足利義根

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足利 義根
時代 江戸時代
生誕 延享4年8月7日1747年9月11日
死没 文政9年10月8日1826年11月7日
改名 又太郎(幼名)、義根
別名 :子寛、平台、通称:熊八郎、後に左衛門
号:栖龍(系図纂要』)
戒名 了義院殿圓山道覺大居士[1]
墓所 等持院墓地
幕府 江戸幕府
氏族 足利氏(平島公方)
父母 父:平島義宜
母:羽林家中納言持明院基輔の娘
兄弟 平島義智(又太郎)、三ツ(桜井氏福室、光姫)[2]義根平島義人平島義豊(右近。君王と号す)、義恭(源三郎。君敬と号す)、妹
正室:猶(貝塚卜半の娘・西洞院家養女)
円明院[3]、 政丸[4]義寛、義直[5]義俊

足利 義根(あしかが よしね/よしもと[6])は、江戸時代後期の阿波国徳島藩士。平島公方9代。8代平島義宜の次男。脱藩前の石高は1190石。

経歴[編集]

宝暦12年(1762年)に兄の義智が家督を継ぐ前に早世したので、家督を継ぐ。学問を好み漢詩に長けていた。京より儒学者の島津華山を招聘し、平島館の屋敷内に栖龍閣と称する家屋を与え、一族家臣、近郷の同好の士を集め、華山に師事し、義根の師匠として教育を依頼した。義根は学問を好み、文才に長け、徳島藩の儒学者那波魯堂や多くの文人、墨客、高僧、名士らと交わり、京にも上り公家や文人らと交流を重ねた。著書に『栖龍閣詩集』(天明6年(1786年)頃発行、原本は阿南市有形文化財・阿波公方民俗資料館蔵)がある。島津華山の養子朝彦梁が編纂を手伝い、京に居を定めた時も従っている。

文化2年(1805年)、多くの文人らが出入りするため、出費が何かと多く、藩主蜂須賀治昭に増禄を願い出たが、父の義宜の頃に950石加増された[7]こともあってか容れられず、蜂須賀家から離反して阿波の地を去り、紀州から京へと入り、足利姓に復した。紀州徳川家からの援助があったと伝えられ、京に住した平島公方家には、紀州徳川家から毎年200両の援助[8]があり、明治30年(1897年)頃まで援助が続いた。また、等持院など足利氏ゆかりの寺院からの援助で細々と食いつないでいた。

文政9年(1826年)10月8日、北野七本松(現在の一条七本松)にあった崇禅寺にて卒去。

脚注[編集]

  1. ^ 京都等持院墓地足利家墓所内墓碑銘
  2. ^ 平島公方史料集p.406
  3. ^ 平島公方史料集p.406
  4. ^ 平島公方史料集p.406,p.412
  5. ^ 平島公方史料集p.406
  6. ^ 阿南市立阿波公方民俗資料館内掲示の系図内
  7. ^ 『姓氏家系大辞典 第3巻』参照
  8. ^ 阿波公方民俗資料館蔵・系図の写しには、紀州より年分金100円とある。

参考文献[編集]

  • 大田亮『姓氏家系大辞典 第3巻』
  • 『系図纂要』
先代:
平島義宜
平島公方
第9代
次代:
足利義俊