西方院 (大阪府太子町)

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西方院
本堂
所在地 大阪府南河内郡太子町太子1663
位置 北緯34度31分2.28秒 東経135度38分19.24秒 / 北緯34.5173000度 東経135.6386778度 / 34.5173000; 135.6386778座標: 北緯34度31分2.28秒 東経135度38分19.24秒 / 北緯34.5173000度 東経135.6386778度 / 34.5173000; 135.6386778
山号 南向山
院号 喜多院
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
創建年 伝・推古天皇30年(622年
開基 伝・三尼公(善信尼禅蔵尼恵善尼
中興 蓮誉寿性尼
正式名 南向山 法楽寺 喜多院
別称 西方院
札所等 新西国三十三箇所第8番
河内西国霊場第3番
聖徳太子霊跡第33番
公式サイト 南向山 西方院
法人番号 6120105004738 ウィキデータを編集
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西方院(さいほういん)は、大阪府南河内郡太子町太子にある浄土宗寺院山号は南向山。寺号は法楽寺。本尊阿弥陀如来。観音堂は新西国三十三箇所第8番札所で本尊は十一面観音である。

歴史[編集]

河内名所図会』等に見える伝承によれば、推古天皇30年(622年)に聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女、善信尼(俗名月益、蘇我馬子の娘)・禅蔵尼(俗名日益、小野妹子の娘)・恵善尼(俗名玉照、物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前に[1]その塔頭として法楽寺の寺号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めたと伝わる。

以上の縁起から、日本最古の尼寺であるともいう。ただし、『日本書紀』によれば、善信尼は司馬達等の娘、恵善尼は錦織壺の娘で、出家したのは敏達天皇13年(584年)であり、日本最古の尼寺は飛鳥豊浦寺である。

寺伝では天正2年(1574年)に河内国に攻め込んできた明智光秀によって焼かれたという[1]

江戸時代初期の寛永16年(1639年)、衰退し荒廃していた寺を浄土宗の蓮誉寿性尼が中興し、名称を西方院と改めた[1]

かつては叡福寺の塔頭であったが、現在は独立している。

境内[編集]

山門前から聖徳太子廟がある叡福寺を望むことができる。
  • 本堂 - 寛永16年(1639年)再建。本尊は聖徳太子作との寺伝がある阿弥陀如来像。三尼公木像、聖徳太子御二歳像安置。
  • 庫裏
  • 庭園 - 枯山水庭園。
  • 茶室「壽観庵」
  • 観音堂 - 新西国三十三箇所第8番札所で本尊は恵心僧都作との寺伝がある十一面観音
  • 納骨堂 - 聖徳太子の御遺髪(毛骨)が納められている。
  • 鐘楼堂 - 梵鐘は引導鐘と呼ばれている。
  • 山門
  • 聖徳太子御侍女三尼公御廟所 - 上部が欠けている四重石塔が祀られている。

文化財[編集]

前後の札所[編集]

新西国三十三箇所
客番 観心寺 - 8 西方院 - 客番 叡福寺
河内西国霊場
2 念佛寺 - 3 西方院 - 4 龍雲寺
聖徳太子霊跡
32 久米寺 - 33 西方院 - 34 百済寺

所在地[編集]

  • 大阪府南河内郡太子町太子1663

アクセス[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c 竹内街道歴史資料館『西方院の寺宝 -三尼公の威光-』3p

参考文献[編集]

  • 太子町立竹内街道歴史資料館『西方院の寺宝 -三尼公の威光-』太子町立竹内街道歴史資料館、2019年

周辺情報[編集]

  • 叡福寺
  • 隔夜堂 - 叡福寺の堂。阿弥陀如来石仏が安置されている。

外部リンク[編集]