詰襟

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詰襟制服を着る継宮明仁親王(1945年)

詰襟(つめえり)とは、衣服から垂直に立ち、のまわりを筒状に覆うようになっており、襟の前をホックや紐などで締めて着用するタイプのをいう(⇔「開襟」)。襟の仕立て方によって立襟折襟に大別される。

歴史[編集]

詰襟はもともと、近世以来の欧州で、軍人官僚などの制服として広く用いられた。また、満洲民族もその民族衣装の旗袍で詰襟を用いていた。そのもともとの機能は、頚部の保護ないし保温ではなかったかと思われる。縄などで首を絞められた場合や刃物による頸部攻撃に対して、詰襟は防御に効果的であるからである。

日本でも明治初期に、欧州から詰襟の洋服が導入され、ひろく軍人官吏警察官鉄道員教員などの制服として採用された。だが、まず1938年昭和13年)に陸軍軍服折襟(将校は立折襟)のものに変更され、その他はいずれも日本の敗戦をおもな契機として、海上自衛隊の夏服を除き背広型に変更された。社会人が着用した詰襟として最も遅くまで残っていたのは、関西地区の鉄道員であろうが、これも1980年代はじめごろまでには背広型に変更された。

アメリカ海兵隊[編集]

一等軍曹への名誉昇進で、ブルードレスを着る元海兵隊員のR・リー・アーメイ

アメリカ軍制服の上着は陸海空がジャケットであるのに対し、アメリカ海兵隊の正装だけは『ブルードレス』と呼ばれる詰襟となっている。これは1798年に海兵隊が再建された際、刃物から首を守る防具として革製のカラー(襟)が支給されたことに由来する。

なお女性用は詰襟ではなくジャケットが採用されている。

学生服としての詰襟[編集]

今日まで日本で広く詰襟が残っているのは、男子学生服としての利用である。これは、もともと明治期に海軍士官型の制服をモデルとしたものである。1879年学習院の当時の院次長だった渡辺洪基が導入。渡辺は1886年帝国大学(現・東京大学)の初代総長に就任し、そこでは金ボタンを用いた陸軍式を採用した[1]

その後、小中学校にまでひろく普及した。フランスないしプロイセン(現在のドイツの一部)など欧州の軍服に範を採ったものであった。

敗戦後に連合国軍総司令部 (GHQ) は教育勅語の廃止や中等教育における三原則の推進など数々の教育改革を行ったが、学生や生徒の服装についてまでは介入しなかったために、詰襟学生服は戦後も日本の学校教育の中に生き延びることになる。韓国でも、1980年代初め頃までは、日本と同様の詰襟学生服が着用されていた。女子中学・高校生の制服としては、香港の伝統ある名門校を中心に、旗袍(チーパオ)をかたどった詰襟の制服がみられる。また、旧南ベトナムを中心に女子中学・高校で着用されるアオザイ型制服も、詰襟制服の例といえないこともない。

詰襟学生服の衰退と意味の変化[編集]

一般の大学生も戦前 - 1950年代前半頃には学生服を着用していたが、大学が徐々に一般化してきた1950年代中期頃になると学生服は上着のみ、スラックスズボンは好きな色(黒色以外)を穿くという崩したスタイルが見られ始め、さらに大学生のスタイルの多種多様化によって学生服離れが加速し、1960年代中期頃までに大学生の詰襟学生服姿は姿を消した。学園紛争を大学生の私服化の契機とするという見方もあるが、それ以前に私服化は進んでおり、誤解である。ただし、高等学校においての服装自由化は学園紛争の影響よるところが大きい。1970年頃、生徒の要求によって制服自由化を認める学校が現れてきた。この頃詰襟は、民主主義と主体性を求める生徒の運動によって、徐々に衰退していった。

1980年代に入ると、生徒獲得競争に励む私立学校や中堅から底辺レベルの公立高校を中心に、より魅力的なブレザー型にモデルチェンジし、それを売り物に生徒を獲得して学校経営の安定をはかろうという傾向が台頭した。この時期には学校が競争と経営を重視することにより、詰襟が衰退したといえる。

また、公立中学校は生徒獲得競争の必要がないが、義務教育である公立中学校で制服を強制する行為自体が批判され、その結果、より動きやすいブレザーにするという妥協策がとられて、徐々に詰襟が衰退しつつある。

その上、折しも一部学校が荒れ放題だった1980年代、一部学校では荒れるに従い改造学生服や変形学生服が横行したため、制服を改造しにくく、変形タイプのものが入手しにくいブレザーへと変更したという側面もある。

全国で詰襟学生服の採用率は2000年代中盤で高校で約2割、中学校で約7割とのデータがある(尾崎商事(現・菅公学生服マーケティング部社員談)。

今日まで詰襟の制服が比較的よく維持されているのは、主に中学校、歴史の古い(=20世紀初めに興された私塾をルーツに持つ)私立学校、旧制中学の伝統を汲む公立高の伝統進学校である。ここでは、学園紛争時に自由化されたのでない限り、制服自体が伝統とアイデンティティの象徴となっているケースもある。

詰襟学生服の型[編集]

中学・高校生用の詰襟学生服の標準型については詳細な規定(標準型学生服認定基準)があり、詰襟部分については

  • 後部襟の高さ:4cm±0.2cm。
  • 前部襟の高さ:レギュラーカラーが3.6cm±0.2cm、ラウンドカラーが3.0cm±0.3cm(アールの中心部)
  • 上記はA体・AB体に適用し、B体または特殊体型のものは別途考慮

となっている。ただし、大学の応援団員や、一部の高校生には、襟がこれより高い学生服や逆に低い学生服を着ている者もみられる。慶應義塾大学やその一貫教育校の指定制服は、襟の高さが3.5cm(後部)で、標準型より約5mm低い。

一般に、襟元を鈎ホック2個でとめ、首に直接触れる襟部分には白いプラスチック製のカラーと呼ばれる板を装着して、汗や垢で汚れた際は交換可能な構造となっている。

詰襟のサイズは、かつて首まわりにピッタリ合うのがよいとされたが、着用感がたいへん窮屈なので、1960年代には襟に指1本程度はいるサイズ、さらに最近は首まわりより4cm大きめというように、しだいに首まわりに対し緩くなってきた。

学校によっては、校則に従い、襟の左右に校章学年章などを装着させている。生地の色は一般に黒であるが、紺色や、まれに灰色などを採用する学校もある。また、海軍士官型の制服では、襟に黒い蛇腹のヘリトリで装飾を加える例もある。

元来詰襟は首まわりの着用感がかなり窮屈であるうえ、伸び盛りの中学・高校生にはすぐに襟のサイズがきつくなる。その窮屈さを緩和するため、ノーカラーにして着用する生徒もいる。最近ははじめからプラスチックカラーを省略し、襟の前を丸くしホックを1個とし、着用感に配慮したラウンドカラーと呼ばれるタイプも着用されるようになった。ラウンドカラーでは、首の素肌が直接襟に触れやすくなるので、襟の内側が不潔となりがちである。家庭での洗濯が困難であった従来の学生服と異なり、素材や縫製技術の進歩によって学生服を丸洗いできるようになったため襟は汚れないと説明されることもあるが、ワイシャツのように数日おきに学生服を洗濯することは現実には困難であり、また頻繁な洗濯が型崩れを招かないという保証もないので、カラーつきの型をノーカラーで着用する場合もラウンドカラーの場合も、襟の内側が次第にしみこむ汗や垢で不潔となってゆくことは避けがたい。また、ノーカラー・ラウンドカラーの場合、襟章の裏ネジが首の素肌に直接当たり、金属アレルギーを刺激する問題がある。とくに、校章学年章のように複数のバッジを襟につけさせる校則の学校では、首の数ヶ所がネジで擦れ、着用する生徒の負担が増す。

詰襟と生徒管理[編集]

「襟を正す」という言葉に象徴されるように、生徒指導上は、詰襟をきちんと着用するよう生徒に要求することで、社会の規律に従うという価値観を生徒の中に養うことができる可能性が僅かにある。これは、出身者が工場などの労働者になった1960年代までの公立中学や職業高校などでは、重要な価値観だった。また、スパルタ教育で急速に進学実績を上げた私立高校でも、規律正しい心構えを養うことで、多少の苦しさにも耐えられる勉強への真剣な姿勢を培う指導がなされた。生徒が詰襟がきついと苦情めいたことをもらすと「学校で決められた規則に生徒はあれこれ文句を言うものではない」「批判するよりまず生徒としての義務を果たせ」「規則を守れないのは、不良の始まりだ」といった指導が加えられた。他律的な規範に従順に従い、窮屈さに耐えてでも詰襟をきちんと着用した生徒もいる一方で、このような生徒指導に反発し、これ見よがしにわざと襟のホックを外したままにして制服を着る者もあった。 だが最近は、子どもの権利条約とのかかわりで、窮屈なカラーなど子供に身体的な苦痛を与える服装の強制を望ましくないとする考え方が強まり、学校側でも、襟のホックをはずしたまま着ることを許容する傾向が見られる。しかし、香港では校則が一般に日本より厳格で、亜熱帯の厳しい気候にもかかわらず、旗袍の詰襟ホックをきちんとかけて着用することが、むしろ名門校に学ぶ生徒としてのプライドになっている。但し、それは自発的な動きであり、「他から押し付けられた」規範ではない。

脚注[編集]

  1. ^ 読売新聞夕刊「はじまり考」、2012年3月13日付3面

関連項目[編集]

外部リンク[編集]