中国空軍の上海爆撃 (1937年)

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中国軍機から爆撃を受けた後の惨状[1]

中国空軍の上海爆撃は、第二次上海事変中の1937年8月に中華民国空軍により上海に対して行われた空爆である。

中国側では“大世界墜弾惨案”、もしくは“黑色星期六”(暗黒の土曜日)と呼称される。

背景[編集]

上海攻略に当たる日本軍にとって、最新鋭の戦闘機を揃えた中国の空軍戦力は侮りがたいものであった。戦力を無力化すべく、当時木更津・鹿屋航空隊に配備されていた最新鋭の96式陸上攻撃機38機の投入を決定、両航空隊をして第1連合航空隊を結成した。8月8日に九州・鹿屋航空隊所属の陸攻が本拠地を離れ、台湾に進出。これに先んじて中国空軍も南昌に集中する9個大隊の戦闘配置命令を下し、5日に空軍戦力を各地に分散させた。しかし、台風によって両者は睨み合いのまま足取りを阻まれていた。

13日、第三艦隊指令長官長谷川清中将は第1連合航空隊および大連港の加賀、鳳翔、龍驤に出撃命令を下したが、三隻ともに台風のため身動きが取れない状況となっていた。一方、中国空軍司令周至柔中国語版は同日に「空軍作戦第一号令」を発動。これは上海に上陸した日本軍、および長江に展開する日本艦艇を爆装した空軍戦力をして壊滅させる計画であった。

上海の爆撃[編集]

14日早朝、続く「空軍作戦第二号令」を受けた暫編第35中隊の許思廉率いる5機のヴォート V92「コルセア」が筧橋を発進、続いて8時40分、安徽省広徳基地の空軍第2大隊(大隊長:張廷孟中校)に出撃命令が下り、同大隊所属のアメリカノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機en)19機が副大隊長孫桐崗少校率いるもと上海へと向かった[2][3]。10時30分、襲款澄率いる第11中隊6機が黄浦江にいた日本の第三艦隊の旗艦装甲巡洋艦出雲」上空に飛来し、うち3機が11時22分、250キロ爆弾6発を投下。しかし雲によって照準が定まらず、5発は川に落ちて巨大な水柱を起こし、残り1発は、ジャーディン・マセソン社の倉庫に当たる。出雲ともう1隻の軽巡洋艦川内」は高射砲の一斉射撃2回で援護しながら各々艦載機(九五式水上偵察機)を飛ばした。

同日午後4時、南からアメリカ製のカーチス・ホークIIを主力とする中国軍爆撃機の中隊が飛来し、フランス租界と国際共同租界を横切って再び日本の軍艦への攻撃を開始、日本側は高射砲の射撃を続ける。10機の中国軍爆撃機が雲の内外を飛び回り、迎撃する2機の日本軍機は常に空中にいたが、射程距離に到達するには速度が遅く、目標に達するために旋回と出直しを繰り返す。

上海租界の爆撃[編集]

やがて1機の中国軍爆撃機から2つの爆弾がチベット通りが国際共同租界とフランス租界との境界線であるエドワード7世大通りと交差する場所に落とされる。直ちに巨大な炎が起こり、激しい爆発となり、5人の外国人を含む850人が負傷し、450人が死亡、12台の自動車が破壊。さらにもう一対の爆弾がキャセイホテルとパレスホテルの間に落とされる。爆発で12人の外国人を含む数百人以上が死傷[4]

およそ1,000ポンドの重さだったと見られる爆弾が半径50メートルの範囲を壊滅させた。犠牲者の大部分は、その服は完全に引き剥がされ、体はバラバラにちぎれた。遅延起爆型と思われるひとつの爆弾はその爆発力による周囲への損害は限定的ながらコンクリート、石敷、及び固めた地面の層を通して通りに幅3メートル、深さ2.4メートルのクレーターを造った。 その31分後には、婦女子の避難所となっていた大世界娯楽センターen)に2発の爆弾が落とされ、1,012人が死亡し、1,007人が負傷[5][6][6]。 この一連の爆撃でノースチャイナ・デイリー・ニュース英語版会計部長ウィリアムズ、チャイニーズ・レコーダー紙記者ローリンソン、上海市参事会員エスリン、プリンストン大学教授ロバート・カール・ライシャワー、南部バプテスト連盟の宣教師フランク・ジョセフ・ローリンソン英語版ら海外要人が多数犠牲となった。[7]

中国軍爆撃機の攻撃は黄浦江の呉淞近くにいたイギリス海軍重巡洋艦カンバーランド(Cumberland)」及び合衆国アジア艦隊旗艦である重巡洋艦「オーガスタ(Augusta)」の2隻にも向けられた。爆撃機2機の急降下はカンバーランド上空で行われたが、パイロットによる水平飛行への移行操作が早すぎ爆弾を誤った方向に向けたため攻撃は失敗。中国軍機は悪天候のため両方の艦船を日本の艦船と間違えたと判断し、どちらの艦からも発砲はなかった。

日本艦の対空砲火により中国軍機は爆撃には高すぎる場所にいることを強いられ、その爆弾を目標近くに落下させることができなかった。しかし、ひとつの爆弾は黄浦江の浦東側のアジア石油社の設備に当たり、一晩中燃え続ける火災を起こした。この日の戦闘において日本軍の艦載機と艦船の高射砲により中国軍機3機が落とされている[8]

この事件については租界に関係する各国が中国側に空爆の抗議を行った。翌15日夕刻には上海のフランス租界工部局はフランス租界上空に中国軍航空機が進入することを許さず、そのような場合には有効適切な処置を取ると発表し、16日にはフランス租界上空を通過した中国軍航空機に対してフランス駐屯軍は高射砲の一斉射撃を行った[9][10]

八一四空戦[編集]

一方同日、日本海軍は台湾の航空基地より九六式陸上攻撃機6機を飛ばし、杭州広徳へ爆撃に向かわせた。しかし周家口より飛び立った高志航中校率いる第4大隊がこれを迎撃。空中戦における中国空軍初の戦果となった。この事から、8月14日は中華民国空軍の記念日「空軍節」に指定された。1955年に三軍共通の軍隊記念日「軍人節」が制定されたが、現在でも台湾空軍ではこの日に盛大なイベントを催している[11]

8月23日の爆撃[編集]

上海爆撃を描いた作品[編集]

  • 『筧橋英烈傳』 (張曾澤監督、台湾、1977年)
  • 『遠去的飛鷹』第27集(花箐監督、中国、2011年)

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

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  1. ^ ノース・チャイナ・デイリー・ニュース、1937年8月15日
  2. ^ 新華軍事 淞沪会战:奇袭日军旗舰“出云号”始末2010年08月22日
  3. ^ 中山、173頁。
  4. ^ ロンドン・タイムズ紙、1937年8月16日、"1,000 DEAD IN SHANGHAI/DEVASTATION BY CHINESE BOMBS"
  5. ^ 渡部昇一 『渡部昇一の昭和史』 ワック2003年、274-275頁。ISBN 4898315135
  6. ^ a b Frederic E. Wakeman (September 1996). Policing Shanghai, 1927-1937. University of California Press. p. 280-281. ISBN 0520207610. http://books.google.com/?id=vT5GrHv4VcMC&pg=PA281&lpg=PA281&dq=August+14,+1937+Shanghai&q=August%2014%2C%201937%20Shanghai 2011年10月20日閲覧。. 
  7. ^ 昭和12年8月16日 第18444号2面
  8. ^ 支那事変実記 第1輯(読売新聞社、1941年)
  9. ^ 『東京朝日新聞』 1937年8月16日付号外 2面
  10. ^ 'French Protest and Warning', The Times August 16 1937, p.10
  11. ^ 節日大搜尋-空軍節(國曆8月14日)
  • 中山雅洋 『中国的天空(上)沈黙の航空戦史』 大日本絵画、2007年。ISBN 978-4-499-22944-9

外部リンク[編集]