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蠣崎光広

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
蠣崎光広
時代 室町時代後期 - 戦国時代
生誕 康正2年(1456年
死没 永正15年7月12日1518年8月18日
別名 彦太郎
官位 若狭守
氏族 蠣崎氏
父母 武田信広蠣崎季繁養女
兄弟 下国恒季室、光広、女子
女子、義広高広基広
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蠣崎 光広(かきざき みつひろ)は、室町時代後期から戦国時代にかけての武将。蠣崎氏2代で蝦夷地の支配権を実質的に確保した[1]

略歴

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康正2年(1456年)、武田信広の嫡男として誕生。

文明11年(1479年)、嫡男の蠣崎義広が誕生。

文明15年(1483年)、次男の蠣崎高広が誕生。

明応3年(1494年)、父の武田信広の死去に伴い、家督を継ぐ[1]。本拠地をそれまでの上国から松前の大館に移し、蝦夷の経営に力を注いだ。

明応5年(1496年)、蠣崎光広に同心する館主らと連名で、主君の安東忠季下国恒季の悪政や謀反を訴え出る。安東忠季はこれらの館主たちの意向を受けて、上ノ国守護職の蠣崎光広に、下国恒季の行状を調べ、不届きの件があれば処置するようにと沙汰を下した。蠣崎光広は下国恒季を討伐する大義名分を得て、松前の大館に追手を差し向けて下国恒季を自害させた。親蠣崎派のアイヌを使嗾して、もう一つの下国家である茂別館主、下国家政を襲わせ茂別館を陥落させて、茂別館を没収する。

永正4年(1507年)、嫡孫の蠣崎季広が誕生。

永正12年(1515年)または永正16年(1519年)のショヤコウジ兄弟の戦い等にも関与している。この戦いの中で蠣崎家以外の和人勢力が衰退し、蝦夷地の和人の支配権を得る。

永正15年(1518年)、死去。墓所は松前藩松前家墓所にあるが、始祖の信広から4世季広までは一つの墓に合祀されている[2]

系譜

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脚注

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  1. ^ a b 福島憲成「8高等教育機関合同公開講座「函館学」 (PDF)」『キャンパス・コンソーシアム函館』。
  2. ^ 松前藩主松前家墓所 (PDF)」『松前町』。