要石

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大鯰を打ち下ろす武甕槌大神

要石(かなめいし)は、茨城県鹿嶋市鹿島神宮千葉県香取市香取神宮にあり、地震を鎮めているとされる、大部分が地中に埋まった霊石

外観[編集]

地上に見えている部分はほんの十数センチメートル

香取神宮の要石の地上部分は丸いが、鹿島神宮の要石の地上部分は凹んでいる。

鹿島神宮の要石は、境内ではあるが社殿群から離れた、森の中の小さな祠にある。香取神宮の要石は総門の手前にある。

伝承[編集]

『鹿島宮社例伝記』によれば、鹿島社要石は仏教的宇宙観でいう、大地の最も深い部分である金輪際から生えている柱と言われ、この柱で日本は繋ぎ止められているという[1]。同じ設定を持つ場所に琵琶湖竹生島がある。また、日本書紀では「鹿島動石(ゆるぐいし)」「伊勢大神宮」など、漂う日本を大地に繋ぎ止める「国中の柱」とされる場所が全国に点在しているとされていた。『詞林采葉抄』などの文献資料から、神仏習合を経て14世紀中頃に要石のイメージは固まったと見られる[1]

地上部分はほんの一部で、地中深くまで伸び、地中で暴れて地震を起こす大鯰あるいはを押さえているという。あるいは貫いている、あるいは打ち殺した・刺し殺したともいう。 龍は柱に巻き付いて国土を守護しているとも言われる[2]

そのためこれらの地域には大地震がないという。ただし、大鯰(または竜)は日本全土に渡る、あるいは日本を取り囲んでいるともいい、護国の役割もある。なお、鹿島神宮と香取神宮は、日本で古来から神宮を名乗っていたたった3社のうち2社であり(もう1社は伊勢神宮)、重要性がうかがえる。

鹿島神宮の要石は大鯰の、香取神宮の要石はを押さえているという。あるいは、2つの要石は地中で繋がっているという。

要石を打ち下ろし地震を鎮めたのは、鹿島神宮の祭神である武甕槌大神(表記は各種あるが鹿島神社に倣う。通称鹿島様)だといわれる。ただし記紀にそのような記述はなく、後代の付与である。武甕槌大神は武神・神であるため、要石はしば剣にたとえられ、石剣と言うことがある。鯰絵では、大鯰を踏みつける姿や、剣を振り下ろす姿がよく描かれる。

逸話[編集]

江戸時代には「ゆるげどもよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは」で締めくくる呪い歌を紙に書いて3回唱えて門に張れば、地震の被害を避けられるという風習があった。1596年の京都の公家日記『言経卿記』に、近畿地方で起こった地震の際に、余震避けとして3首の呪い歌が街中に貼られたという記録がある[3]

1255年建長8年)に鹿島神宮を参拝した藤原光俊は、「尋ねかね今日見つるかな ちはやぶる深山(みやま)の奥の石の御座(みまし)を」と詠んでいる。

古墳の発掘なども指揮した徳川光圀は、1664年、要石(どちらの要石かは資料により一定しない)の周りを掘らせたが、日が沈んで中断すると、朝までの間に埋まってしまった。そのようなことが2日続いた後、次は昼夜兼行で7日7晩掘り続けたが、底には達しなかった。

1855年10月安政大地震後、鹿島神宮の鯰絵を使ったお札が流行し、江戸市民の間で要石が知られるようになった。地震が起こったのは武甕槌大神が神無月(10月)で出雲へ出かけたからだという説も現れた。

阿刀田高の『ストーリーの迷宮』(文藝春秋、後文春文庫)には大きな地震が学校の授業中に起こらぬように要石に祈る男と巡り合った小説家の不思議な話「学校が危ない」という短編がある。

鹿島神社の要石[編集]

宮城県加美町鹿島神社にも要石があり、風土記によれば鹿島神宮のものを模したものだという。1973年にはまた別の要石が奉納され埋められた。

この鹿島神社は鹿島神宮と祭神は同じだが、他の多くの「鹿島神社」と違い、鹿島神宮ではなく塩竈神社からの勧請である。

比喩[編集]

要石は、動かせないもの、動かしてはならないものの比喩に使われることがある。

ただし、重要なもの、欠けてはならないものの比喩に使われるキーストーン (keystone) が要石と訳されることがある。そのため、この2つの比喩は混同しやすい。

脚注[編集]

  1. ^ a b 黒田 2003, pp. 195-201.
  2. ^ 黒田 2003, pp. 201-206.
  3. ^ 黒田 2003, pp. 186-188.

参考文献[編集]

黒田日出男 『龍の棲む日本』 岩波書店〈岩波新書〉、2003年ISBN 4004308313 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]