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裴遵慶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

裴 遵慶(はい じゅんけい、生年不詳 - 775年)は、唐代官僚政治家は少良。本貫絳州聞喜県[1][2]

経歴

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幼くして自ら勉学に励み、書物を広く渉猟した。身を慎んで跡をくらまし、当世の時務に才幹を見せなかった。門蔭により任用され、潞王府司法参軍に任じられた。吏部に召し出され、大理寺丞に任じられた。司門員外郎・吏部員外郎を歴任し、判南曹をつとめた。天宝年間、毎年吏部の扱う人選は万を数えたが、遵慶は明敏博識で記憶力が強く、考査簿を詳しく調べて人事の事務を滞らせず、当時に吏事第一と称された[1][2]

天宝末年、楊国忠が政権を握ると、自分につかない者を外官に出したが、遵慶もまた郡太守として出された。至徳元載(756年)、粛宗が即位すると、召し出されて給事中・尚書右丞・吏部侍郎に任じられた。上元2年(761年)、蕭華の推薦を受けて黄門侍郎同中書門下平章事(宰相)となった。広徳元年(763年)、僕固懐恩の反乱軍が汾水流域を兵で封鎖すると、遵慶は代宗に忠実純粋さを買われて、汾州宣慰使として僕固懐恩の説得にあたることになった。遵慶が僕固懐恩と会見して朝廷の意思を伝えると、僕固懐恩は遵慶に従って朝見しようとしたが、副将の范志誠の説に惑わされ、僕固懐恩はけっきょく死を恐れて降伏しなかった。ときに吐蕃長安を陥落させたため、代宗は陝州に避難し、遵慶は汾州から行在に駆けつけた。代宗が長安に帰ると、遵慶は太子少傅となった[1][2]

永泰元年(765年)、裴冕らとともに集賢院待制となり、知政事(宰相)を退任した。永泰2年(766年)、吏部尚書に転じ、再び知選補をつとめた。大暦4年(769年)、尚書右僕射となった。ときに遵慶が選抜した天興県尉の陳琯に不遜の言辞があり、遵慶も連座して省門で鞭罰30を受け、吉州員外司戸参軍に左遷された。大暦10年(775年)10月、在官のまま死去した。享年は九十数歳。著書に古今の礼を叙述した『王政記』があった[3][4]

子に裴向があった[5][6]

脚注

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  1. ^ a b c 旧唐書 1975, p. 3355.
  2. ^ a b c 新唐書 1975, p. 4646.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 3355–3356.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 4646–4647.
  5. ^ 旧唐書 1975, p. 3356.
  6. ^ 新唐書 1975, p. 4647.

伝記資料

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参考文献

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  • 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2 
  • 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6