見性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動


見性(けんしょう)とは、人間に本来そなわる、根源的な本性を徹見すること。悟り

概要

性を、仏性法性心性ともいうので、見仏性、見法性、見心性、あるいは見心見性、明心見性などと使用する。性は本来、煩悩に汚染されることはなく、それ自体で清浄なものであり、この自性清浄心に気づくことを指す。禅における悟りであり、臨済禅では今日でも見性を目指して坐禅修行に励む。

中国禅宗では、特に六祖慧能がこれを重んじており、『六祖壇経』でも次のように説かれている。

「一切法に於いて不取不捨ならば、即ち是れ見性し、仏道を成ず」。或いは、そのために『金剛般若経』を重んじることも説く。「善知識よ、若し甚深法界及び般若三昧に入らんと欲する者は、須く般若の行を修し、『金剛般若経』を持誦すべし、即ち見性することを得ん」

見性成仏

この概念は、後に見性成仏という禅の特徴を表す4つの語句の一つとして定着した。教外別伝(きょうげべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、直指人心(じきしにんしん)、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)である。見性がそのまま成仏であるとする。

元々は、宝亮444年 - 509年)の撰述といわれる『涅槃経集解』に、「案ずるに僧亮曰く、見性成仏、即ち性を仏と為すなり」とあるのが最初であるという。六祖慧能の語録である『六祖壇経』の機縁にこれが取り入れられ、よって禅宗の言葉になった。禅では、人間の本性は仏性そのものであり、それ以外に本性として認めるべき物はないという。この仏性を開き現すことを「見性成仏」という。自己に執着し、外物に執着する自己の心を徹底的に掘り下げ、自己の本性として見るべき物はないと悟ったとき、その身がそのまま仏であると悟る。これは特に臨済宗の系統では多く用いられている。

各宗派

曹洞宗では道元禅師の批判(『正法眼蔵』「仏教」巻「四禅比丘」巻)や、瑩山禅師もその様子を『伝光録』第52章で示すなどしたため、多くは用いず、一時の見性に固執することなく、修行と悟りは一体不可分で、無限の修行こそが成仏である「修証一如」のただ坐禅に打ち込むことが最高の修行であるという「只管打坐」を主張した。

臨済宗では見性したのちの、「悟後の修行」である「聖胎長養」を重視する。

関連項目