貞山運河

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多賀城市七ヶ浜町境界付近の貞山運河(2013年8月撮影)

貞山運河(ていざんうんが)は、宮城県仙台湾沿いにある運河である。江戸時代から明治時代にかけて数次の工事によって作られた複数の堀(運河)が連結して一続きになったもので「貞山堀」とも呼ばれている。その名称は明治時代の改修時に伊達政宗にちなんで名付けられたものである。

概要[編集]

名取市郊外の貞山運河(震災前)
仙台空港と貞山運河

仙台湾沿いには江戸時代に木曳堀と舟入堀の二つの運河が開削されており、また明治時代初期にも新堀と呼ばれる水路が開削されていた。これらは阿武隈川河口から松島湾塩竈まで、おおむね仙台湾の海岸線に並行して続くものだった。明治時代中期にこれらが改修されて一続きになり、貞山運河とされた。その目的は、喫水が浅く乾舷の低い川船が、河口からそのまま海に乗り出す危険を避け、あるいはそのために荷を積み替える手間を省き、川船による物資輸送を円滑に行うためだった。

貞山運河は阿武隈川河口から松島湾までの水路であるが、松島湾から鳴瀬川河口にかけて東名運河があり、さらに鳴瀬川河口から旧北上川石井閘門まで北上運河が続いている。貞山運河、東名運河、北上運河を合わせた総延長は約49kmであり、これは日本で最も長い運河系である[1]。これらの運河整備は明治時代初頭の野蒜築港建設とほぼ同時期に行われたもので、宮城県のみならず北上川上流の岩手県や阿武隈川上流の福島県まで含めた水上交通網となることが想定されていた。しかし結果として野蒜築港は放棄され、これらの運河は地域的な河川交通、物流に用いられることになった。現在は物流に用いられないが、漁港の一部、シジミ漁、シラス漁などの漁場、釣りなどのレジャーに用いられている。運河沿いの一部には自転車専用道路が設置されている。仙台湾沿いには海岸砂丘が発達しているため、砂丘を開削して灌漑放水路を設置せず、貞山運河に接続して終わる例が多い。

名取市部分で仙台空港に接しているため、将来発生が予測される宮城県沖地震の際に、仙台空港から貞山運河、名取川広瀬川、あるいは七北田川梅田川を経由して仙台市の市街地へ援助物資を運ぶことが出来るかの調査・研究が行われていた[2]。しかし2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震では、貞山運河そのものが地震によって発生した津波によって破壊された。このため、宮城県では運河の再生・復興ビジョンを策定している[3]

歴史[編集]

貞山運河の中で一番初めに開削されたのは、名取川河口と阿武隈川河口を結ぶ部分である。木曳堀と呼ばれ、江戸時代の絵図や文献には内川、内堀とも記されている。正保年間(1645年から1648年)の絵図に描かれている事から、これ以前に完成していたのは確実だろうと言われている。慶長年間初めの1597年から1601年にかけて川村重吉(孫兵衛)が作ったという説もあるが、天下の行く末が不透明な緊迫した当時の状況下で大量動員が必要な開削事業が可能だったのか疑問を付されている。木曳堀は水運のための運河だったが、同時に湿地の排水路でもあった。この事から新田開発が進んだ元和年間(1615年から1624年)頃に作られたのだろうとも言われている。木曳堀の名称は、この水路を使って木材を運搬した事に由来するものだろうと推測されている。木曳堀、名取川、広瀬川を経由することで、阿武隈川と仙台城下郊外とが結ばれたのである[4]

次に開削されたのは塩竈と七北田川河口の蒲生を繋いだ部分で、これは舟入堀と呼ばれた。ただし、水位の問題があって舟入堀と七北田川は直接結ばれなかった。この運河が作られた時期もはっきりしないが、残されている当時の史料から寛文年間(1661年から1673年)に竣工したと考えられている。舟入堀も仙台城下への物流のための水路だった。それまで塩竈に荷揚げされ仙台の城下まで陸送されていた船荷が、舟入堀の開削後は舟入堀を伝って蒲生に入り、そこで七北田川に移し替えられ、鶴巻から舟曳堀で仙台郊外の苦竹まで運ばれるようになった。舟入堀が開通した影響で、船荷が素通りすることになった塩竈は一時衰退するほどだったが、その後、仙台藩は一部の船荷の塩竈荷揚げを義務化し、さらに塩竈に課役の免除やその他の特権を与えたことで塩竈は再興した[5]

明治時代になると、鳴瀬川河口に近代港湾として野蒜築港が建設されることが決まり、これに付帯して鳴瀬川河口から東西方向に延びる運河の建設が計画された。北上川と鳴瀬川河口を結ぶ北上運河は1878年(明治11年)に建設が始められ、1881年(明治14年)に未完成ながら工事に影響なしとして船の航行が認められた。工事が完了するのは1882年(明治15年)である[6]。鳴瀬川河口と松島湾を連絡する東名運河は1883年(明治16年)に着工され1884年(明治17年)に竣工した[7]

七北田川河口と名取川河口の間の水路開削は、明治時代初めに士族授産事業として行われ1872年に落成していた[8]。しかし、新堀と呼ばれたこの水路は幅が狭く、1883年(明治16年)から1889年(明治22年)かけて新しく掘り直されることになった。この間、1887年(明治20年)に舟入堀の終端だった蒲生と七北田川の間が開削され、ここに閘門が設置された。こうして新堀と木曳堀と舟入堀が結ばれ、一続きの運河になった。この時、当時の宮城県土木課長早川智寛が、仙台藩初代藩主伊達政宗を偲び、その法号「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」から貞山運河と名付けたと伝わっている[9][10]。運河開通後は、閖上と塩竈を結ぶ船がここを通って運航されるようになった[11]

1960年代後半に仙台港の建設が始まると、その建設用地に含まれた貞山運河の一部分は港湾内に含まれる形で消失し、仙台港から七北田川にかけての区間は埋め立てられ、運河の連続性が途切れることになった[12]

貞山運河と交差する河川[編集]

阿武隈川と接続する貞山運河(中央)。

貞山運河沿いの主な港[編集]

仙台市若林区荒浜(震災前)

脚注[編集]

  1. ^ 運河群(貞山運河,東名運河,北上運河)の再生と復興について(宮城県)2018年6月12日閲覧
  2. ^ 河川空間を活用した大規模災害時の緊急輸送ネットワークの可能性調査を初めて実施します。(国土交通省東北地方整備局仙台河川国道事務所2007年5月30日)
  3. ^ 貞山運河再生・復興ビジョン (PDF) (平成25年5月 宮城県土木部)
  4. ^ 『仙台市史』通史編3(近世1)328-330頁。
  5. ^ 『仙台市史』通史編3(近世1)335-336頁。
  6. ^ 『石巻の歴史』第2巻通史編(下の2)109頁。
  7. ^ 『石巻の歴史』第2巻通史編(下の2)112頁。
  8. ^ 『仙台市史』通史編6(近代1)104頁。
  9. ^ 邊見清二、財団法人リバーフロント整備センター(編)、2011、「蒲生南閘門」、『運河と閘門:水の道を支えたテクノロジー』、日本建設工業新聞社 pp.100-102.
  10. ^ 『岩沼市史』718頁。
  11. ^ 『仙台市史』特別編9(地域史)185-186頁。
  12. ^ 『仙台市史』特別編9(地域史)197頁。

参考文献[編集]

  • 岩沼市史編纂委員会 『岩沼市史』 岩沼市、1984年。
  • 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編3(近世1) 仙台市、2001年。
  • 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』通史編6(近代1) 仙台市、2008年。
  • 仙台市史編さん委員会 『仙台市史』特別編9(地域史) 仙台市、2014年。
  • 石巻市史編さん委員会 『石巻の歴史』第2巻通史編(下の2) 石巻市、1998年。
  • 宮城縣史編纂委員会 『宮城縣史』復刻版5(地誌交通史) 宮城県、1987年。

外部リンク[編集]