西岸寺 (長野県飯島町)

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西岸寺
西岸寺山門
西岸寺山門
所在地 長野県上伊那郡飯島町本郷1724
山号 臨照山
宗派 臨済宗妙心寺派
本尊 無量寿仏
創建年 弘長元年(1261年)
開山 大覚禅師
札所等 伊那諏訪八十八霊場88番
法人番号 4100005009072 ウィキデータを編集
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西岸寺(せいがんじ)は長野県上伊那郡飯島町にある臨済宗妙心寺派の古刹。山号を臨照山と称する。本尊は宝冠無量寿仏である。

歴史[編集]

弘長元年(1261年)大覚禅師により創建と伝わる。[1][2]寿永年間(1182~1183年)西岸寺地東南に、鎌倉幕府御家人飯島氏が城を構えていることから、幕府の庇護を受けた禅宗をこの地に創建するのに、飯島氏がかかわったと推定される。[1]2世大通禅師は初祖の偉業を讃え大覚禅師の尊像を安置した。この像は昭和48年(1973年)長野県宝に指定された。[1]

康安元年(1361年)6世住持となった大徹至鈍により、寺の沿革や寺と飯島氏との関係や内規など書かれた「西岸寺規式」が文書として残る。寺や一門の規則で、昭和60年(1985年)長野県宝に指定される。「西岸寺規式」によると6世大徹至鈍を中興として、臨照山西岸禅寺と呼び、開山大覚禅師、2世大通禅師、3世大本禅師、4世初翁和尚、5世少林和尚までの住持の名が挙げられている。[2]

6世大徹至鈍は飯島氏一族の出身者で、祖父為観、父為空、幼名を益房。西岸寺の再興のため、物心両面での寺の整備が必要と、規則を作ることから取り組み実践した。[2]応安6年(1373年)寺の三檀那、飯島城主為光、為光の従兄為盛、為光の大叔父為高が寺領を寄進し、室町幕府より諸山の官寺と定められ、この地の一大霊場として発展する。[1][2]

文正元年(1466年)10世瑤林正玖和尚が住持に任命された時に、五山十刹等の住持から贈られた祝文「瑤林正玖住西岸寺京城諸山疏」が残り、昭和47年(1972年)県宝に指定される。[2][1]

天正10年(1582年)織田信長の伊那侵攻により、飯島城が落ち、西岸寺も兵火により焼失するも弁天堂、水月庵は免れた。時の住持16世正巖全直首座は本尊を守り復興の基礎を作ったと伝わる。[1]慶長6年(1601年)徳川家康配下の伊那郡代官朝日受永より、朱印地28石を寄進される。貞享2年(1685年)朱印地28石の内上片桐の瑞応寺に5石、上久堅の玉川寺に3石を分けて、将軍が変わる度に朱印状を受けた。[2]

元和元年(1681年)美濃国正眼寺から入寺された、大極唯一和尚と先代虚雲義舟和尚が建長寺派から、京都妙心寺派の寺院として確固たる基礎をつくり現代に至る。[2]

春谷知乗和尚は宝暦5年(1755年)に白隠禅師を訪ね、伊那の地への巡錫を願い、宝暦7年(1757年)白隠禅師が西岸寺で仏祖三教会を開講する。全国各地より150名を超える僧徒、尼僧等が集まった。[2]

天保年間の鶻山古柱和尚は天保3年(1832年)妙心寺玉鳳院の塔主職に任命され、安政2年(1855年)妙心寺の住持職に任命された。[2]

明治19年(1886年)観音堂より出火、本堂等焼失する。[2]明治25年(1892年)本堂再建。昭和34年本堂等火災焼失。昭和38年(1963年)本堂再建、昭和41年(1966年)には開山堂、位牌堂、納骨堂を再建した。

伊那七福神 恵比寿の寺として札所に登録されている。

境内[編集]

  • 本堂 - 昭和34年(1959年)焼失。[2]昭和38年(1963年)再建
  • 観音堂 - 明治19年(1886年)焼失。大正元年(1912年)観音堂として参道登り口にあった、十王堂を移築した。[2]
  • 開山堂 - 昭和34年(1959年)焼失。昭和41年(1966年)再建
  • 位牌堂 - 昭和34年(1959年)焼失。昭和41年(1966年)再建
  • 納骨堂 - 昭和34年(1959年)焼失。昭和41年(1966年)再建
  • 弁天堂 - 元禄7年(1694年)造営。方一間、宝形造り、桟瓦葺き。大工は藤原氏林安右衛門。[2]
  • 山門 - 天保15年(1844年)建立。間口3.78m、高さ7.65m。大工は木曽十左衛門。鶻山古柱和尚の代[2]
  • 庫裡
  • 鐘楼 - 文久3年(1863年)建立。間口6.3m、奥行6.3m、高さ10.3m。棟梁 立川流一門、斉藤常吉。嵩山古拙和尚の代[2]
  • 参道 - 安永2年(1773年)九江禅至和尚、参道、石垣等修復や新たな普請。[2]
  • カヤの木 - 推定樹齢500年。樹高約20m、地上2mの樹間より杉の木が生えている。カヤの木が懐に抱きかかえるように見えることより、抱寿貴(だきすき)のカヤと呼ばれる。天然記念物。[1]
  • 枝垂桜 - 樹齢推定400年。伊那三女ゆかりの桜。

文化財[編集]

  • 宝冠無量寿仏 - 西岸寺本尊。全高52cm。[2]
  • 聖観音坐像 - 木造。全高63cm、寄木玉眼入。恵信作。元禄13年(1700年)愛知県下平村吉祥院から譲り受ける。[2]
  • 瑤林正玖住西岸寺京城諸山疏 - 室町時代の墨書絹本の軸物。瑤林正玖首座が西岸寺住持に任命され、五山十刹の住持14人が疏を作り贈ったもの。昭和47年(1972年)長野県宝に指定される。[2]
  • 大覚禅師倚像 - 木造腰かけ像、玉眼。高さ101cm、室町初期作と推定。昭和48年(1973年)長野県宝に指定される。[2]
  • 西岸寺規式 - 「臨昭山記録」とも言う。南北朝時代のもので、寺の沿革や飯島氏との関係、内規を記述している。昭和60年(1985年)長野県宝に指定される。[2]
  • 紙本墨書白隠禅師 - 白隠禅師の作品。大極嶺、仏祖三教開莚、鐘馗像、達磨像、閑蟻争拽蜻蜒翼、新燕来休揚柳枝。[2]

所在地[編集]

  • 長野県上伊那郡飯島町本郷1724

交通[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g 『飯島氏および飯島家』飯島紘編集発行、2001年。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『飯島町誌中巻』飯島町誌編纂刊行委員会、1996年。 

参考文献[編集]

  • 飯島町誌中巻 飯島町誌編纂刊行委員会 飯島町発行 平成8年(1996年)
  • 飯島氏および飯島家 飯島紘編集発行 復刻再販 平成13年(2001年)
  • 『飯島町誌中巻』飯島町誌編纂刊行委員会、1996年。