見性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

見性(けんしょう)とは、人間に本来そなわる根源的な本性を徹見すること[1]。性(しょう)は本来、煩悩に汚されることはなく、それ自体で清浄なものであり、この自性清浄心に気づくことを指す[1]

性(しょう)を仏性法性心性ともいうので、見仏性、見法性、見心性、あるいは見心見性、などと使用する[1]

概要[編集]

における悟りであり、見性はただちに成仏であると考えられた[1]。ただし、道元は見性を全く否定する禅を説く[1]

初期もしくは準備的修行段階である「見道」が[2]、諸の善を加行して順決択分を実し、仏道の応知次第増に念住して初めて見道位とされるが[3][疑問点 ][要検証 ]禅の見性は法悦体験そのものに重きが置かれる[4][要検証 ]もし見道(位)を具えて(発)起すれば次の修道の預流と成るとする[5][独自研究?]

歴史[編集]

禅宗で見性が初めて顕著に現れたのは、中国禅の六祖慧能のときで、『六祖壇経』で次のように説かれている。

一切法に於いて不取不捨ならば、即ち是れ見性し、仏道を成ず」。或いは、そのために『金剛般若経』を重んじることも説く。「善知識よ、若し甚深法界及び般若三昧に入らんと欲する者は、須く般若の行を修し、『金剛般若経』を持誦すべし、即ち見性することを得ん

見性を得ているかどうかは次の修道の初出の果報を体得することによってしか証し得ないものである[5][出典無効]

六祖慧能は『六祖壇経』では次のようにも説いている。

若し仏に帰依すと言わば、仏は何処にか在る。……… 各々自ら観察して、錯(あやま)って心を用うること莫かれ。経文は分明に自らの仏に帰依すと言って、他仏に帰依すと言わず

見性成仏[編集]

各宗派[編集]

臨済宗[編集]

臨済宗では、見性を目指して坐禅修行を行う[1]

曹洞宗[編集]

注釈・出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 中村元ほか編 『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店、2002年10月、p.287の「見性」の項目。
  2. ^ 『世界大百科辞典』 2007年版 (平凡社) 索引・補遺巻 「見道」より。
  3. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『阿毘達磨倶舍論本頌(世親玄奘譯)』 (T1560_.29.0322b02: ~): 説爲慧勤定 實諸加行善 初業順決擇 及修見道位 念住等七品 應知次第増。
  4. ^ 檜垣巧 「見性体験について ―霊性的自覚の自内証とその意義―」 『密教文化』Vol.1994、密教研究會、11頁。※出典中の開悟は見性と同義で用いられており、釈迦の菩提樹下の一箪の用法とは異なる。
  5. ^ a b 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『大般若波羅蜜多經 (玄奘譯)』 (T0220_.07.0349a26: ~): 若起具見道應成預流。若起進修道應成一來不還。

関連項目[編集]