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超越 (官位)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

超越(ちょうおつ)は、日本の公家社会において、官位上の下臈が上臈を越えて昇進することをいう[1]。中世の神社社会でも、下位の社司が上位者を越えて補任されることを「超越」と称した[2]

家格や嫡庶、外戚関係、現職での奉公、公事を行うための資格、功労に対する勧賞などが超越の理由となった[3]。その理由が周囲から受け入れられない場合には、人事が「驚目」や「邪政」と批判され[4]、超越された者が辞職、出家、籠居、不仕などによって抗議することもあった[5]

籠居・不仕が容認されるか処罰されるかは、為政者と廷臣の力関係を含む政治力学によって決まったとされる[6]

語義

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「超越」は一般に「ちょうえつ」と読まれるが、順序を飛び越えて高い地位に就く意味では「ちょうおつ」と読まれる[7]。『色葉字類抄』などの古辞書には「てうをつ」の読みがみえ、『親長卿記』長享2年(1488年)4月16日条には「てうおつ」と記されている[1]

古い例としては、神亀4年(727年)に参議阿倍広庭藤原房前を越えて中納言に昇進した事例がある[1]

家格の形成

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公家社会における家格の成立時期については、その成立を何によって判断するかにより見解が分かれている。橋本義彦は、院政期摂関家清華家羽林家名家など、官途と結びついた家格が成立したと論じた。玉井力はこれをさらに区分し、清華家と名家は白河鳥羽院政期、羽林家は後白河院政期に形成されたとした。一方、佐伯智広は、政治状況に左右されず、出身によって昇進経路と極官が半ば自動的に定まり、それが子孫に継承される段階を家格の成立と捉え、清華家などの成立時期を後鳥羽院政期に求めている[8]

これに対し、金玄耿は、昇進が安定していない段階でも、特定の家系の後継者が父祖の地位に進むべきだという認識と期待が成立していれば、家格はすでに形成されていたとみる余地があると指摘している。また、後世の摂関家・清華家などに先立ち、「公達」「諸大夫」「侍」といった身分区分が、平安時代中後期に家格的性格を帯びたとする説を再検討した[9]

「君達」「公達」は、当初は高位者の子弟を指す呼称であった。『枕草子』に列挙された「君達」の官職や、寛仁元年(1017年)の『左経記』にみえる「殿上地下君達」も、特定の家系に帰属する身分というより、大臣・公卿の子弟という個人の地位を示す用例と解されている。これに対して康平3年(1060年)の『康平記』に「地下公達」として記された藤原師仲は、父が公卿に達していなかったにもかかわらず、累代公卿を出した家系に属することによって一般の諸大夫と区別されていた。金は、このように父個人の官位よりも継承する家系が重視されるようになった11世紀中葉を、公達が家格的概念へ変化した時期と位置づけている[10]

中世後期には、堂上・地下の身分境界そのものが昇進競争の対象となった。堂上は、内裏への昇殿を許された家の家格を指したが、地下の者についても、身分を地下に据え置いたまま昇殿のみを認める「地下の昇殿」が行われる場合があった[11]

永正元年(1504年)、九条家の諸大夫で、六位蔵人の最上席にあった富小路資直は、五位への昇進に加えて昇殿を許され、堂上列に加えられることを求めた。資直は九条尚経の執奏と三条西実隆の内奏を得たが、殿上人らは資直を堂上に加えることに強く反対し、連署の奏状を天皇に提出した。資直は永正3年(1506年)12月に五位へ昇進したものの、翌年の裁定では、昇殿のみが認められ、身分は「地下分」にとどめられた[11]。この昇格運動の背景には、久我家の諸大夫竹内基治との競争があった。基治は永正元年8月に昇殿を許され、諸大夫家のなかで上位に立った。これに対して資直は、同じく昇殿を求めるだけでは基治に追いつくにとどまるため、堂上への昇格を実現して基治を一挙に越えようとしたと考えられている。井出麻衣子は、富小路家と竹内家の昇進競争から、従来の地下諸家に認められていた昇進範囲を越える堂上昇格の要求が生じ、その反動として堂上の家格的な枠組みが強く意識されるようになったと指摘している[12]。永正6年(1509年)頃の内容を持つ『補任歴名』は、堂上衆を記載対象とし、富小路資直をはじめとする地下の官人を収録していない。井出は、この記載範囲が資直の昇格運動と関係していた可能性を挙げ、『補任歴名』を、資直の一件を契機として堂上の枠組みが明確に認識されたことを示す史料の一つと位置づけている[13]

官位秩序と超越

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官職・位階における任官・叙位の先後は、廷臣間の上臈・下臈関係を構成した。下臈が上臈より先に昇叙すると、その後の先後関係が逆転する場合があった。寛元3年(1245年)に平成俊が平高望より先に正五位下へ叙されると、高望の父平経高は、従来の先後関係を維持するため、高望にも成俊と同日付の位記を与えるよう求めている[14]

任官・叙位は廷臣の名誉に関わる出来事であり、超越を伴う場合には一層強く意識された。藤原宗忠は嘉承元年(1106年)に参議から権中納言へ昇進して源師頼を超越した際、自らの昇進を「善政」と記した。一方、長保3年(1001年)に弟の藤原斉信に超越された藤原誠信については、『権記』や『大鏡』に、その人事を怨んだことが死去の原因であったとする叙述がみられる[15][注釈 1]

官職には定員があったのに対し、位階には官職と同様の定員がなかった。このため、特定の官職への任命を伴う超越には欠員や人事上の調整が必要となったが、功労に対する勧賞は加階の形で行われることが多かった[16]

昇進の基準は官位の先後だけではなかった。治安4年(1024年)、下級事務官僚の昇進について、官の高下と勤務日数のいずれを優先するかが審議された際には、事務官僚には精勤が重要であるとして、勤務日数を優先することが決定された[17]

超越の有無は、官職の先後だけで一義的に決まるものではなかった。三田武繁によれば、朝廷内の序列は官職・位階の高下と、それぞれの叙任順によって構成されていたため、官職上の先任者を越えて昇進した場合でも、位階や叙位の先後では昇進者が上位にあることがあった。建暦元年(1211年)に坊門信清九条道家に先んじて右大臣に任じられた人事も、権大納言としては道家が先任であった一方、信清の方が先に正二位に叙され、以前にも権大納言を務めていたため、単純な超越とはみなしがたいとされる[18]

超越の理由

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家格・嫡庶・外戚

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公家の昇進には家格が影響した。官位と家柄の結び付きは、歴史的に形成されたものである。金玄耿は、9世紀の史料にみえる「貴種」が三位以上ないし公卿の子孫を指し、父祖の官位を基準とする表現であったのに対し、11世紀中葉以降には特定の家系を指す性格を帯びるようになったと指摘している[19][20]。この段階では、公卿への昇進を一時的に欠いた者でも、既成の「貴種」の家に属していれば貴種と称される一方、新たに公卿を輩出した家が直ちに貴種と認められるとは限らなかった。同じ祖先を持つ門流でも、公卿を継続的に輩出する家と、受領などを主な官途とする家とに分かれ、後者が「貴種」から除外される例もみられた[21]。こうして成立した「貴種」の家は、諸大夫を含まず、公達の家すべてとも一致しない、上層公家の一部に限られていた[22]。家格は個人の現時点の官位だけでなく、特定の家系に結び付いた公卿への昇進可能性や、極官に至る昇進経路・昇進速度によって示された[23][24]

摂関家の子弟は早く昇進し、摂関家に次ぐ家格とされた清華家の者も大臣を極官としたため、納言を極官とする家の上臈を最終的に超越することがあった[25]。極端な例として、治承3年(1179年)の近衛基通は、叔父の松殿基房が失脚したこともあり、従二位右近衛中将から関白・内大臣へ進んだ[26]

外戚としての地位も超越の理由となった。寛治7年(1093年)、源雅実が複数の上臈を越えて右近衛大将に任じられた際、『中右記』は、雅実が国母藤原賢子の同母弟であることを「戚里之貴」とし、その昇進を認める「一之道理」と記している[26]

同一家の内部では、正嫡と庶流の区別も重視された。正応5年(1292年)、中御門為方冷泉経頼葉室定藤を越えて正二位に叙された際、伏見天皇は、為方が現任の権中納言として奉公していることに加え、家の「正統」として当主から推挙されていることを理由とした。経頼は為方の叔父であったが、為方の父経任が正嫡、経頼が庶子であったため、正統に属する為方の超越には問題がないと判断された[27]

清華の昇進経路も、家格の形成後に変化を続けた。清華の嫡流が蔵人頭を経ず、三位中将から公卿へ進む経路は、後鳥羽院政期までに嫡流の官途として定着したとされる。しかし鎌倉時代には、三位中将が西園寺家花山院家村上源氏の庶流にも広がり、嫡流と庶流を区別する指標としての性格を弱めた。坂田桂一は、この拡大には皇室との外戚関係や、門流内部で嫡流の優位が十分に確立していなかったことが影響したとみている[28]

当職奉公と顕職

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現職にある者が実際に奉公していることは、「当職奉公」として昇進上の理由となった。現任者は、かつて同じ官職にあった散官よりも優先される場合があった[27]

天皇が皇太子であった時期から仕えた坊官も優遇された。治承5年(1181年)、平維盛は他の候補者を越えて右近衛中将に任じられ、蔵人頭に補された。維盛が安徳天皇の皇太子時代に春宮坊の春宮権亮を務めており、天皇に近侍する蔵人頭にふさわしいと判断されたためであった[29]

中世には、蔵人頭を勤め終えた者は、特別な失態がない限り参議または従三位に進むことが慣例となっていた。弁官の首席である大弁や、検非違使を統轄する検非違使別当も、公事への関与が大きい顕職として、他の参議より優先して納言に昇進する理由となった[30]

左大弁であった大江匡房は、右大弁藤原通俊の昇進が見送られた際、大弁は朝議に参加して公事を処理する職であり、最末の参議であっても上臈を越えて納言に任じられるのが通例であると論じた。大弁の昇進が停滞すれば、中弁以下の昇進も妨げられるため、弁官の昇進は「公家解除」とも称されたという[31]

藤原宗忠は嘉承元年の昇進に際し、源師頼が「無兼官」であることを超越の理由として記した。しかし師頼は右兵衛督と備中権守を兼ねていた。この用例について、百瀬今朝雄は「兼官」が官職の兼任一般を指す語ではなく、大弁や検非違使別当のように昇進上とくに重視された官職を意味したと解釈している[32]

公事・勧賞

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特定の公事を担当するため、必要な経歴を持つ者を昇進させることも超越の理由となった。文応元年(1260年)、参議左大弁吉田経俊は、亀山天皇大嘗会で御禊装束司長官を務めるため、大弁を経験した納言が必要であると主張し、自らの権中納言への昇進を求めた。この場合、経俊は鷹司伊頼ら上臈の参議5人を超越することになったが、四条隆顕の父四条隆親が別の候補者を還任させたため、経俊の昇進は実現しなかった[33]

行事の奉行、警固、犯人の追捕、芸能の伝授などに対する勧賞によっても超越が生じた。治承5年(1181年)、中山忠季は、父中山忠親高倉天皇の春日社行幸で警固を指揮した功労を譲られ、藤原公国を越えて正五位下に叙された。正和4年(1315年)には、西園寺公顕後伏見上皇に琵琶の秘曲「啄木」を伝授した賞として、内大臣洞院実泰ら7人を越えて従一位に叙されている[16]

超越に対する評価

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超越が適切と認められるかどうかは、任命者や当事者だけで決まるものではなく、周囲の廷臣が共有する人事秩序にも左右された。

『経光卿記抄』仁治3年(1242年)4月9日条には、「除目以不驚目為善」と記されている。上臈を越える人事であっても、その理由が周囲に理解されれば受け入れられ、権臣との関係や私的な縁故によるものとみなされた場合には「驚目」と評価された[4]。 その日、土御門顕定が上臈4人を越えて権大納言に任じられた際には、父の土御門定通が当時の権臣であったことから「驚目」と記された。同日の除目では、中院通成が従三位に叙され、中将に留任したことも批判の対象となった。藤原経光は、通成が大臣・大将の子ではなく、清華にも属さないとして、その三位中将を「先規未聞」と評した。一方、平経高は、参議に欠員があり、蔵人頭の源通行が上臈であるうえ通成の叔父にあたるにもかかわらず、通成が通行を超越したことを問題としている。両者は同じ人事を批判しながら、経光は家格と父祖の官歴、経高は官職の欠員と上臈・親族関係をそれぞれ重視していた[34]

元久3年(1206年)には、日野資実源通具藤原親経を越えて従二位に叙された。藤原長兼の『三長記』は両者による超越を「驚目」と記したうえで、資実については権力者につながる婚姻関係や、子が摂政近衛家実の執事であったことを挙げ、その人事を「邪政其一也」と批判している。通具の超越については、同様の批判を加えていない[35]

嘉禄2年(1226年)、蔵人頭花山院宣経が従三位を望んだ際には、藤原定家が、宣経より上臈の散位6人を越えることになるとして、「此輩何被超越哉」と記した。定家は、宣経にも朝廷にも、この超越を正当化する理由はないと批判している[36]

超越の正当性をめぐる判断は、超越された本人と周囲の評価が一致するとは限らなかった。そのため、同じ超越であっても、周囲が正当な理由を認めるか否かによって評価が分かれた[37]

摂関家における超越と家格論

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三田武繁は、家格の相違が、各家の当主が到達しうる極官、そこに至る昇進経路や昇進速度の違いとして現れたとする。このため、朝廷内の序列で下位にある者は、同等またはそれ以上の家格を持つ上位者を越えて昇進すべきではないという慣習的な規範が形成された[38]

文永10年(1273年)、正二位前右大臣の九条忠家が、従一位左大臣の一条家経を越えて関白に就任した。忠家は建長4年(1252年)の右大臣解任以後、長く失脚し、九条家も事実上摂関家としての家格を失っていたとみられるため、この人事は朝廷内の序列と当時の家格の双方で下位にあった者による超越であった。忠家の関白就任は九条家の復権と摂関家としての家格回復をもたらしたが、同時代には「驚耳」「曾無先例歟」と批判する記録も残された[39]

文永10年以後の五摂家継承者の昇進をみると、官職上の先任者を越える人事であっても、位階やその叙任順では昇進者が上位にある場合があった。文永11年(1274年)に九条忠教が鷹司兼忠に先んじて権大納言となった時点では、忠教の位階が上位であり、建治元年(1275年)に忠教が近衛家基に先んじて右大臣となった際にも、忠教の方が早く正二位に叙されていた[40]。三田は、鎌倉時代後期に五摂家の継承者が相互に超越した例が少なく、摂関就任も再任を除けばおおむね朝廷内の序列に従っていたことから、五摂家の間に固定的な家格の優劣はなかったと判断している[41]

これに対して忠教は、九条家を九条流の嫡家、二条家と一条家を庶流と位置づけ、近衛流についても近衛家を嫡家、鷹司家を庶流とみなした。忠教の認識では、九条家と近衛家は両流の嫡家として同格であり、二条・一条・鷹司の三家は摂関就任に際して両家に後れるべきであった[42]。しかし、この認識に基づく忠教の要求は受け入れられず、実際の昇進状況にも五摂家を嫡流と庶流に分ける固定的な序列は確認されない[43]。忠教は、相手に応じて異なる家格論を展開した。九条流内部では嫡流による庶流への優越を主張し、近衛家に対しては両流嫡家の同格性を前提として官位・年齢・功績による摂関就任順を論じた[44]

正応2年(1289年)、右大臣近衛家基が左大臣九条忠教を越えて関白に就任した。忠教は、近衛流と九条流の継承者がともに大臣である場合には官位の順に摂関へ就任してきたという先例、自身の年齢、伏見天皇の大嘗会で故実や家伝の秘書を提供した功績を挙げ、関白就任を求めていた[45]。ただし、大嘗会について天皇の諮問を受けたのは忠教に限られず、二条師忠や近衛家基も故実や秘書を進めており、「無双之労効」「第一之高名」という評価は忠教自身の主張であった[46]

忠教の主張を伝える『藤氏嫡流超越拝任勘例』は、寛永20年(1643年)に九条道房が六通の文書をまとめて巻子に仕立てたもので、各文書は九条家に残された案文または草案とみられている[47]。忠教は、父忠家が用いた先例を継承し、家嫡が一門の上臈を越えて摂関に就任した例を整理して、朝廷や幕府関係者に自らの補任を訴えた。超越をめぐる対立では、辞職や籠居だけでなく、先例勘文や申状を通じて人事の正当性を争うことも行われた[48]

忠教は後に摂関への再任を求めた際、近衛家基に超越されたうえ、関白の職を家基に奪われたことを「家門之恥辱」と表現した。摂関への還着は、忠教個人の再登用に加えて、傷ついた家門の名誉を回復する意味を持つものとされた[49]

また、評価者の立場や奉仕関係も、人事に対する見方に影響した。家基が忠教を越えて関白に就任した際、近衛家に仕えた勘解由小路兼仲は、これを「御家門嫡々」の面目と称賛した。一方、西園寺公衡は、左大臣を越える就任を「非言語之所及」と批判している[50]

社司補任における超越

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中世の賀茂別雷神社では、社司は下位の職から順次転任することを原則としたが、下臈が上臈を越えて補任される「超越」も行われた。永承2年(1047年)から建長6年(1254年)まで、補任年月日を確認できる社司82例のうち31例が超越にあたり、そのうち14例は社司に就いていない氏人から直接補任された事例であった。31例のうち23例は、最終的に神主・正禰宜・正祝・権禰宜・権祝からなる五官に達している[51]

この集計では、複数の社司が相次いで死去したため下位者が一斉に転任した事例や、正祝・権祝を世襲する家系が末社司から権祝へ進む慣行は超越から除外されている。超越は11世紀半ばに初めて確認され、11世紀末から増加して12世紀半ばに最も多くなった。12世紀半ば以降、禰宜方と祝方に分かれていた末社司の昇進体系が統合され、次第転任が定着すると、超越は次第に減少した[2]

仁平4年(1154年)、氏人久教は5人を越えて貴布禰禰宜に補任された。久教に超越された若宮禰宜成房は、左大臣藤原頼長の奏請により、久教ら5人をさらに越えて片岡禰宜へ転任した。社司の席は競望の対象であり、有力者との関係を通じて、被超越者が超越者を改めて超越する場合もあった[52]

13世紀には超越の件数が減少したものの、王権の意向が人事に影響したとみられる事例がある。建保2年(1214年)、正禰宜重政が服喪中であった際、権禰宜能久が重政を越えて神主に補任された。服喪中の正禰宜を神主とする先例と、権禰宜から神主へ進む先例の双方が存在したため、どちらを採用するかは補任する王権の判断に委ねられていた。若山憲昭は、後鳥羽院に近侍した能久が選ばれた背景に、院の意向があった可能性を指摘している[53]

被超越者の抵抗

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超越に対する抵抗は、出家や不仕などの行動だけではなく、先例や家格の論理を根拠として人事の正当性を争う形でも現れた。

辞職・出家・任官拒否

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超越された者は、出家、辞職、任官や宣旨の拒否などによって抗議した。弘長元年(1261年)、中御門経任が五位蔵人に補任されようとした際、異母兄で家嫡の経藤が出家の意向を示したため、後嵯峨上皇はいったん補任を取り止めた。翌年、経任が経藤を越えて左衛門権佐に任じられると、経藤は家伝の文書を焼いて出家したとされる[54]

その9年後、経任と経藤の異母弟である経頼が坊門忠世を越えて五位蔵人に補されると、忠世は同日に任じられた右衛門権佐を受けながら、検非違使の宣旨を受けなかった。『吉続記』は忠世の申し分を「所申非無謂歟」と記し、その行動に一定の理由を認めている[55]

籠居・不仕

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奉公を拒否する一般的な形態は不出仕であり、「不仕」または「籠居」とも称された。源師頼は、藤原宗忠に超越された嘉承元年(1106年)以後、5年間出仕しなかった。百瀬は、その背景に超越への怨みがあった可能性を指摘している。師頼はその後、不仕を理由として兼官の右兵衛督を解かれた[56]

不仕や籠居は原則として許容された行為ではなく、公事を怠った者には解官・停任などの処分が行われた。一方、不出仕の原因には怠慢のほか、急病や触穢などもあり、病気の場合には実検使を派遣して事実を確認する手続がとられた。病気や触穢が事実であれば、処罰の対象とはされなかった[57]

超越への不満による籠居についても、任命者が超越を正当と判断すれば、処罰や昇進停止の対象となった。藤原雅長藤原兼光平親宗藤原隆房源通資らに相次いで超越され、建久元年(1190年)頃から籠居した。翌年に検非違使別当の藤原能保にも超越されると、後白河法皇は、他の廷臣が超越されても奉公を続けていることを挙げ、雅長の不仕を「太奇怪」と批判した。九条兼実も雅長の昇進停滞には同情しながら、不仕を理由として登用しないことには一定の理由があると認めている[58]

古今著聞集』は、後三条天皇藤原隆方を越えて藤原実政を左中弁に任じた翌朝、給仕を務める隆方を前に食膳に着かなかったとする説話を示して、これを天皇が隆方に恥じたためと説明している[59]

籠居の容認

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百瀬は、鎌倉時代に入ると、超越を理由とする籠居を周囲の廷臣や為政者が容認する事例が明瞭にみられるようになったと指摘している[59]。元久3年(1206年)、藤原親経が日野資実と源通具に再び超越された際、『三長記』は、親経が超越の怨みを抱きながら出仕する意向を示したことを特記している。この記述は、同様の状況では籠居することにも理由があるという認識を示すものと解釈されている[60]

文永6年(1269年)、日野資宣は中御門経任に超越されると、翌日から籠居すると述べた。正応2年(1289年)、超越への不満から籠居していた大炊御門信嗣が知行国伊豆を没収された際には、『吉続記』の記主吉田経長がこの処分を「不便」と評した。また嘉元3年(1305年)には、下臈の万里小路宣房が蔵人頭に補任されたため辞職・籠居していた藤原経雄が、従三位に叙されている[61]

籠居が人事への圧力として機能すると、超越される前から不仕を予告する者も現れた。宝治元年(1247年)、吉田経俊が右少弁に任じられた際、藤原宗雅は経俊らに超越された場合には籠居すると訴えていた[61]

九条家文書(天理図書館所蔵)には、天福元年(1233年)5月21日付の前関白九条道家奏状案が残されている。この奏状案は、籠居中の公卿について、それぞれの家格、能力、嫡流としての地位や過去の超越を検討し、欠官が生じた際に登用すべき人物を列挙した。超越への不満によって籠居していた九条基家三条実親徳大寺実基についても、個別の理由を認めている[62]後堀河天皇の退位直後で、道家の外孫にあたる2歳の四条天皇が在位し、道家の発言力が強かった政治状況から、本郷和人はこの奏状案を道家の施政方針の表明と位置づけている[63][64]。百瀬は、奏状案が任官・叙位の公正と裁判の公正を徳政の二本柱として掲げたものとみて、道理のない超越を受けた者の籠居を容認する論理と結びつけている[64]

官位への不満を理由として籠居した者が、その期間中に昇進することもあった。花山院師継は昇進の遅れを怨んで籠居したのち、建長2年(1250年)に権中納言へ昇進した。摂政近衛兼経は、師継が後嵯峨上皇の近臣であり、その器量も同時代の廷臣に勝っていた可能性を記している[65]

正応3年(1290年)に右近衛大将へ任じられた徳大寺公孝は、下臈でありながら洞院公守を越えて左近衛大将に任じられなければ出仕しないと主張し、拝賀を行わないまま籠居した。朝廷は公孝が不仕を続けている間に内大臣へ昇進させたが、公孝は直ちには出仕しなかった[66]

先例・家格論による異議申立て

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鎌倉時代後期には、超越された者が先例や家格の論理を根拠として人事の正当性を争う例もみられる。正応2年(1289年)4月13日、右大臣近衛家基が左大臣九条忠教を越えて関白に就任すると、忠教は『藤氏嫡流超越拝任勘例』に収められた文書において、近衛流と九条流はともに摂関家の嫡流であり、両家の継承者が大臣として並んだ場合には官位による序列に従って摂関に就任すべきであると主張した。

忠教はその根拠として、建仁2年(1202年)の九条良経、承久3年(1221年)の九条道家、寛喜3年(1231年)の九条道家が、官位上位者として先に摂関に就任した先例を挙げた。また、伏見天皇の大嘗祭における故実奉仕を自身の「大功」と位置づけ、摂関就任の正当性を訴えた[67]

しかし、この主張は認められず、近衛家基の関白就任は維持された。忠教が関白となるのは正応4年(1291年)5月27日のことであった[68]

また、超越によって失われた地位の回復を求める場合もあり、九条忠教は過去の摂関再任例を集めた「摂関還着例」を根拠として、自身の摂関復帰を正当化しようとした[69]

抵抗の背景をめぐる解釈

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百瀬は、超越への不満を理由とする籠居・不仕が容認された背景として、徳政思想に基づく「人」の評価と、官職を御恩と捉える主従関係を挙げている[70]

徳政と「人の目」

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周囲を驚かせない除目が善政とされ、理由を欠く超越は人々の愁いを生じさせる人事として理解された。宝治元年(1247年)の『経俊卿記』は、右少弁を望んだ藤原宗雅について「人以不許之歟」と記している。ここでいう「人」は、任官の当事者以外の廷臣を含む世間の評価を指すと解釈されている[71]

九条道家の奏状案も、現任公卿数人の籠居を「人」が不審に思っているという認識から始められていた。道家は籠居者の訴えに理由があるかを検討し、家格や能力などに基づいて登用すべき者を選んでいる。こうした「人」の評価は、被超越者による籠居・不仕を支える要素となった[71]

御恩と奉公

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公家の家司・家礼関係では、主人による官職の斡旋が御恩となり、従者はこれに対して奉公した。鎌倉時代末期の吉田定房の談話を記した『吉口伝』には、藤原顕長が弁官への補任を望み、藤原忠実に名簿を奉呈したとする話がみえる。ただし、忠実の摂政在任期には顕長がまだ生まれておらず、記憶、筆録または伝写の過程に誤りがあると考えられている。そのうえで、家司制においては、主人による官職の斡旋が主従関係を媒介する御恩として認識されていたと論じられている[72]

藤原定家は、摂政九条良経から官位昇進への推挙を得られなかった際、『明月記』に「奉公更無詮」「奉公甚無益」と記し、官位の推挙と奉公を結びつけていた[73]

寛元3年(1245年)、平成俊が平高望ら多くの上臈を越えて正五位下に叙された。成俊は、宗尊親王を生んだ平棟子の兄弟で、当時権勢を得ていた。高望の父平経高は、土御門定通を通じて後嵯峨上皇に働きかけ、関白二条良実にも、高望を成俊と同日付で昇叙するよう求めた。高望は3日後に正五位下へ叙されたが、経高は、同日付でなければ成俊との先後関係が逆転するため、これを十分な「恩」と認めなかった。その後、高望に春日行幸の舞人として出仕するよう命じられると、経高は、十分な恩を受けていないまま奉公させるべきか迷っている[14]

百瀬は、御恩と奉公を媒介とする私的主従関係の論理が公的な官位制度にも及び、超越への不満を理由とする不仕・籠居が社会的に容認される思想的基盤になった可能性を指摘している[74]

近世の規定

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元和元年(1615年)の禁中並公家諸法度第10条は、諸家の昇進について各家の旧例に従うことを原則としたうえで、学問・有職・歌道に励み、また奉公の労を積んだ者には、「雖為超越」として推任・推叙を認めた[75]

橘嘉樹は、推任・推叙を、本人が申文を提出して望む任官・叙位とは異なり、上から官位を与える措置と解釈している。また、長年武家伝奏を務めた柳原光綱広橋兼胤を、奉公の労によって昇進した例として挙げている[75]

近世前期の大臣任官では、任官希望者が天皇または上皇に小折紙を提出し、候補者を事前に江戸へ届け出たのち、武家伝奏が幕府へ人選を内示し、幕府の承認を経て朝廷が宣下する手続がみられた。任官者の決定には、朝廷内部の競望に加え、摂家・清華家・大臣家などの家格と、候補者間の先後関係が影響した[76]

寛永18年(1641年)から翌年にかけて二条光平の内大臣任官が進められた際には、光平のほか、清華家の今出川経季三条実秀花山院定好西園寺実晴が候補となっていた。光平の父で摂政の二条康道は、武家伝奏を務めていた今出川経季に働きかけ、経季が内大臣を望まない旨を回答すると、経季より下臈の清華家にも所望を停止させるよう命じた。野村玄は、二条家が競望の存在を表面化させず、江戸への事前の届け出を避けながら、朝廷内で早期に光平の任官を決定しようとしたものとみている[77]

超越の実例

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以下には、史料中の仮名書き・略称・不詳の人名などにより、人物比定に検討を要する例を含む。また、摂関任命については、原則として任命時に被任者より上位にあり、かつ摂関家内部で摂関候補となり得た現任大臣が存在した例を掲げる。摂関任命と上位の摂家大臣の辞任が同日付であり、宣下の先後関係に検討を要する例も含む。

関連項目

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脚注

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注釈

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  1. 『権記』は誠信の死について「甚非常」と記し、除目後まもなく死去したことを伝える。一方、斉信や藤原道長とのやり取り、誠信が握り締めた指が手の甲まで突き抜けたという叙述は、後世の歴史物語である『大鏡』による。

出典

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  1. 1 2 3 百瀬 2000, p. 175.
  2. 1 2 若山 2024, pp. 43–47.
  3. 百瀬 2000, pp. 178–183.
  4. 1 2 百瀬 2000, pp. 183–185.
  5. 百瀬 2000, pp. 185–193.
  6. 百瀬 2000, p. 193.
  7. 超越”. コトバンク. 2026年8月3日閲覧。
  8. 金 2022, pp. 422–425.
  9. 金 2022, pp. 424–426.
  10. 金 2022, pp. 426–440.
  11. 1 2 井出 2021, pp. 13–15.
  12. 井出 2021, pp. 15–17.
  13. 井出 2021, pp. 16–17.
  14. 1 2 百瀬 2000, pp. 195–196.
  15. 百瀬 2000, pp. 176–178.
  16. 1 2 百瀬 2000, pp. 180–181.
  17. 百瀬 2000, p. 178.
  18. 三田 2023, pp. 121–122.
  19. 金 2017, pp. 468–474.
  20. 金 2017, pp. 476–488.
  21. 金 2017, pp. 480–488.
  22. 金 2017, pp. 489–490.
  23. 金 2017, pp. 475–489.
  24. 三田 2023, p. 119.
  25. 百瀬 2000, pp. 178–179.
  26. 1 2 百瀬 2000, p. 179.
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  28. 坂田 2012, pp. 565–569.
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  30. 百瀬 2000, pp. 181–183.
  31. 百瀬 2000, pp. 181–182.
  32. 百瀬 2000, pp. 182–183.
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  35. 百瀬 2000, pp. 183–184.
  36. 坂田 2012, pp. 566–567.
  37. 百瀬 2000, pp. 184–185.
  38. 三田 2023, pp. 119–120.
  39. 三田 2023, pp. 120–122.
  40. 三田 2023, pp. 122–123.
  41. 三田 2023, pp. 122–143.
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  76. 野村 2003, pp. 1352–1354.
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  1. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 『公卿補任』
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 『石清水祠官系図』
  3. 『延久四年・五年日次記』
  4. 『永治二年真言院御修法記』
  5. 天福元年5月21日付九条道家奏状案
  6. 『院号定部類記』
  7. 『郢曲相承次第』
  8. 1 2 3 『お湯殿の上の日記』
  9. 『歴名土代』

参考文献

[編集]
  • 金玄耿「일본 헤이안시대 중후기 家格의 형성―긴다치와 諸大夫를 중심으로―」『東洋史學硏究』第158巻、2022年、419-449頁。 
  • 坂田桂一「中世前期における清華の家格とその昇進―蔵人頭・三位中将就任者の分析を中心に―」『文化学年報』第61巻、2012年、553-578頁。 
  • 高埜利彦「「禁中並公家諸法度」についての一考察―公家の家格をめぐって―」『学習院大学史料館紀要』第5巻、1989年、1-24頁。 
  • 本郷和人 著「鎌倉時代の朝廷訴訟に関する一考察」、石井進 編『中世の人と政治』吉川弘文館、1988年。ISBN 4-642-02626-6 
  • 百瀬今朝雄「超越について」『弘安書札礼の研究  中世公家社会における家格の桎梏』東京大学出版会、2000年、175-196頁。ISBN 978-4-13-020124-7 
  • 若山憲昭「中世前期における賀茂別雷神社の社司と王権―神主を中心に―」『Antitled』第3巻、2024年、37-70頁。 
  • 井出麻衣子「永正年間の補任歴名について」『九州文化史研究所紀要』第64巻、2021年、1-19頁。 
  • 野村玄「近世前期の公家高官任官過程とその特質」『史学雑誌』第112巻第8号、2003年、1350-1370頁。 
  • 金玄耿「平安貴族社会と「貴種」」『史林』第100巻第4号、史学研究会、2017年、465-490頁。 
  • 三田武繁『鎌倉幕府体制成立史の研究』吉川弘文館、2023年。ISBN 978-4-642-72870-6 

外部リンク

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