趙氏貞

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趙氏貞
TuongBaTrieu.jpg
バ・チェウ廟にある像
各種表記
クォック・グー Triệu Thị Trinh (Triệu Ẩu)
漢字チュノム 趙氏貞 (趙嫗)
北部発音: チェウ・ティ・チン (チェウ・アウ)
音読み ちょう してい(ちょう おう)
英語表記: (Lady Triệu)
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趙 氏貞(ちょう してい、ベトナム語: Triệu Thị Trinh / 趙氏貞黄武4年(225年)? - 赤烏11年(248年)?)は、3世紀交州九真郡(現在のベトナム北中部タインホア省)の反乱指導者。趙 嫗(ちょう おう、ベトナム語: Triệu Ẩu / 趙嫗)の名や、婆趙(バ・チェウ、ベトナム語: Bà Triệu / 婆趙)や趙 貞娘(チェウ・チン・ヌオン、ベトナム語: Triệu Trinh Nương / 趙貞娘)としても知られている。身長9で、3尺もの乳房を持ち、それが鎧に収まらなかったために肩へ回していたという。

生涯[編集]

趙氏貞に関する最古の史料は『大越史記全書』である。「九真郡の女趙嫗なるもの、衆を集めて郡県を攻掠す。(陸)胤これを平らぐ」という記述があり、注釈に「(趙)嫗は乳長三尺、背後に施(およ)ぶ。常に象の頭に乗り、敵と戦を交う」とある。また、その本拠は「九真山」と書かれ、「党を結んで郡県を剽掠す」とあるように、最初期の趙氏貞は各地を荒らし回った山賊の渠帥の類として記録されていた。しかし、ベトナム民族ナショナリズムが高まるにつれて、「中国の支配に抵抗した民族の英雄」として祭り上げられていった。

赤烏11年(248年)、23歳の時に兄の趙国達ベトナム語版らとともにに対して反乱を起こし、「麗海婆王」と呼ばれて恐れられた[要出典]。初めは連戦連勝で九真の呉軍を蹴散らしたが、交州刺史陸胤が兵を率いてくると半年にわたる激戦となった。陸胤は趙氏貞が生娘であることを知って全裸になり、彼女が恥ずかしがったところを打ち破ったという話がある。趙氏貞の最期は河に身を投げたとも、象に踏まれて死んだとも言われている。

ヌア山ベトナム語版のバ・チェウ廟