角田覚治

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角田覚治

角田 覚治(かくた かくじ、1890年明治23年)9月23日-1944年昭和19年)8月2日)は、日本海軍軍人、海軍中将功二級

生涯

太平洋戦争まで

角田覚治は1890年(明治23年)9月23日新潟県南蒲原郡本城寺村字諏訪新田(現:三条市諏訪)で父角田利八と母角田ソメの二男に生まれる。実家は豪農で父親は村長を務めた事もある。家族は兄1人妹2人弟3人の7人兄弟であった。旧制三条中学校(現:新潟県立三条高校)在学中に新潟港遠足に行った折見た海軍士官に憧れ1908年(明治41年)9月14日海軍兵学校第39期生として入学、入学時の席次は150人中102番。1911年(明治44年)7月18日に卒業。卒業成績148人中45番。少尉候補生となると練習艦隊の巡洋艦「阿蘇」乗組、巡洋戦艦「伊吹」乗組を経て1912年大正元年)12月1日に正式に少尉に任官、巡洋艦「千代田」乗組となる。

1913年(大正2年)に海軍砲術学校普通科学生、翌3年に海軍水雷学校普通科学生となり砲術・水雷術を学び、12月1日に中尉に進級すると第一艦隊所属の戦艦「摂津」乗組みとなる。この年に第一次世界大戦が勃発している。1916年(大正5年)12月に装甲巡洋艦「吾妻」乗組になった翌年、駐日アメリカ大使ジョージ・W・ガスリーが在職中に死去、遺体をアメリカ本国に移送する任務が「吾妻」に下り1917年(大正6年)6月25日にサンフランシスコに入港、角田は初めてアメリカ合衆国を目にする。

12月に大尉に進級すると海軍大学校乙種学生となり、翌1918年(大正7年)には砲術学校の高等科学生となる。戦艦「霧島」分隊長、駆逐艦「」乗組みを経て1920年(大正9年)に防護巡洋艦「須磨」砲術長、翌年には巡洋艦「天龍」砲術長、1923年(大正12年)3月には巡洋艦「夕張」艤装員、5月には同艦の砲術長と、典型的な「鉄砲屋」(砲術士官)としての道を歩む。

12月に少佐に進級、海軍大学校甲種23期生となり、1925年(大正14年)11月に卒業する。12月に第一水雷戦隊参謀、翌1926年に新鋭巡洋艦「古鷹」砲術長となる。1927年(昭和2年)に第二艦隊参謀、1928年(昭和3年)に中佐に進級すると、第一艦隊参謀兼連合艦隊参謀となる。

1929年(昭和4年)に第一航空戦隊参謀に転属、砲術の専門家だった角田は初めて航空関連の任務に就く。

太平洋戦争

1940年(昭和15年)に第三航空戦隊司令官に任命されると、翌年、9月には、第四航空戦隊の司令官として、開戦の日に空母龍驤」でダバオ飛行場の空襲を指揮している。角田の戦法は、有利な距離に艦を移動し、敵の攻撃を受ける前に有効射程距離からの砲撃を行うと云う砲戦の定石戦法(いわゆるアウトレンジ戦法)を航空戦に応用し、敵よりも優位な位置で航空機を発艦出来る様空母を突出させたり、インド洋作戦の際、悪天候で航空機が発艦出来ない時には空母の高角砲で敵基地砲撃する等、奇想天外な戦法を行う。

1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー作戦の支作戦であるアリューシャン作戦では空母龍驤の艦攻隊や空母隼鷹の艦爆隊でダッチハーバーを爆撃して陽動を行うほか、攻撃力を補うために巡洋艦搭載の九五式水偵4機を爆装で出撃させて2機を喪失するなどの強引な用兵で被害を出している。10月、南太平洋海戦では第三艦隊司令長官の南雲忠一が乗る旗艦「翔鶴」が損傷して航空戦の指揮を委譲されると、乗艦「隼鷹」(商船改造空母でそれほど速力が出なかったが)を最大戦速で突出させ力戦(その様子を見ていた他艦の乗員は、「槍を抱え敵陣に突っ込んで行く騎馬武将の様だった」と回想している)、米軍の空母「エンタープライズ」を撃退、「ホーネット」を大破させる(その後、総員退鑑したホーネットの鹵獲を命令されるが曳航不能のため駆逐艦雷撃で沈めている)。この時に角田の意を受けて「隼鷹」飛行長が発した、未だ飛行隊の行動範囲外であるにも関わらずの攻撃隊発進、そして「本艦は全速力で飛行隊を迎えに行く」という壮烈な命令は、角田の闘将ぶりを示すエピソードとして有名である。

1943年(昭和18年)7月、基地航空部隊として再編された第一航空艦隊司令長官に就任し、大本営直轄の決戦部隊として温存策の下、日本本土で錬成にいそしんだ。

1944年(昭和19年)2月、絶対国防圏に危機が迫ると予定を繰り上げて連合艦隊に編入されテニアン島に進出したが、米機動部隊の空襲による地上撃破や反撃による損害、ニューギニア方面への戦力抽出などにより見るべき戦果を挙げないまま期待されていた戦力を消耗していった。6月のマリアナ沖海戦(あ号作戦)では本来は迎撃の主力となるはずであった第一航空艦隊の戦力は僅かであり、第一機動部隊を充分に支援できなかった。その後、米軍上陸後のテニアン島の戦いでは彼の闘志を持ってしても劣勢は如何ともしがたく、数次に渡る司令部脱出用の潜水艦と会合することにも失敗して地上戦に移行した。7月31日「今ヨリ全軍ヲ率ヰ突撃セントス 機密書類の処置完了 之ニテ連絡ヲ止ム。」との決別の電文を発し、爾後の消息不明。戦死と認定されている。

人物

太平洋戦争中の日本海軍の中でも屈指の闘将といわれる。砲術科出身であった為に大艦巨砲主義者であり、源田実が『航空万能論』を提唱した際、海軍兵学校教頭であった角田は「腰抜けの空論、たとえ航空機が無くても戦うのが海軍軍人魂」と主張して憚らず、航空戦力を否定していた。(これに対して、源田は「石頭」「古臭い鉄砲屋」と罵っている)。

戦後、同じ闘将タイプの山口多聞と比較される事が多く、「開戦が遅れたならば航空艦隊を縦横無尽に運用して活躍出来た悲劇の提督」と称され惜しむ軍事史研究家の意見も多い。だが、彼の執った戦闘指揮の記録から推察するに、航空戦を正しく遂行できる能力があったとは言い難いという向きもある。角田自身は山口よりも兵学校卒業は1年先輩(但し大佐・少将昇進は山口の方が1年早い)であったが、山口の采配を高く評価し「彼が指揮官なら、何時でも喜んで指揮下に入る」と公言し、ミッドウェー海戦で山口が空母「飛龍」と運命をともにした事を悼んだと云う[1]

また、米海軍きっての猛将ハルゼーともよく比較される。共に「見敵必戦」を地で行く闘将であったが、ハルゼーの闘志を上手く使いこなした米軍に対し、角田は不利な戦況や周囲の制約もあって存分に腕を振るい得たとは言いがたく、両者の明暗は正に日米両軍の人事面での格差を示すものといえる。

闘将でありながら部下に対しては非常に温厚且つ丁寧な態度を見せ、水兵や下士官に対しても決して上官風をふかさず気軽に挨拶や言葉を交わし、部下将兵にも慕われていたと云う。しかし声を掛けられた側は、上官である角田にどう挨拶返しをしたら良いか困ったという逸話も残っている。

第一航空艦隊(一航艦)では、南洋に点在する島々を基地とする為、部隊が身軽に移動できる事を重視し、士官も兵食を採用、携行する荷物も最小限とした。角田自身がこれを実践して、自分用の粗末な食器を含む荷物を自ら持参して移動した。幕僚たちの「司令長官ともあろうお方がいくらなんでも」との声にも、「ここは戦場である」と取り合わなかったという。飾らない実利本位の一面が見て取れる。

最後はテニアン島の守備を任されるが、航空機も艦艇も持たない彼は、部下に対して「掘ろう!断じて掘り続けよう!」と素手で岩盤を掻き、地下陣地構築を厳命した。絶望的な環境でも部下の士気を鼓舞し続けた。在テニアンの民間人に対しては、「皆さんは民間人ですから、私たち軍人のように、玉砕しなければならないということはないのですよ。」との呼びかけを行ったといわれている。そのためか、テニアン島では、サイパンの戦いや、1年後の沖縄戦とは違い民間人の大量集団自決は確認されていない。

家族

1920年(大正9年)4月9日に旧会津藩の学問師範役の娘の婉子(えんこ)と結婚。兄が角田と同期でその紹介をきっかけとした恋愛結婚であった。間には4人の娘がおり、うち三女は角田の戦死一年前に16歳で病死、四女は天一号作戦直前に戦艦「大和」を退艦させられた少尉候補生の一人と戦後結婚している。

角田の墓は東京都府中市東郷寺に建立されたが、1992年(平成4年)に婉子が95歳で死去して十七回忌の2008年(平成17年)に婉子の遺言で撤収された為、現在角田の墓は存在しない。また故郷新潟県の角田家の屋敷は2006年7月13日新潟・福島豪雨で失われている。

年譜

脚注

  1. ^ 淵田美津雄; 奥宮正武 (1952). ミッドウェー. 日本共同出版 

関連項目

参考文献