西日本銀行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
Camera-photo Upload.svg 画像提供依頼:西日本銀行時代の特徴的な支店や、看板などの画像提供をお願いします。2011年12月
西日本銀行のデータ
英名 THE NISHI-NIPPON BANK, LTD.
統一金融機関コード 0190
SWIFTコード NISIJPJT
代表者氏名 新藤恒男(取締役頭取)
設立日 1944年(昭和19年)12月1日
(西日本無尽)
所在地
福岡市博多区博多駅前一丁目3番6号
外部リンク www.nishigin.co.jp
特記事項:
2007年以降、外部リンクは無関係な証券系口コミサイトとなっている。
テンプレートを表示
西日本銀行本店
写真は西日本シティ銀行になってからの2011年撮影

株式会社西日本銀行(にしにっぽんぎんこう)は、福岡市博多区本店を置いていた地方銀行。略称は西銀(にしぎん)。

2004年10月1日に福岡シティ銀行合併し、西日本シティ銀行と商号を変更した。

概要[編集]

1944年12月1日、戦時体制下における大蔵省による1県1無尽会社への統合方針に基づき、福岡無尽(のち福岡相互銀行を経て福岡シティ銀行)を除いた県内無尽会社5社と野村銀行(のち大和銀行)によって西日本無尽を設立。資本金の過半は野村銀が出資した[1]1951年10月20日、相互銀行法の施行によって西日本相互銀行と商号変更。その後、福証のほか大証、東証にも上場。有力な相互銀行として成長を遂げた。

1968年合併転換法が成立し、同年には相銀として随一の規模を誇っていた日本相互銀行が都市銀行に転換。太陽銀行として装いを新たにした。同行の転換後、西日本相銀は相銀界首位の地位を占め、普銀転換の最有力候補として取りざたされた[2]

オイルショックは日本経済にも大きな影響を与えたが、宮崎県宮崎市に本店を置く小規模な相銀であった高千穂相互銀行にも不良債権の増加をもたらし、年々進化するコンピュータ化に対応できない状況に追い込まれてしまった。そうしたことから監督官庁であった大蔵省は高千穂相銀の自主再建は困難と判断。同省からの要請で1975年以降、西日本相銀が高千穂相銀のオンライン化、役員の派遣、業務上のノウハウの提供、資金供与など全面的な経営支援を行った[2]1978年に入り、西日本相銀は経営効率化を進め、更なる業容拡大を志向するため高千穂相銀を合併した上で、同時に普銀に転換する方針を明らかにした。しかし、当時の全国相互銀行協会(相銀協)会長で、福岡相互銀行社長の四島司は、有力相銀の離脱は相銀の地位低下につながると猛反発した。また、相銀協離脱後は全国地方銀行協会(地銀協)に加盟するが、その際には地元地銀全行の推薦を得ることが慣行とされていた[2]。だが地元地銀が九州全域に営業店網を構築する西日本相銀は、金融秩序を乱しかねないと懸念を抱き、加盟に難色を示していた。相銀協との話し合いは難航したが、西日本相銀は転換後1年程度協会内にとどまり、その後地銀協に加盟することで了承された。また地銀協への加盟も西日本相銀が「地銀業界の協調と連帯を尊重する」の旨を表明したことから加盟が認められる見通しとなった[3]

1984年4月1日、資金量地銀界11位、店舗の4割が福岡県外に所在する西日本銀行が誕生した[2]2004年10月1日、同行は福岡シティ銀行と合併。西日本シティ銀行として発足した。西日本銀時代の本店は、現在西日本シティ銀本店別館ビルとして使用されている。

沿革[編集]

アメリカ同時多発テロ[編集]

2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件においては、世界貿易センタービル北棟102階で閉鎖したニューヨーク支店の残務整理にあたっていた支店次長と若手行員の2名が犠牲となった[4][5]

脚注[編集]

  1. ^ 『日本地方金融史』P 371 - 372
  2. ^ a b c d 『日本地方金融史』P 376
  3. ^ 『日本地方金融史』376 - 377
  4. ^ 「対米同時テロから2年 西日本銀行で同僚しのび黙とう」『読売新聞西部本社夕刊』2003年9月11日
  5. ^ 「9・11米同時テロ 犠牲家族の遺影に願い 絶えぬ紛争 根絶を」『読売新聞西部本社夕刊』2006年9月11日

参考文献[編集]

  • 日経金融新聞編 地方金融史研究会著『日本地方金融史』日本経済新聞社、2003年。ISBN 4532350514

座標: 北緯33度35分33.796秒 東経130度25分1.092秒