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蠣崎義広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
蠣崎 義広
時代 戦国時代
生誕 文明11年(1479年
死没 天文14年8月19日1545年9月24日
改名 良広(初名)→義広
別名 新三郎
官位 若狭守
氏族 蠣崎氏
父母 蠣崎光広
兄弟 女子、義広高広基広
薦土季成
季広高広厚谷季政室、明石季衡
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蠣崎 義広(かきざき よしひろ)は、戦国時代武将徳山館主。蠣崎氏3代[1]

生涯

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文明11年(1479年)、蝦夷地南部に勢力を持つ蠣崎光広の子として誕生。

永正4年(1507年)、嫡男の蠣崎季広が誕生。

永正9年(1512年)、蝦夷地東部の村長であったショヤ(庶野)とコウジ(訇時)の兄弟が率いるアイヌ民族が蜂起し、数カ所の館を襲撃したショヤコウジ兄弟の戦いでは、上国守護職であった父・光広と共に撃退する。

永正11年(1514年)、アイヌ勢に落とされていた徳山館(松前大館)に入城した。

主君・安東尋季の裁定により家督相続前であったにもかかわらず、義広が上国松前両守護職に補任され、蝦夷地を訪れる和人の商船から運上を徴収することを認められた。運上の過半は安東氏に送られたものの、蠣崎氏が他の舘主層に優越する体制は、これにより固まった。なお、このアイヌ蜂起を光広による謀略とする説がある。

永正15年(1518年)、父の蠣崎光広の死去に伴い家督を継ぐ。それまで交易などで対立していたアイヌとの戦いに明け暮れる事になる。

大永5年(1525年)、アイヌのタナサカシが蜂起。

大永7年(1527年)、タナサカシに瀬田内館を陥落させられる。

享禄元年(1528年)、アイヌが再度蜂起。徳山館にタナサカシの侵入を許すが、自ら槍で戦い撃退する。

享禄2年(1529年)、義広は工藤祐兼祐致兄弟に命じて西蝦夷(西部を支配したアイヌ)のタナサカシの本拠を攻撃したが敗北、祐兼は戦死した。逆にタナサカシに大館に隣接する勝山館を包囲され、義広は和議を申し出た。そして、賠償品を受け取りに来たタナサカシを弓で暗殺し、辛うじて勝利を収めた。

享禄4年(1531年)、タナサカシの娘婿のタリコナが蜂起。タリコナはタナサカシの暗殺から学び蠣崎家の十八番「偽りの降伏」に乗ってこず、蠣崎家は散々翻弄された。徳山館が襲撃されたが、嫡男の蠣崎季広の奮戦で撃退した。

享禄6年(1533年)、陸奥国下北横浜で南部家に反乱を起こした杉生大蔵が蝦夷に逃亡した際、迅速に南部家に引渡し親交を深める。

天文5年(1536年)、タリコナを討ち取る[1]。その後は道南における支配権の確立に努めた。

天文8年(1539年)、嫡孫の蠣崎舜広が誕生。

天文12年(1543年)、小林良道若狭国へ派遣し、武田信豊 (若狭武田氏)と交流を開始。

天文14年(1545年)、死去。享年67。家督は子・季広が継いだ。墓所は松前藩松前家墓所にあるが、始祖の信広から4世季広までは一つの墓に合祀されている[2]

系譜

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脚注

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  1. 1 2 福島憲成「8高等教育機関合同公開講座「函館学」 (PDF)」『キャンパス・コンソーシアム函館』。
  2. 松前藩主松前家墓所 (PDF)」『松前町』。