趙旉

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趙 旉(ちょう ふ、建炎元年6月13日1127年7月23日) - 建炎3年7月11日1129年7月28日))は、南宋の初代皇帝高宗の一人息子で皇太子

生母は開封府の人で、北宋末期から南宋初期の医官である潘永寿の娘の潘賢妃諡号元懿太子(げんいたいし)。

生涯[編集]

建炎3年(1129年)、高宗の政策に反対する李綱ら武断派の重臣たちの圧力によって、わずか3歳で父からいったん譲位された。だが、秦檜張浚ら文治派の家臣たちの猛反対で元の太子に戻った。

宋史』によると、彼は病弱で、この年の秋7月にわずか3歳で夭折した。その時の父の高宗の悲しみは尋常でなく、数日間は涙が溢れ出して慟哭を繰り返していたという。また、乳母と用人がこのために誅殺された。

高宗の男子は他になく、太祖の第4子の趙徳芳の末裔という遠縁の趙孝宗)を養嗣子に迎えた。

『宋史』[要文献特定詳細情報]の記述[編集]

巻二百四十六 列伝第五[編集]

元懿太子諱旉,高宗子也,母潘賢妃。建炎元年六月,生于南京。拜檢校少保、集慶軍節度使,封魏國公。金人侵淮南,帝幸臨安,會苗傅、劉正彦作亂,逼帝禪位于旉,改元明受。既而傅等伏誅,帝復位,乃以旉為皇太子,從幸建康。太子立,屬疾,宮人誤蹴地上金鑪有聲,太子驚悸,疾轉劇,薨,諡元懿。

宋史巻二百四十四 列伝第三[編集]

建炎二年,分西外宗子於泰州,命令懬知西外宗正事,除御營使司參贊軍事,挈宗子避地福州,因置司焉。元懿太子薨,帝命令懬選藝祖後得三四人,尋擢集英殿修撰,知南外宗正。