][37][38][39][40]

長寿村
  1. 大豆を十分に食べ、野菜を多く食べている
  2. 海藻を常食している
短命村
  1. を偏食・大食している
  2. 魚を大食し、野菜を食べない

健康長寿の食生活

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近藤正二は健康長寿のための食生活の在り方を提示した[41][42][43][44]

  1. を偏食・大食しない
    • 米の偏食・大食は塩分の過剰摂取を伴ううえに、それだけで満腹になってしまい、ほかの栄養を摂取できなくなる[45]
  2. または大豆を毎日十分食べる
  3. 野菜を多く食べる
  4. を少しずつ毎日食べる
  5. 海藻を常食する
  6. なるべく牛乳を飲む
    • 牛乳は体質を強化するうえに身長の伸長に何物にも勝る効果があるので、せめて成長期だけでも飲むこと(山羊乳脱脂粉乳でも良い)[65][66][注 19]。牛乳の脂肪は高齢者には良くないため、近藤正二は豆乳を飲むようにしていた[68]
  7. 小魚を頭から食べる
    • 栄養学が今日のように進歩を見ても、人体が必要とする栄養成分がすべて解明されているわけではない。まだ未知の成分が無限にある。小魚を頭から食べ、野菜や果物を丸ごと食べることで、人間がまだ解明していない栄養成分までを摂ることができる」と近藤正二は述べている[69]

飲酒と寿命の関係

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近藤正二は長寿村の食生活の一つとして、「をあまり飲まない」ことを挙げているが、絶対の条件とはしていない[70]。酒を飲んだからといって短命になるものではない、ほどほどの飲量なら生命への障害になるものではないと述べている[71]。また、酒は百薬の長であるというデータはないとも述べている[72]

虚弱児だった近藤正二の願い

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近藤正二は虚弱児として生まれ、医者に「生まれつき弱く生まれたんだから仕方がない」と見放され、周囲は「この子は長生きはできなかろう」とあきらめていた。神仏に頼るしかないと、母親に連れられ歩いて遠くの神社寺院にまで参拝した。小学生の時は年に100日休み、競走はいつもビリ、昼休みは一人残って弁当を食べた。弱いなら弱いなりに鍛えなければならないと思い、毎日歩くことを欠かさなかった[注 20]。少しずつの鍛錬が自分を支えてきたと近藤正二は述懐している[75]

近藤正二の長寿村と短命村の調査における真の狙いは、長寿者が多いか少ないかではなく、老衰が遅いか早いかであった。長寿村では老衰が遅く、老人でもみんな元気で働いていた。一方、短命村では老衰が早く、50代で既に体力が弱っていた。老衰が早いのは食生活の欠陥が大いに関係していて、これが改善されれば、仕事をしても比較的に疲れない体になると近藤正二は確信していた[76]

近藤正二は「人間は少なくとも70歳以上まで健康で生きてもらいたい、そのかわり私は百何十歳という英雄的な長寿は、必ずしも考えなくてもいいのではないか、百何十歳の人がいても、いなくてもいい。むしろ遠慮なく言わしていただくなら、百何十歳にならなくても、結構なのであって、そのかわり国民がそろって70歳を越えるまで、健康で自分の仕事をする、という国にしたい」という念願を繰り返し述べている[77]

裏話

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近藤正二は1929年昭和4年)から仙台鉱山監督局衛生技師を務めていた。福島県から茨城県に広がる常磐炭鉱の坑内は湧き出す温泉高温高湿のため、熱中症で倒れる者が非常に多かったので、どういう条件で熱中症が起こるかを調べるため、何度も出張して毎日坑内に入って検査を行った。「坑内作業場における気温摂氏37度以下となすべし」という法規があったが、坑内で起こった熱中症の実例を集めて検討したところ、湿球温度が31度以上で熱中症が起こることが分かったので、坑内では必ず湿球温度計を使って31度以下にしておくよう指導した。戦後労働基準法の細則が制定される際、近藤正二は関係専門学者からなる諮問委員会の委員に遅れて任命され、初めて委員会に出席したところ、すでに答申案ができていて、そこには「坑内気温は37度以下」と書いてあった。そこで、常磐炭鉱の実例を説明して31度以下にするべきだと主張して承認されたが、答申案はすでに関係機関に提出されていて改正は次の機会ということになり、37度以下のままになった[78]。現行法令労働安全衛生規則の第611条でも37度以下のままである[79][80]

近藤正二は1929年(昭和4年)から宮城県仙台市の小学校で児童の発育を調査していたが、教室には暖房がなかったため、ストーブを置くべきだと市に訴えた。ところが、市会議員には賛成者が少なく、特に軍人上がりの市会議長は自分たちが年を取っても丈夫でいるのは寒い所で鍛錬してきたからで、ストーブを使ったら人間が弱くなると言って反対した。そこで、近藤正二は地元の新聞『河北新報』に鍛錬と非衛生は違うものだという説を発表して市民に訴えた。それが奏功し、市会議員に理解されてストーブを置くことになった。だが、小学校の1学級は児童数が多くてストーブを置く場所がなかったため、教室を増築しなければならなかった。幸いなことに、ストーブ反対派であった市会議長がストーブ賛成派となって力を尽くし、教室を増築してストーブを置くことが1934年(昭和9年)に完了した[81]

1931年(昭和6年)夏に紫外線の研究のため長野県蓼科高原に滞在していた近藤正二は日本画家の青年・小尾 迪幽(おび てきゆう)と知り合った。近藤正二は非凡な画才を持つ小尾迪幽を仙台に招き、自宅の2階に仮住まいさせることにした。それから数年間、小尾迪幽は制作活動の傍ら、東北帝国大学第二高等学校の有志の教官たちに絵を教えた。しかし、持病の日本住血吸虫症が悪化したため、故郷に帰り療養していたが、1936年(昭和11年)9月に38歳で亡くなった。小尾迪幽の死を悼み、近藤正二ら東北帝国大学と第二高等学校の教官たちが小尾迪幽の故郷の山梨県甲府市の西教寺(廃寺)の墓地に墓碑を建てた。その墓碑の側面には小尾迪幽に絵を習っていた第二高等学校名誉教授・土井晩翠の自筆の歌が刻まれている。「天上の白玉樓に筆揮ふ君の影見る秋の夜の夢 晩翠」[82]

戦争で米の配給制が実施された途端に仙台市の児童の身長も体重も発育の速度が低下し始めたため、近藤正二は文部省厚生省などに数字のデータを示して報告した。文部省に対しては全国的な調査を行うよう3回も頼んだが行ってくれなかった。ところが一方、厚生大臣小泉親彦が近藤正二の報告を取り上げ、児童の体格が低下し始めたことは重大事で、文部省が調査をやらないなら厚生省がやるしかないと言って、厚生省が全国的な調査を行い、小泉親彦が帝国議会で報告した[83]

食糧事情が悪化した戦争末期、が足りなければサツマイモを食べよと唱える内原訓練所所長の加藤完治や、米の配給を減らしても国民の体力が続くかどうか近藤正二に意見を求めた農商大臣石黒忠篤に、米やサツマイモを腹いっぱい食べても、タンパク質を十分に摂取しなければ体力が続かないと、近藤正二は大豆の必要性を説いた。それを聞き入れた石黒忠篤が大豆の緊急増産命令を出し、日本全国の桑畑のの木が切られて大豆畑が作られたが、大豆が採れる前に戦争が終わった[84]

戦後、1946年(昭和21年)10月に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) 公衆衛生福祉局 (PHW) 栄養顧問のポール・E・ハウ大佐が近藤正二を訪ね、学校給食に何を出したらいいか、小麦粉のパンか、それとも、動物性の食物か、意見を求めた。近藤正二は戦争による栄養不足で貧弱になった児童の体格を考慮し、身長を伸ばす動物性タンパク質を含む食物がいいと答えた[注 21]。すると、ハウ大佐はミルクを提案し、近藤正二はそれに同意した。そして、1947年(昭和22年)に日本全国でミルクの学校給食が開始されると[注 22]、同年10月の身体測定で児童の身長が著しく向上する結果になった[53][86][87][88][89][90]

表彰

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栄典・賞

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称号

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関連人物

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友人

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家族・親戚

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その他

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著作物

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著書

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  • 『長寿村ニッポン紀行 食生活の秘密を探る』女子栄養大学出版部〈栄大ブックス〉、1972年。
  • 『日本の長寿村・短命村 若いときの食物が決める』サンロード、1972年。
  • 『学童の発育と食べもの 学童の体位向上を願って40年』食生活研究会、1972年。
  • 『その食生活では若死する』叢文社、1973年。
  • 『長寿者の健康食の実態 長寿村・短命村の全国調査が教える長生きの秘訣』永岡書店〈スーパーブックス 1〉、1975年。

論文

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脚注

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注釈

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  1. ^ 近藤正二の生家があった場所は、現在 駐車場(新潟市中央区本町通10番町1800)になっている。
  2. ^ 近藤正二は小学生の時、家業の薬種商を継がなければならないと思って新潟商業学校に進学しようと考えていたが、先生の勧めで新潟中学校に進学した[2]
  3. ^ 近藤正二は5年間、常に首席で級長であり[3]、推薦により無試験で第一高等学校に入学した[4]
  4. ^ 近藤正二は中学生の時、細工や機械いじりが好きだったので東京高等工業学校に進学しようと考えていたが、校長と先生の勧めで第一高等学校に進学した[2]
  5. ^ 近藤正二は3年間、東龍太郎岡治道緒方益雄鯉沼茆吾佐々貫之高野素十都築正男と同じクラスであった。
  6. ^ 近藤正二は中学5年生の時、家業が薬種商なので、多少とも関係がある医科大学に進学しようと考え、第一高等学校の第三部(医科大学進学部)に進学した[6]
  7. ^ 1915年大正4年)6月の第1期医学科試験に合格、1917年(大正6年)7月に医学科の全課程を修了、同年9月から12月まで実施された第2期医学科試験に合格して医師免許を取得、1918年(大正7年)7月9日の「卒業證書授與式」で卒業証書を受領。
  8. ^ 1925年(大正14年)6月に東北帝国大学から医学博士号を取得。
  9. ^ 1926年(大正15年)にオーストリアウィーンに滞在していた近藤正二は育児院の子どもたちと仲良くなり、日本に帰国してすぐに仙台の仙台キリスト教育児院を訪ね、色々と寄贈するようになった[12]
  10. ^ 1929年昭和4年)4月から仙台高等工業学校講師を兼任。
  11. ^ 1939年(昭和14年)7月に退任[16]
  12. ^ 若者が流出している現代の過疎地域とは異なり、近藤正二が調査していた時代のへき地の村々は若者の転入・転出があまりなく、その土地に生まれた者がその土地にずっと一生住んでいた[26]
  13. ^ 動物性タンパク質を摂取しないと身長が伸びないので、成長期にはチーズなどを常食するべきである[47][48]
  14. ^ ただし、肉の大食は有害である[49]
  15. ^ 植物性タンパク質を摂取しても身長は伸びないが、筋力の発達には効果がある[51]
  16. ^ 果物野菜の代わりにはならない[57][58]
  17. ^ 大豆は野菜の代わりにはならない[59]
  18. ^ ただし、の大食は有害である[62]
  19. ^ 酪農村は長寿村が多かったが、当時の70歳以上の者が若い時から牛乳を多く飲んでいたとは思われないし、また、酪農村はに恵まれなく、雑穀や大豆を食べる所が多かった。そのため、酪農村が長寿村でも牛乳のためとは言えない[67]
  20. ^ 近藤正二は小学生の時には毎週日曜日、天気が良ければ新潟市(現 新潟市中央区)の自宅から新潟県中蒲原郡亀田町(現 新潟市江南区)まで歩いて往復した[73]。学生の時には夏季休暇東京から新潟の実家まで歩いて帰ったことがある[4][74]
  21. ^ 近藤正二の研究によって動物性タンパク質を摂取すると身長が伸びることが判明していた[85]
  22. ^ アメリカから供与されたミルク脱脂粉乳で、家畜の飼料用として粗雑に扱われたために品質が悪くて味や臭いが酷かった。

出典

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  2. ^ a b 長寿者の健康食の実態』16頁。『郷土の碩学』168頁。
  3. ^ 長寿者の健康食の実態』15-16頁。『郷土の碩学』168頁。『青山百年史』127頁。『靑山百二十年史 I』127頁。
  4. ^ a b c 日本の長寿村・短命村』18頁。
  5. ^ a b c 公衆衛生』第26巻第7号、393頁。
  6. ^ 長寿者の健康食の実態』17頁。
  7. ^ 講師囑託」「學事」「彙報」『官報』第2506号、239頁、内閣印刷局、1920年12月8日。
  8. ^ 敍任及辭令」『官報』第2581号、308頁、内閣印刷局、1921年3月12日。
  9. ^ 在外硏究員出發竝歸朝」「學事」「彙報」『官報』第3810号、199頁、内閣印刷局、1925年5月7日。『学童の発育と食べもの』92頁。
  10. ^ 敍任及辭令」『官報』第3705号、698頁、内閣印刷局、1924年12月26日。『長寿者の健康食の実態』26頁。『郷土の碩学』169頁。『東北大学五十年史 上』848頁。
  11. ^ 在外硏究員歸朝」「學事」「彙報」『官報』第192号、477頁、内閣印刷局、1927年8月18日。『東北大学五十年史 上』848頁。
  12. ^ 陽なたの孤児』109-114頁。
  13. ^ 基礎講座の百年 赤池 孝章 教授東北大学大学院医学系研究科・医学部 100th Anniversary.
  14. ^ 敍任及辭令」『官報』第189号、386頁、内閣印刷局、1927年8月15日。『東北大学五十年史 上』848頁。
  15. ^ 敍任及辭令」『官報』第3160号、441頁、内閣印刷局、1937年7月16日。『東北大学五十年史 上』735・739・849頁。
  16. ^ 敍任及辭令」『官報』第3758号、666頁、内閣印刷局、1939年7月17日。『東北大学五十年史 上』739・849頁。
  17. ^ 河北年鑑 1960』昭和35年版、412-414頁。『河北年鑑 1977』昭和52年版、652頁。『全国大学職員録 昭和38年版』541・543頁。『全国短大・高専職員録 昭和39年版』81頁。『全国短大・高専職員録 昭和42年版』82頁。
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  19. ^ 新潟日報』1977年1月24日付朝刊、15面。
  20. ^ 日本の長寿村・短命村』28-29頁。『日本の長寿村・短命村』新版、30-31頁。
  21. ^ 日本の長寿村・短命村』25-27・30・32頁。『日本の長寿村・短命村』新版、27-29・32・34頁。『労働の科学』第24巻第3号、38頁。
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  24. ^ 新潟県 県民百科事典』378頁。『日本近現代 医学人名事典 1868-2011』268頁。『事典 日本の科学者 科学技術を築いた5000人』335頁。『20世紀日本人名事典 あ〜せ』1077頁。『日本人名大辞典』800頁。
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  36. ^ 昭和の長寿研究書が説く「海藻」の長寿効果と塩分の危険性│NEWSポストセブン
  37. ^ 990か所を調査、伝説的な長寿研究書が説く「長寿のルール」│NEWSポストセブン
  38. ^ 現代にも通じる理論、1972年出版の『日本の長寿村・短命村』│NEWSポストセブン
  39. ^ 昭和の長寿研究本書いた医学博士が毎日食べていた弁当の中身│NEWSポストセブン
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参考文献

[編集]
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関連文献

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外部リンク

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学職
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日本連合衛生学会総会会長
第9回:1937年4月
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日本産業衛生協会企画運営委員長
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日本学校保健学会総会会長
第5回:1958年10月
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