謎の飛行船

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UFOであると最初に主張された写真の1つ 実際は霜の形成のトリミングされた写真 1870年 UFOの最初の写真の1つと言われたが、じつはステレオグラフの、大きくトリミングされた一部である。オリジナルのステレオグラフは、岩(ここで言うような雲ではなく)の上の霜の形成が写っている。 写真は1870年冬に撮影され、1871年にアメリカ合衆国著作権オフィスに預けられたし、パブリック・ドメインにある。オリジナルの写真(少なくとも、これは売主がこれだと言った物である)は、2002年3月にeBayで競売にかけられ、385米ドルで売れた

謎の飛行船(なぞのひこうせん、mystery airships)あるいは幻の飛行船(まぼろしのひこうせん、phantom airships)は、1896年後半と1897年前半にアメリカ合衆国西部で発生し、そして東に広がった、一連の新聞記事で最もよく知られた未確認飛行物体のいち部類である。調査者ジェローム・クラーク(Jerome Clark)によれば、飛行船の目撃は1880年代と1890年代に世界じゅうで報告された[1]。謎の飛行船の報告は、地球外生命体が操縦する空飛ぶ円盤型のUFOの現代の主張の文化的前任者と見なされている[2]。典型的な飛行船の報告は、未確認の光の夜間の目撃を含んでいたが、さらに詳しい記述は、気球に比較し得る船を報告した[3]。乗組員およびパイロットとされる者らの報告は通例、外見は人間に見えると説明しているが、ときには乗組員は火星から来ていると主張した[4]。謎の飛行船は、自分の制作を公表させる準備ができていない、だれか発明者あるいは天才の制作物である、と広く信じられた[5]。たとえば、トーマス・エジソンは、複数の飛行船とされるものの背後の知力であるとあまりに広く推測されたために、1897年に自分の責任を否定して「強い調子の声明を出さざるを得なかった」("was forced to issue a strongly worded statement")ほどである[6]

長時間のあるいは長距離の飛行船の飛行の成功の記録はその時代から知られていないから、謎の飛行船が現実の人造気球の試験飛行を示しているということはありそうもないということはしばしば主張されているし、「もしそういうものことを秘密にしておくならば、不合理であるのはもちろん、不可能であろう」("it would have been impossible, not to mention irrational, to keep such a thing secret")[2]。しかし実際は、それと反対に、1896年 - 1897年の報告よりも前に製造された実用的な飛行船がいくつかあった(たとえば、ソロモン・アンドリュース(Solomon Andrews)は、1863年に自分の「"Aereon"」の試験飛行に成功した)が、それらの能力は謎の飛行船と比較するとはるかに限られていた。リース(Reece)[2]とその他[7]は、イエロー・ジャーナリズムの、同時代のアメリカの複数の新聞が、現代のニュース・ソース以上にでっちあげの話と捏造を載せるということはありそうである、1800年代後半の編集者らであればしばしば読者に、そういう話はうそだ、と理解することを求めるであろうことに注意している。1896年-1897年の大きな波が終わったのち、この話題はすぐに公衆の意識から落ち去ったから、その時期のたいていのジャーナリストが飛行船の目撃をひどく真に受けたようにはおもわれない[8]。飛行船の話がさらに注目されたのは、1896年-1897年の新聞記事が1960年代なかばに大きく再発見され、UFO調査者らが、飛行船は第2次世界大戦後のUFOの目撃の早めの先駆者を示しているかもしれないではないかと提案したのちのことである。[8]

1896年 - 1897年の飛行船の波[編集]

謎の飛行船 『San Francisco Call』 1896年12月22日

謎の飛行船の波のうち最も有名なものは、1896年にカリフォルニアで始まった[5]。その後、同様な飛行船の報告と記述は、だいたい国を東に移動しながら、他の地域から来た[5]。飛行船報告のこの波のあいだの記述のなかには、一部の飛行船で眼で見ることができると主張するものもあるし、パイロットらとの遭遇もまた報告された[5]。これらの乗員はしばしば人間であるように見えたが、その行動、特徴、衣服は異常であるとときどき報告された[4]。ときには、見かけ上人間である者は、惑星火星から来たと主張した[4]

歴史家マイク・ダッシュ(Mike Dash)は、1896年-1897年の一連の飛行船の目撃を記述し要約した:

[謎の飛行船は、]世界の飛行家が制作したどれよりも、大きく、速く、頑丈であっただけではない。それらは途方もない距離を飛行することが出来るようにおもわれたし、なかには巨大な翼をそなえたものもあった...1896年-1897年の飛行船の波は十中八九、すべての歴史上の変則のうちで最も調査されたものであろう。合衆国じゅうからの1500紙近くの新聞のファイルが、報告のために徹底的に捜され、これは調査の偉業であった。調査者らの一般的な結論は、より単純な目撃のかなりの数は惑星と星の誤確認である、より複雑なものの大多数は捏造と悪ふざけの結果である、というものであった。少量の残余には、困惑させられる[9]

特定の事例[編集]

  • Sacramento Bee』と『San Francisco Call』は、1896年11月18日に、最初の飛行船の目撃を報じた[10]。目撃者らは、11月17日の晩に明るい光が高度約1000フィートをゆっくり移動していると報告した[10]。目撃者のなかには、自分らは光の陰に黒っぽい形が見えた、と言ったものもある[10]。R・L・ローリー(R.L. Lowery)という目撃者は、自分は教会の尖塔にぶつかるのを避ける目的で高度を上げるように命令を発する船からの声が聞こえた、と報告した[10]。ローリーは、自分は、近くに教会はないから、見たところキャプテンらしい者は地元の醸造所のことを指している、と考えていると、「おそらく読者に対する目くばせのつもりのもののなかで」("in what was no doubt meant as a wink to the reader")付け加えた[10]。ローリーはさらに、船は自転車ペダルを踏むために努力している2人の男によって動力を与えられた、と説明した。ペダルを踏んでいる男らの上方には客室があるらしかったし、それは気球の本体の下にあった。光は、飛行船の前端に載せられていた[10]。目撃者のなかには、船が頭上を通過するとき歌唱の音を報告したものもある[10]
  • Daily Mail』の1896年12月19日のカリフォルニア州ストックトン_(カリフォルニア州)版は、エーリアン船の目撃とされるものの、初期の記事のうちの1つを特集した[11]。大佐H・G・ショー(Colonel H.G. Shaw)は、ストックトン近くでバギー_(自動車)を走らせていたとき自分は着陸した宇宙船らしく見える物を偶然、見つけた、と主張した[11]。ショーは、それは、はしごおよび尖った複数の端以外、特徴のない金属的表面を持っている、と説明した[11]。彼は、直径25フィート(約7.6メートル)と推測し、船は全長、約150フィート(約45.7メートル)だと言った[11]。見たところ地球外生命体らしい、-tall7フィート (2.1 m)の、すらりとした3人は、船が「鳥が声を震わせて続けてさえずるような奇妙な音を発している」("emitting a strange warbling noise")あいだに船から接近するように言われた[11]。それら生命体は、ショーのバギーを調べたと報じられ、それから自分らが宇宙船に戻るのに物理的にむりやり同行させようと努めた[12]。エーリアンらは、自分らがショーをむりやり乗せるだけの物理的能力を欠いているとわかったのちあきらめる、と言われた。彼らは船に逃げ、船は地面から上昇し、急ぎ見えなくなった、ことになっている[3]。ショーは、これら生命体は、未知のしかし潜在的に邪悪な目的のために地球人を誘拐するために送られた火星人である、と考えた[3]。なかには、これは、エーリアンによる誘拐(alien abduction)の初期の未遂とみなしている人々もいる。明らかにこれは、地球外生命体が人間を宇宙船内にさらおうとした未遂の、最初の公表された記述である[13]
  • 謎の光は、11月21日の晩にサクラメント上空にふたたび現われた。それはまた、その晩にフォルサム、サンフランシスコ、オークランド、モデスト(Modesto)、ターロック(Turlock)、マンティーカ(Manteca)、セバストポル(Sebastopol)、他いくつかの都市の上空で見られたと報じられている。
  • アーカンソーからのある目撃者- 伝えられるところでは元州上院議員ハリス(Harris) - は、飛行船のパイロットによって(米西戦争につながる緊迫状態のなか)、船はキューバ行きだ、「ホッチキッス銃」("Hotchkiss gun")を使って「スペイン人を殺す」("kill Spaniards")ように、と言われた[14]
  • テキサスからの1つの話では、3人の男がある飛行船との、そして「奇妙な服装の男5人」("five peculiarly dressed men")との、遭遇を報告したが、彼らは、自分らはイスラエルの末裔である、1553年のヒュー・ウィロビー(Hugh Willoughby)の北極探検から英語を学んだ、と主張した。
  • 1897年2月2日に、『Omaha Bee』は、前日のネブラスカ、ヘースティングス(Hastings)上空の飛行船の目撃を報じた[15]
  • Albion Weekly News』のある記事は、2人の目撃者は、自分らが立っている所から複数インチのところに1つの飛行船のクラッシュ事故を見た、と報じた[15]。飛行船が突然、姿を消し、飛行船があった所には男が1人、立っていた[15]。飛行船のパイロットは、男らに、船をポケットにおさめるくらい小さく縮ませ得るとされる小さな装置を示した[15]。競争相手の新聞『Wilsonville Review』は、自身の編集者がその事件のもうひとりの目撃者である、彼はパイロットが「"Weiver eht rof ebircsbus!"」と言うのが聞こえた、とふざけて主張した[15]。その彼に聞こえたとされる言葉は、のちに「"subscribe for the Review"」(「『Review』に予約しろ」)と綴られた[15]
  • 1897年4月10日に、『St. Louis Post-Dispatch』は、W・H・ホプキンス(W.H. Hopkins)がミズーリ、スプリングフィールドの郊外で長さ約20フィート(約6メートル)、直径約8フィート(約2.4メートル)の着地している飛行船に遭遇した、と報じる記事を掲載した[3]。乗り物は見たところ、3つの大きなプロペラで推進していたし、裸の美女1人と、これも裸の、あごひげのある男が乗り組んでいた[3]。ホプキンスは、多少手こずりながら、彼らの源を確かめる目的で乗組員と意思の疎通をしようとした[3]。結局、彼らはホプキンスが何を求めているかを理解し、彼らは2人とも、空を指さし、「何か『Mars』(「火星」)という語に似た音を発した」("uttered something that sounded like the word Mars.")[3]
  • 1897年4月16日に、『Table Rock Argus』は、「匿名のしかし信頼し得る」("anonymous but reliable")一団の目撃者が飛行船が頭上をなめらかに進んでいるのを見たと主張する記事を公表した[15]。船には乗客が多かった[15]。目撃者らは、乗客のなかには、椅子にしばりつけられた女1人、彼女の面倒を見る女1人、そして見たところ囚人らしい者を守っている拳銃を持っている女1人がいる、と主張した[15]。目撃者らが当局にコンタクトしようと思うまえに、飛行船はすでに居なくなっていた[16]
  • 1897年4月19日に『Dallas Morning News』で語られた、テキサス州オーロラ(Aurora)からの話は[17]、数日前、飛行船が、風車 - のちに水ためポンプであると断定された - に激しくスマッシュし、それからクラッシュした、と報じた。占有者は死亡しずたずたに傷つけられたが、話は、パイロットと推定される者は「この世界の住人ではない」("not an inhabitant of this world")と報じた[18]。残骸には奇妙な象形文字ふうの図形が見られたし、残骸が似ていたものは「アルミニウムと銀の混合物...その重さは7トンあったにちがいない」("a mixture of aluminum and silver ... it must have weighed several tons")[18]。20世紀に、クラッシュ事故現場から回収された異常な金属材料は、アルミニウムと鉄の混合物のパーセントを含んでいると示された[要出典]。話は、パイロットが町の共同墓地に「キリスト教式埋葬」("Christian burial")をされたことに注目して終わった。1973年に、MUFON(Mutual UFO Network、相互UFOネットワーク)の調査者らは、この埋葬の石マーカーとされる物を発見した。彼らの金属探知機が、大量の外来の材料がそこに埋葬されたままであるかもしれないことを示した。しかし、彼らは掘り返すことを許されなかったし、彼らが数年後に戻ってくると、墓石 - とどういう金属材料であれその下に置かれたもの - は、なくなっていた。[要出典]
  • カンザス州ルロイ(Leroy)のアリグザンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)による話は、1897年4月19日ころに起きたとされ、4月23日の『Yates Center Farmer's Advocate』に公表された。ハミルトン、彼の息子、そして賃借人は、飛行船が空中で静止しているのを目撃した。目撃者らがよく見ると、飛行船からの赤い「ケーブル」("cable")が若い雌牛を投げ縄で捕らえていて、また囲いの柵にからまってもいた。ハミルトンは、若い雌牛を解放しようとして失敗したのちに、柵の一部を切り離し、それから「船、ウシ、すべてがゆっくりと昇り、出航するのを驚きあきれながら見た」("stood in amazement to see the ship, cow and all rise slowly and sail off")[19]。なかには、これはキャトル・ミューティレーション(cattle mutilation)の最初の報告ではないかと提言しているひともいる。しかし、1982年に、UFO調査者ジェローム・クラーク(Jerome Clark)は、この話の事実誤認を証明し、インタヴューとハミルトン自身の宣誓供述書をつうじて、この話が、いちばんとっぴなほら話をでっちあげるライアーズ・クラブ(Liar's Club)競技会に勝とうとして成功したことを裏付けた。[要出典]

ほかの事例[編集]

1896年よりも前[編集]

1868年にチャールズ・フォートは、チリコピアポの謎の飛行船1つの目撃を引証した。それは、やかましい音をたてるモーター駆動の、巨大な光り輝く鳥として説明された[20]

ふつうの飛行船のかわりだねとして、1880年7月29日に、ケンタッキー州ルイビルの目撃者2人は、ある飛行物体を見たが、それは、背中に複数の翼がある「両手で操作しているらしい機械類に取り囲まれた1人の男」("a man surrounded by machinery which he seemed to be working with his hands")と説明された。わずか1ヶ月後に、同様な目撃がニュージャージーで起きた。「それは明らかにコウモリの翼とカエルの改善された脚をもつ男であった...怪物は機関車のホイッスルに応えて複数の翼を振った」("it was apparently a man with bat's wings and improved frog's legs... the monster waved his wings in answer to the whistle of a locomotive")は、『ニューヨーク・タイムズ』に書かれた[20]

1887年の波[編集]

1887年にはアメリカ合衆国東海岸で多くの謎の飛行船の報告があった[21]

1909年 – 1913年[編集]

1909年に一連の飛行船の目撃がニューイングランド[22]、ニュージーランド[23]、そしてヨーロッパ各地であった[24]。のちの複数の報告は、1912年と1913年のイギリスから来た[25]。しかし、このときまでに飛行船の技術は、十分に発達しており(フェルディナント・フォン・ツェッペリンは、そのときまでに10年間近く巨大な客を運搬する飛行船を飛行させていた)、これらは地球外的生命の来訪あるいは新聞の捏造のより合理的な証拠というよりもむしろ小さいプライベートな飛行船であったかもしれないという見通しを立てていた。

マサチューセッツのビジネスマン ウォーレス・ティリンガースト(Wallace Tillinghast)は、自分が建造した飛行船のために自分は1909年の波の責任があるという主張で悪名高くなっていたが、彼の主張はけっして実証されなかった。

もっと後の研究[編集]

ジェローム・クラーク(Jerome Clark)はつぎのように書いている、「1887年より後の飛行船の複数の波の、好奇心をそそる1つの特徴は、それぞれ歴史的記憶から引き離されたことであった。たとえば、1909年には、大量の世界的な目撃と、付随する議論と研究があったのに、同時代の複数の記述は、わずか10年前の非常に大きく公表された複数の出来事をほのめかしていない[23]

クラークは、つぎのように書いている、「19世紀後半の飛行船の恐怖にかんする真実をあばこうとする」あらゆる試みは「不幸な現実に直面する:新聞報道は信頼し得なかった。どの独立した調査者(「飛行船学者ら」('airshipologists'))も、目撃者とされる者らと直接、話したり、その証言を証明しあるいはその事実誤認を証明しようとしたりしなかった。たった1つを例外として、どの目撃者も1950年代にさえインタヴューされなかったし、おそらくなかには1950年代にはまだ生存者もいたであろう。」("uncover the truth about the late 19th-century airship scare comes up against some unhappy realities:newspaper coverage was unreliable;no independent investigators ('airshipologists') spoke directly with alleged witnesses or attempted to verify or debunk their testimony;and, with a single unsatisfactory exception, no eyewitness was ever interviewed even in the 1950s, when some were presumably still living.")[26]

クラークが引証している「たった1つの満足のいかない例外」("single unsatisfactory exception")は、1952年にエドワード・J・ラッペルトのインタヴューを受けた、ある『サンフランシスコ・クロニクル』の元被雇用者である。ラッペルトは、つぎのように書いた、すなわちその男性は、「原稿運び係であった...事件を思い出したが、時間のせいで詳細は消え去った。彼はわたしに、編集者である自分と新聞のスタッフは、彼のいわゆる「船」('the ship')を見た、と実際に語った。彼の話は、たとえ50年、経っていても、新聞のだれも自分らが見たものを語らないと彼が言ったときにわたしが聞いた他のものの気味があった。彼らは、自分たちが「気が狂っている」('crazy')とは思われたくなかった」("had been a copy boy…and remembered the incident, but time had cancelled out the details.He did tell me that he, the editor of the paper, and the news staff had seen 'the ship', as he referred to the UFO.His story, even though it was fifty-six years old, smacked of others I'd heard when he said that no one at the newspaper ever told anyone what they had seen;they didn't want people to think they were 'crazy'.")

ジェーコブズはつぎのように注意している、「飛行船という考えに対するたいていの反対論は、目撃者らは自分らが見たと主張する物を見なかったと想定する個人らから来た。これは、1896年 - 1897年の現象と、1947年に始まる現代の未確認飛行物体現象とをむすぶ決定的な環である。これはまた、未確認飛行物体がユニークな現象を構成するか否かをめぐる議論の中心をなしていた。」("Most arguments against the airship idea came from individuals who assumed that the witnesses did not see what they claimed to see.This is the crucial link between the 1896–97 phenomenon and the modern unidentified flying object phenomenon beginning in 1947.It also was central to the debate over whether unidentified flying objects constituted a unique phenomenon.")[27]

2009年に、アメリカの作家J・アラン・ダネレック(J. Allan Danelek)は書籍『The Great Airship of 1897』を書いた。その中で彼は、謎の飛行船は、のちのより大きな乗客を運搬する一連の飛行船の試験機として飛行機の試作品を建造するために、ことによるとサンフランシスコからの裕福な投資者から資金提供を受けたかもしれない、未知の個人の作品である、という論を唱えた。作品の中で、ダネレックは、1896年に入手可能な材料と技術を使用して船が建造されたかもしれないその方法(理論的な線画(line drawings)と技術的な詳細を含めて)を説明している。ダネレックは、船は、特許侵害からデザインを守るためにのみならず、失敗に備えて投資者らを守るためにもまた、ひそかに建造された、と提案した。彼は、これらの飛行が、初めはカリフォルニア上空で、そしてのちになってようやくミッドウェスト上空で見られたことに注意して、発明者は、西から東に移動しながら、後方支援のために主要鉄道線をたどりながら、一連の試験飛行をおこなっていた、時代から新聞記事の - すべてではないにしても - 多くの基礎を形成したのはこれらの実験飛行であった、と推測している。デネレックはまた、これらの報告が1897年4月なかばに突然、終わったことに注意し、船は、災害に遭ったかもしれず、冒険を事実上、終え、目撃に神話の国に落ちることを許している、と提案している。

説明[編集]

捏造と誤確認[編集]

1896年 - 1897年の波の間には、飛行船の目撃を説明しようとする多くの努力があった。あるひとは、飛行船は、観察者によって誤確認された、光っている甲虫の群れではないか、と提案した[28]

ジェーコブズは、多くの飛行船の話は、「ジャーナリスティックな捏造を実行している、進取の気性に富む記者ら」("enterprising reporters perpetrating journalistic hoaxes")とともに生じた、と考えている[7]。彼は、これらの話の多く「は、冗談半分な口調と、センセーショナルなものの強調のために確認しやすい」("are easy to identify because of their tongue-in-cheek tone, and accent on the sensational")ことに注目している[7]。さらにそのうえ、多くのそういう新聞の捏造においては、筆者は自分の意図を「最終行で - 自分は精神病院から書いている(かまたは何かそういう趣旨)を - 言うことによって」("by saying – in the last line – that he was writing from an insane asylum (or something to that effect)")明らかにしている[29]

人類の飛行船[編集]

なかには、飛行船の報告は本当の話である、と主張したひとびともいる。 操縦し得る飛行船は、1863年のソロモン・アンドリュース(Solomon Andrews)以来、アメリカ合衆国内で公然、飛行させられていたし、多くの発明者は、飛行船および航空機のデザインを作っていた(秘密主義の発明者らが、進歩した能力をそなえた実現可能なふね(craft)を発達させたかもしれないという考えは、1886年のジュール・ヴェルヌの小説『征服者ロビュール』の焦点であった。)。実際に、2人のフランス軍士官および技師、アルテュール・クレブス(Arthur Krebs)およびシャルル・ルナール(Charles Renard)は、はやくも1885年に『La France』という電動飛行船で飛行し、11か月間にわたって船の試験飛行に7回も成功した。また1896年 - 1897年の期間に、ダーフィット・シュヴァルツは、アルミニウム外板の飛行船を建造したし、これはテンペルホーフ・フィールド(Tempelhof Field)上空を首尾よく飛行し、それから硬着陸ちゅうに修復し得ないほど損害をこうむった。この出来事は2つとも、実用的な飛行船を建造する技術が当の期間に存在したということをはっきりと証明したが、もし1896年 - 1897年に目撃されたカリフォルニアおよびミッドウェストの飛行船の能力の複数の報告が本物であるならば、それはそのときまで建造されたどの飛行船よりもかなり進歩していたであろう。

ライマン・ギルモア(Lyman Gilmore)およびチャールズ・デルズチャウ(Charles Dellschau)をふくむ個人数人がのちに、飛行船のデザインおよび建造にかかわったことの可能的な候補であると確認されたが、これらの考えを支持する証拠はほとんど見つけられなかった。

地球外生命体の起源の主張[編集]

地球外生命体説を引証する初期の、いずれも1897年からの、情報源は、『ワシントン・タイムズ』を含んでいるが、同紙は、これら飛行船は「火星からの予備調査隊」("a reconnoitering party from Mars")であると推測した。そして『セント・ルイス・ポスト・ディスパッチ』(Saint Louis Post-Dispatch)は、これら飛行船について、「これらは、探し求めている惑星を、最後には、侵略する、恐ろしい、火星からの来訪者であるかもしれない」("these may be visitors from Mars, fearful, at the last, of invading the planet they have been seeking")と提言した[30]。1909年に、『Otago Daily Times』(ニュージーランド)に載せられたある手紙は、当時その国で報告された謎の飛行船の複数の目撃は、火星の「原子力宇宙船」("atomic-powered spaceships")によるのではないかと提案した[23]

脚注[編集]

  1. ^ Clark, Jerome (1993), Unexplained! 347 Strange Sightings, Incredible Occurrences, and Puzzling Physical Phenomena, Detroit: Visible Ink Press, ISBN 0-8103-9436-7 .
  2. ^ a b c Reece 2007, p. 14.
  3. ^ a b c d e f g Reece 2007, p. 11
  4. ^ a b c Reece 2007, p. 11.
  5. ^ a b c d Reece 2007, p. 12.
  6. ^ Reece 2007, pp. 12–13.
  7. ^ a b c Jacobs 1975, p. 16.
  8. ^ a b Reece (2007), page 14.
  9. ^ Dash, Mike (2000), Borderlands: The Ultimate Exploration of the Unknown, Woodstock: Overlook Press, ISBN 0-87951-724-7 .
  10. ^ a b c d e f g Reece 2007, p. 12
  11. ^ a b c d e Reece 2007, p. 10
  12. ^ Reece 2007, pp. 10–11
  13. ^ UFOs And Fairies/Legends/Supernatural – Pt. I
  14. ^ Jacobs, p. 10
  15. ^ a b c d e f g h i Reece 2007, p. 13
  16. ^ Reece 2007, p. 13.
  17. ^ Crash, UN Museum, http://www.unmuseum.org/crash19.htm .
  18. ^ a b Jacobs 1975, p. 17.
  19. ^ Jacobs 1975, p. 15.
  20. ^ a b Coleman, Loren (2001), Mothman and Other Curious Encounters, Cosimo, ISBN 1-93104-434-1 .
  21. ^ THE MYSTERY AIRSHIP LOG - 1871 through 1895”. angelfire.com. 2009年8月6日閲覧。
  22. ^ Stephen Whalen and Robert E. Bartholomew: The Great New England Airship Hoax of 1909, in: The New England Quarterly, Vol. 75, No. 3 (Sep., 2002), pp. 466-476 (JSTOR link)
  23. ^ a b c Clark (2000), page 123.
  24. ^ The Airship Wave of 1909”. ufo.se. 2007年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月6日閲覧。
  25. ^ 1970s Phantom Airships of 1913 Archived 2007-06-14 at Archive.is
  26. ^ Clark (1998), page 37.
  27. ^ Jacobs, pages 33–34.
  28. ^ Jacobs 1975, p. 30.
  29. ^ Jacobs 1975, pp. 17–18.
  30. ^ Jacobs 1975, p. 29.

出典[編集]