趙穿
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趙 穿(ちょう せん、生年不詳 - 紀元前607年頃[1])は、中国春秋時代の晋の政治家。姓は嬴、氏は趙、諱は穿。邯鄲氏の祖。晋の襄公の女婿、趙盾の従兄弟、趙旃の父。
生涯
[編集]→「河曲の戦い (紀元前615年)」も参照
紀元前615年、秦の康公が晋を攻めると、晋の上卿趙盾が軍を率いて河曲でこれを迎え撃った。晋の大夫臾駢は、秦軍は糧秣の欠乏のため長期戦に持ち込むことはできないと判断し、堅守して好機を窺うよう進言した。一方で秦へと逃れていた晋の大夫士会は、臾駢の策を見破って晋軍の兵営への急襲を敢行、しかのみならず趙穿を誘くことにも成功し、趙穿は孤軍で出撃してしまう。このため趙盾は趙穿が秦軍の俘虜となることを憂えて、直ちに出師して救援し、秦軍と暫く交戦したのち撤兵した。そしてこの夜、秦軍も兵を退けた。
董狐の筆
[編集]→「董狐」も参照
紀元前607年、時の晋君霊公が趙盾との軋轢を深めてその暗殺を図るなどしたため、趙穿はこれに憤り桃園に於いて霊公を弑し、未だ越境を為していなかった趙盾が帰国すると、伴って公子黒臀(のちの成公)を後主として擁立した[3]。なお、実際には霊公を弑したのは趙穿であったが、史官の董狐は上卿という地位にありながらその趙穿を誅伐しなかった趙盾を咎め、「盾、其の君を弑す」と記した。この董狐の態度は後世能吏と讃えられた[4]。
脚注
[編集]- ↑ 趙穿は趙盾よりも先に死んだため、趙穿の没年は趙穿が霊公を弑した紀元前607年から、趙盾の没した紀元前601年頃までの間と考えられる。
- ↑ 左丘明『春秋左氏傳』「文公十二年」:冬,秦伯伐晉,取羈馬,晉人禦之,趙盾將中軍,荀林父佐之,郤缺將上軍,臾駢佐之,欒盾將下軍,胥甲佐之,范無恤御戎,以從秦師于河曲,臾駢曰,秦不能久,請深壘固軍以待之,從之,秦人欲戰,秦伯謂士會曰,若何而戰,對曰,趙氏新出其屬曰臾駢,必實為此謀,將以老我師也,趙有側室曰穿,晉君之婿也,有寵而弱,不在軍事,好勇而狂,且惡臾駢之佐上軍也,若使輕者肆焉,其可,秦伯以璧祈戰于河,十二月,戊午,秦軍掩晉上軍,趙穿追之不及,反,怒曰,裹糧坐甲,固敵是求,敵至不擊,將何俟焉,軍吏曰,將有待也,穿曰我不知謀,將獨出,乃以其屬出,宣子曰,秦獲穿也,獲一卿矣,秦以勝歸,我何以報,乃皆出戰,交綏,秦行人夜戒晉師曰,兩君之士,皆未憖也,明日請相見也,臾駢曰,使者目動而言肆,懼我也,將遁矣,薄諸河,必敗之,胥甲,趙穿,當軍門呼曰,死傷未收而棄之,不惠也,不待期而薄人於險,無勇也,乃止,秦師夜遁,復侵晉,入瑕,城諸及鄆,書時也。
- ↑ 司馬遷『史記』「晉世家」:盾遂奔,未出晉境。乙丑,盾昆弟將軍趙穿襲殺靈公於桃園而迎趙盾。趙盾素貴,得民和;靈公少,侈,民不附,故爲弒易。盾復位。晉太史董狐書曰「趙盾弒其君」,以視於朝。盾曰:「弒者趙穿,我無罪。」太史曰:「子爲正卿,而亡不出境,反不誅國亂,非子而誰?」
- ↑ 精選版 日本国語大辞典『「董狐」の意味・読み・例文・類語』コトバンク。2025年12月10日閲覧。