蛟龍 (潜水艦)

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呉のドックにて建造途上で放置された状態の蛟龍
1945年10月の撮影
上記写真と同じ位置で4ヶ月後に撮影されたカラー写真
1946年2月の撮影

蛟龍(こうりゅう)は、大日本帝国海軍特殊潜航艇の一種。文献によっては蛟竜とも表記される。開発当初の名称は甲標的丁型であるが、1945年5月28日付で『蛟龍』として兵器に採用された[1][2]

なお大日本帝国陸軍の同名兵器「蛟龍」(昭和17年)は機動艇戦車揚陸艦)の試作型である[3]

概要[編集]

それまでの戦訓で指摘された行動力不足を改善するため甲標的を大型化して発電用エンジンを搭載、航続距離と乗員数を増やしている。蛟龍は波号潜水艦よりもさらに小さく、最小型の通常動力型潜水艦となっている。連続行動日数は5日であるが、操縦室内に横になるスペースはなく、電池室上部のベニヤ板の上で交互に休憩をとるなど居住性は劣悪であり、乗員の体力の消耗などから3日程度が限度だった[4]

決号作戦(本土決戦)における日本の「切り札」すなわち水中の特攻兵器(攻撃手段は体当たりではなく魚雷)と期待され、呉工廠、舞鶴工廠、横須賀工廠、三菱造船、播磨、日立向島、三井玉野、川崎神戸、新潟鉄工にて月産計80隻が予定された。のち生産工場に三菱神戸・三菱横浜が加えられた。戦備計画として1945年4〜6月に110隻、7〜9月に430隻、10月以後1,000隻を揃える方針が立案されている[5]。後に海龍回天の増産も行われたことから蛟龍の生産数が抑制された。関東地域での量産優先順位は蛟龍よりも海龍を優先している[6]

蛟龍の開発は黒木博司中尉の関与が大きい。彼は1942年(昭和17年)12月から大浦岬P基地に転勤し、以後、甲標的・Y標的・回天および甲標的丁型の個人的な研究を行った。これらの兵器の開発には彼の発案および研究成果が強く関わった[7]。1944年(昭和19年)、蛟龍が開発開始された。この時点で甲標的母艦は戦没あるいは空母化され、母艦運用を前提としなくなった。これにより蛟龍は甲標的よりも艇体が大型化されている。黒木中尉のアイデアは甲標的丁型の司令塔形状、ガラス張りの風防、操縦室内のレイアウト、機関室の配置などにほぼそのまま採用されている。1944年5月、甲標的丁型の試作一号艇が完成、試験終了を待たずに量産が開始された。この時期、すでに黒木中尉は回天の開発と試験に専念しており、1944年9月6日には回天の試験中に事故が発生、彼は殉職した。彼の甲標的丁型に関する尽力の度合いを示すものとして、開発関係者は全員、甲標的丁型を「黒木に見せたかった」と発言している[8]。1945年5月28日、甲標的丁型は兵器採用され、蛟龍と命名された。同日附で回天海龍も兵器として採用されている[1]

蛟龍の性能は旋回能力、航続性能、連続行動時間の点で甲標的より改善されている。速度不明という条件であるが甲標的甲型の旋回径は空圧式操舵装置を利用して460m、油圧式操舵装置では400mと大きかった。蛟龍の旋回能力は半速で190mとされる[9]。蛟龍の最高速力は18から16kt、ただし現実的な常用速力は6から10ktと見られる。甲標的丙型の航続距離は300海里であったが蛟龍では1,000海里に向上した[10]。蛟龍の長距離進出の例としては、本土大浦岬のP基地から沖縄の運天まで数百海里の長距離進出を行っている。ただし冬季の荒れた外洋航海には相当な無理があり、機関に損傷を負った[11]。水中での連続行動は10時間程度が限度とみられる[12]

蛟龍は艇首に2基の45cm魚雷発射管を備える。甲標的はガダルカナル戦までは酸素を用いる九七式魚雷を使用し、それ以後は二式魚雷または航空用の九一式魚雷を使用した。九七式魚雷は雷速50kt、射程5,000mである。二式魚雷、九一式魚雷は雷速39kt、射程3,900mである。炸薬量はいずれも350kg[13]

甲標的の搭乗員が2、3名であったのに対し、蛟龍の搭乗員は5名に増え、専門の通信員を乗せたことで通信能力が向上した[14]。ほか、蛟龍は基地運用が戦歴のほぼほとんどを占めるが、洋上では輸送用潜水艦であるハ101を母艦とし、洋上で45㎝魚雷を補給できる[15]


「甲標的」から「蛟龍」

それまでの甲標的は、水中空母である伊号第一潜水艦の同型艦や「日進」、「千歳」、「千代田」などの母艦に乗せ、敵港沿岸にて母艦から別れ、甲標的が自力航行で敵港内に入り、停泊する敵艦船を2本の魚雷で損減させるために建造されたが、戦況が本土防衛と大きく切り替わっており、自力航行での行動制限を大きくし凌波性を強くする事が不可欠になっていた。 凌波性を強くするため船体を大きくし、遠洋航海に必要な多様な装備を載せるため、それまでより2名増員した乗組員5人で運行を賄う事が立案され、甲標的丙型の大幅な改良型が開発されることになった。これに大きく関わっていたのは大日本帝国海軍軍務局第一課である[16][17]

昭和19年5月

甲標的丙型の改良による「甲標的丁型」の試作が完成し、昭和19年7月に各種の試験を経て開発が完了した。 甲標的丁型が正式に決まるまでの間、甲標的丙型は200隻(昭和19年7月に7隻、8月に7隻、9月に8隻、11月に8隻)で建造を終了し、昭和19年9月甲標的丁型201号艇から大量生産の計画案が決定する。

「甲標的丙型」については甲標的の項を参照。


蛟龍の大量生産

昭和19年9月

甲標的丁型は昭和20年秋までに600隻の建造計画があり、本土決戦における主戦力の新型兵器の指定を受けた。 短期間に大量生産を行うためのプロセスは、それまでの潜水艦の建造とは全く異なり、呂百型潜水艦と同じブロック工法で作られており、「通常の潜水艦のような製造と違い溶接を行わず、どちらかというと魚雷の組み立てに近い建造方法」である。 甲標的丁型の船体は「前部室」(魚雷・メインタンク・前部電池室)、「操舵室」(ディーゼル機関室・後メインタンク・発電機)、「後部室」(電池室・電動機室・スクリュー)の3ブロックに分けて製造され、後にボルトで締めて接合するブロック工法が採用された。 またこれに伴い、同じ構造の魚雷を持つハ101と同型艦が母艦とされた。

製造は呉海軍工廠倉橋島P基地、大迫Q基地から製造を開始し横須賀海軍工廠舞鶴海軍工廠でも建造が始まるが間に合わず、民間造船所でも建造が行われる事になったが、昭和25年3月頃からB29などによる空襲で主力工場等が爆撃され、更に完成した機体も被害を受け、部品不足、工員不足、特殊技術者不足などの戦局の悪化もあって計画数を大幅に下回る事になる。乗組員としての指導を受けていた者の中には造船所に派遣される者も出た。


地下工場 麗女(おおうるめ)島工場

昭和20年5月

本土決戦の主戦力に指定されたことで、甲標的丁型の生産は第一優先とされたが、米軍の空爆によって計画が大きく狂い、P基地、Q基地など物資の不足に加え、機構の複雑さ等で計画の半分以下しか完成出来ず、大麗女島地下に5本のトンネルを掘り、地下でトンネルを繋いで拡張し、工員約100名体制で建造が行われた。生産が軌道に乗るにつれ、この地下工場は拡張され呉海軍工廠「造船部麗女島工場」と命名された。 地下工場のため空襲の影響もなく、約40隻の品質の高い蛟龍が完成していたとされ、終戦まで製造が続けられた[18] [19]


乗組員の大量育成と訓練

昭和19年

倉橋島のP基地が「第一特別基地隊」と改称される。もともとP基地は甲標的建造と乗組員の育成のための呉海軍工廠の分工場だった為に小規模であった。しかも甲標的丙型の乗組員は3名であったのに対し、甲標的丁型の乗組員は5名と数倍の規模になり、予科練の下士官出身の2200名を受け入れる事になる。しかし瀬戸内は軍事施設が多いため、米軍の空襲も多かった[20]


甲標的丁型の練習内容

元乗組員の回想録によれば、操縦訓練には基本的に甲標的丙型を改造した練習艇が使用され、数種類の練習艇があったようである。

座学を併用しながら、実務練習の最初は陸上にある練習艇の操舵室後部に指導員が座り、操舵操作や機構、暗号呼称などを練習し、操舵に艇長、艇付き、整備員の3人が座る。進行方向の右側に整備員が座り横操舵と魚雷担当、真ん中に艇長が座り潜望鏡・索敵・海図とコンパスで進路指示など、左側に艇付きが座り縦操作と速度担当。各種計器、各種バルブなどを教えられる。指導員から訓練された艇長の指示により整備員と艇付きの2人で操舵を操る。

この陸上練習で合格すると水上自走実務練習に入る。専門の訓練を受けていた通信員が整備員の後ろに横向に座り起倒式無線マスト・昇降無線マストを操り電信の送受信を行う。艇長の後ろに背を向けながら座る機関員ディーゼルエンジンモーター・電池の保守点検・速度用の電流を調整をする。丙型の練習艇の司令塔は、普通の丙型より前後に長く、独眼鏡(潜望鏡)が前後に2本設けられており、最初の水上自走航行では艇長による独眼鏡での索敵など操舵を操り、水上自走航行や充電などを行う。

これに合格した後は水中自走航行練習に移る。潜航する際に排気弁を閉じるのを忘れる艇長が多く、潜航の開始と同時に排気弁から海水が入りバッテリーの硫酸と接触して猛毒のクロリンガスが発生することもあった。

水中航行練習では最初に安全深度100メートルの潜航練習から始まり、廃船を目標に魚雷の発射などを練習をする。海図とコンパスを使い、潜水艦の海難事故の多い岩礁の間の水中航行や狭水道を通過する訓練は非常に緊張したと回想されている(この頃の海図には岩礁の記載漏れがあった様で、練習事故の殉職者が多い)。

これら一通りの練習が終わると次に夜間航行練習に入った。練習時には別の講習員も同乗した[21]


小豆島 第二訓練基地となる

昭和19年

醤油業界の倉庫の多い小豆島が候補に上がり、島民の協力を得て草壁海岸に勾留岩壁を造り、引き揚げ修理調整場とドッグと小型発電所を設ける。古江海岸には魚雷倉庫併用の魚雷調整場と金比羅山麓にトンネルを掘り、一部は工場、格納庫、基地員の兵舎数ヶ所に配置するが、岩壁が硬いうえ粘土が深く、学童も動員するが困難を極めた[22]

昭和20年5月2日

実務部隊として小豆島嵐部隊が年編成された[23]

5月15日

基地隊本部を芦之浦の丸金青年学校に仮の本部として設ける[24] 。艇長は本部の丸金青年学校、艇付きと整備員は古江の旅館、小豆島町立苗羽小学校を予科練出身の下士官の兵舎とした[25] [26] 。訓練途中の事故で亡くなった殉職者は約190名[27]

小豆島突撃隊の回想録に依ると、船体番号から殆どが岡山県の玉野造船所で造られた機体であり、中には玉野造船所に行き、帰りに甲標的丁型を航行して来たと云う者も少なくない。また小豆島への航行で機体が機雷に触れて殉職する者もいた。

昭和20年7月初め

退役した大型潜水艦 伊一型潜水艦伊五十二型潜水艦が実習艦及び教材用として古江基地に配備される。

昭和20年7月末

小豆島嵐部隊が約2,000名の大部隊となり「小豆島突撃隊」と改称。しかし蛟龍の建造が間に合わず蛟龍に乗船出来ない乗組員が増える。 [28] [29] [30] [31]


蛟龍の命名

昭和20年5月28日

丁型は従来の甲標的より大型化になり乗組員の増員と航続力も約3倍となった。海軍艦政本部内の所管が「第二部:水雷部(水雷兵器)」から「第四部:造船部(準艦艇)」に換わる事で名称も変わった。 昭和19年には既に特殊潜航艇組織の中に、甲標的丁型を含めた蛟龍隊が結成されていた。この蛟龍隊の隊名に因み、甲標的丁型が『蛟龍』と当てはめられた格好である。なお既に大型潜水艦伊号の中にも「丁型」があった。[32] [33] [34] [35]

海軍艦政本部の組織は海軍艦政本部を参照。


生産拠点[編集]

予定数496隻、完成数115隻

製造工場と船体番号[36]

呉海軍工廠       「201号艇」~
舞鶴海軍工廠      「401号艇」~
三井造船 玉野     「601号艇」~
三菱重工業長崎造船所  「801号艇」~
横須賀海軍工廠     「901号艇」~(昭和20年7月18日横須賀と海軍工廠が空襲に遭い「901号艇」が大破する。その為に「902号艇」が横須賀海軍工廠の1番艇となる。)

配備基地[編集]

[37] [38] [39] [40] [41] [42]

構造[編集]

蛟龍の船殻構造は、甲標的と同様に艇体を前部・中部・後部セクションに分割し、フランジ部分でボルト結合している。艦は前方から魚雷発射管を納めた区画、前部電池室、操縦室、機関室、後部電池室、艇尾の電動機や縦横舵の装備区画で構成される。艇体本体は円筒形で、この上部に3区画のメインタンクを設けた[43]。全長は26.25m。直径は2.04m。艇の塗色は焦茶色である。艇体を暗緑色、上部構造を艶消し黒色で塗る組み合わせも少数見られた。司令塔正面に菊水マーク、艇体前後に喫水マークを記入した[44]

最前部に、二式魚雷を装填した45㎝魚雷発射管2基を縦に装備、この発射管の後方左右に操舵用気畜器を備える。発射機の前部左右は第一燃料タンクになっている。気畜器の下部に発射用気畜器が置かれた。また前部トリミングタンクが発射機の下部に置かれた[45]。隔壁を介してこの後方は前部電池室になっている。

前部電池室はわずかな上部スペースが通路となっており、側壁と中央部ラック内に特H型蓄電池が密に配置されている。蛟龍の搭載した電池の総数は200個。内部には水素ガス検知器、排気用電動送風機、伝声管、排気管が装備され、電池室の床面にはコンクリートが充填された[46]。側壁の余剰空間を利用し第二燃料タンクが設けられている[47]

電池取出口と気密扉の設けられた隔壁を介し、後方に操縦室が配された。内部には5名分の席が設けられている。操縦室前方左側に主艇付席、右側に副艇付席、その後方中央に艇長席がある。艇長の前には司令塔へ登るための踏台が置かれている。艇長の後方左側に電気員席、右側に機械電信員席が設けられた[48]。床面は補助タンク・応急タンクになっている[49]。搭乗員が横になれるようなスペースはなく、内部壁面には各種装置が装着されている。主艇付席の前には九七式転輪羅針儀が備えられ、隔壁に150mまでの深度計と左右傾斜計がつけられていた。副艇付席の前には隔壁に60m深度計と耐圧震度計が装備されている。電気員席左の壁には発電機管制盤、灯火開閉器と後群原動配電盤が設けられた。機械電信員席の前には横舵操舵油圧等筒が置かれた。ほか酸素ビンとビルジポンプが装備された[50]。操縦室上方には風防が特徴的な司令塔が設けられている。この楕円形状の司令塔にはハッチ、九七式特眼鏡改二、昇降式吸気筒、無線マストが装備された[51]

第二気密扉と覗き窓のついた操縦室後端隔壁を介し、機関室が設けられている。機関室前部中央には潤滑油タンクと150馬力の五一号丁型内燃機関、これの後方に特G型発電機が接続されている。床面には第三燃料タンクが置かれた。エンジンの左側にパラジウム触媒とした水素ガス吸収器、発電機の左には主電動機界磁調整器が置かれた[52]。発電機により蛟龍は自己充電が可能で、所要時間は9時間だった[53]

気密扉の付いた隔壁を介して後部電池室が設けられている。後部電池室も前部電池室と同様のレイアウトとなっているが、前部に冷媒圧縮機が装備された。床面には4番燃料タンク、後部トリミングタンクが置かれている[54]。また蛟龍にはフレオン・ガスを用いた小型の冷房装置が搭載されている[55]

電池室後方は艇尾であり、ここに機密扉付きの隔壁を介して500馬力モーターと減速機、潤滑油冷却用循環ポンプが配置された。減速機床面には潤滑油タンクが置かれている[56]。丁型には直流600馬力電動機が搭載されたものの、電池数の制約から出力は500馬力にとどまったともされる[57]。資料により最大速度は18ktまたは16ktとされる[58][59]。艇最後尾には縦舵と横舵が配置され、蛟龍量産型の場合にはこの後ろに1.6m径のシングルプロペラが置かれた。蛟龍初期型は甲標的と同様、プロペラが二重反転式である。シングルプロペラから生じるトルクの吸収のため、左右の横ヒレを飛行機の補助翼のように上下逆に動かし、傾斜を防いだ。ただし低速では効果が少なかった[60]


蛟龍の魚雷

蛟龍の魚雷は艦内に格納はなく艦の外側から魚雷発射管に魚雷を装填し海水も注入する。上下2本の魚雷は浮力の関係で下段からトリガーにて発射する。 蛟龍の魚雷は絶えず海水に浸かっている為、魚雷本体にの付着を防ぐ為に本体にを塗り付着を防いでいる。 魚雷発射と同時に魚雷本体に海水を入れる事により魚雷本体内の酸素膨張しスクリューの伝導と繋がり魚雷が航行する。

魚雷の当初計画では「九七式酸素魚雷」であったが構造が複雑であり量産見通しが不可実であった為に「九一航空魚雷」を改良した「二式魚雷」とした。

漆を魚雷または船体に塗った記録のあるのは世界で日本のみである。


蛟龍の水中聴音機及び探信機

発動機音     150〜200 ヘルツ

ディーゼル音   350〜450 ヘルツ

タービン音    450〜1000ヘルツ

潜水艦音     300〜350 ヘルツ

魚雷音      500〜1400ヘルツ(タービン音に似るが音質が整い高速で近づく) [61]


蛟龍 初期型から量産型への遍歴

シングル・スクリュー、縦舵の変更。

蛟龍の量産型で甲標的から受け継がれてきた2重反転プロペラがシングル・スクリューに変更された経緯は横須賀海軍工廠の尾筺(びきょう)工場は蛟龍本体及び部品を作っていた。しかし尾筺(びきょう)工場が空襲に遭い、部品が滞り単純化にする為に苦肉の作でシングル・スクリューに変更し、試験航行では初速時や低速時にトリムが変わるが水中速力は逆に早くなり量産型からシングル・スクリューになる。スクリューの回転方向へ低速時にトリムが偏る為、量産型の縦舵がスクリューの前方と上下に大きくなる。

バルバス・バウを高くし上部の水平変更。

司令塔から船首までのバルバス・バウを高くし上部を水平になったのは内部のバラストタンクを大きくする事で急速潜航、急速浮が早く出来る様になる。バルバス・バウ上部の水平変更は魚雷の重量が約1tあり発射に伴い浮力で船首や司令塔が海面から出るのを防ぐ為であったが急速浮上する際は逆に妨げになる。 初期型のベント弁の位置が第一バラストタンクの前部にあり量産型のベント弁の位置は第一バラストタンクと第二バラストタンクの間になっている。クリートが初期型では船首と司令塔の前後、合計3ヶ所あったが量産型では船首と司令塔の後部の2ヶ所に変更されている。

船体の色と九七式独眼鏡。

蛟龍船体の色であるが上部(船体の5/1)は甲標的から受け継がれて来た艶消しの黒に非常に近いダークグレーで船体上部から下はダークブラウンである。(長崎造船所の蛟龍のみダークグリーン) 蛟龍の独眼鏡「九七式独眼鏡(潜望鏡)はプリズムレンズになっており電動による昇降であり現在の「オリンパス光学」の製作である。

戦歴[編集]

蛟龍の実戦参加は僅かである。1945年3月8日、甲標的丁型二〇九、二一〇号艇が輸送船で曳航されて沖縄に進出した。また二〇四、二〇七、二〇八号艇が自力で進出を試みた。荒天により航海は困難であり、二〇四、二〇七艇は口之永良部島で衝突座礁した。この2艇は引き返したともされる。1945年3月10日、エンジンに焼き付きを生じながらも二〇八号艇のみ沖縄に進出した。3月25日20時から24時、二〇九、二一〇号艇は他の甲標的丙型と共に出撃、3月26日に2艇とも未帰還となった。この戦闘では甲標的丙型六七号艇が駆逐艦ハリガンを撃沈した。アメリカ側ではこの喪失を機雷によるものと判定している。また3月26日18時頃から24時にかけ、二〇八号艇に出撃命令が下りたが、故障により出撃不能のところを空襲され、撃沈された[62][63]

大戦末期、蛟龍は日本本土の各基地に配備され、訓練を行いつつ本土決戦に向けて待機していた。昭和20年7月末の状況では、呉鎮守府に48隻、佐世保鎮守府に4隻、舞鶴鎮守府に3隻、大島防備隊に1隻、ほか連合艦隊の第十特攻戦隊に18隻が所属したがこの部隊は8月5日に呉鎮守府麾下突撃隊へ編入された[64]


蚊龍 甲標的の沖縄戦

昭和20年1月28日

花田隊の「花田 蚊龍 204号艇」、「古賀 蚊龍 207号艇」、「伊予田 蚊龍 208号艇」の3隻は広島県倉橋島P基地より自力航行で関門海峡を抜けて沖縄の運天港を目指して出撃する。[65]同じくP基地から自力航行で三笠隊の「三笠 蛟龍 203号艇」、「飯田 蛟龍 202号艇」、「勝又 蛟龍 201号艇」の3隻が秘密裏に出航する。[66] 後から倉橋島P基地より輸送艦扶養丸に搭載され出航したのは大河隊の「大河 蚊龍 209号艇」「唐司 蚊龍 210号艇」である。[67] さて、花田隊の蚊龍隊の動きは山口県光港、徳山港に寄り開門海峡を通過、玄界灘に出て佐世保港に僅かに滞在し出航するも吹雪で荒波に翻弄され天草本渡港に寄る。[68] 花田隊の蚊龍は鹿児島の阿久根港付近で「207号艇」の魚雷発射管キャップ離脱、「208号艇」は串木野沖にて悪天候の荒波でタンクに船体に亀裂「204号艇」も故障し3隻共に佐世保に修理の為に寄港し修理を終え「208号艇」艇長の伊予田中尉から本来の酒井艇長と変わり富士丸と共に出航する。 口永良部島付近にて荒波の為潜航し避難をするが「207号艇・208号艇」が水中にて接触「207号艇」はメインタンク損傷「208号艇」は座礁し大破する。[69] 富士丸は「207号艇・208号艇」を曳航し鹿児島指宿の南側にある山川港にて修理するも「207号艇」は部品が無く曳船により佐世保に寄港し倉橋島のP基地に戻る。[70]

昭和20年3月8日頃

1月に倉橋島を出航した蛟竜隊は3月8日頃から大河隊の「大河 蚊龍 209号艇」「唐司 蚊龍 210号艇」、花田隊の「花田 蚊龍 204号艇」「酒井 蚊龍 208号艇」(艇長が途中で交代している)其々に運天港に到着する。[71]

昭和20年3月23日

早朝に米軍艦載機約200機が飛来し空襲を受ける。蛟竜・甲標的丙型7隻の潜航艇は湾内海底に潜り被害を免れるも、[72]夕方に前年度運天に進出していた「渡辺 甲標的丙型 65号艇」が充電中で避難が間に合わず爆撃され沈む。[73]基地、倉庫も爆撃され地上の施設は壊滅する。[74] 富士丸は蛟龍・甲標的の整備員や基地隊員を乗せ薩摩半島沖にて3月25日米潜水艦の雷撃を受け45人と共に沈む。[75] 沖縄の運天港は前年の昭和19年8月から鶴橋隊の甲標的丙型の8隻が輸送船に曳航され到着し乗組員・基地員・整備員らが海軍山根部隊と合流し約150名で基地建設を進めていたが昭和19年10月頃から米艦載機の飛来が増え基地、甲標的丙型の約半分程が損害を受ける。[76]

昭和20年3月25日

沖根司令部より日没後、慶伊瀬島南方の散開待機攻撃命令が下る。鶴田隊長の訓示で何度も攻撃をする、死んではならないとの撃が飛ぶ。夜間になり第1小隊「大河 蛟竜 209号艇」、「唐司 蛟竜 210号艇」、「河本 甲標的丙型 67号艇」の3隻が出撃する。[77]

昭和20年3月26日

「河本 甲標的丙型 67号艇」は慶伊瀬島北方5海里付近で米戦艦を捕捉し魚雷2本発射し1本が命中(陸軍観測班が確認)し帰還するが「大河 蛟竜 209号艇」、「唐司 蛟竜 210号艇」の2隻は帰還せず戦死と記録される。(戦没者名簿では3月25日となっている)[78]

昭和20年3月26日

天号作戦が発令され同日、出撃準備の「酒井 蛟竜208号艇」は充電中米艦載機の攻撃に遭い沈没する。夜間になり第2小隊「川島 甲標的丙型60号艇」、「佐藤 甲標的丙型64号艇」の2隻が出撃する。[79]

昭和20年3月27日

「佐藤 甲標的丙型64号艇」は残波岬西6海里で米巡洋艦に魚雷を発射し1本命中(陸軍の観測班も確認)するが爆雷攻撃を受け3月28日に帰還する。[80] 「川島 甲標的丙型60号艇」は米戦艦に魚雷を発射するが外れ米海軍の猛攻を受け損傷しながら帰還する。[81]

昭和20年3月27・28日

第1小隊、第2小隊も出撃を繰り返し米艦隊5隻を沈める。[82] 佐世保鎮守府司令長官の賞詞電文『第二蛟竜隊(甲標的隊)及第二魚雷艇隊ガヨク戦機ニ投ジテ戦果ヲアゲツツアルハ大ニ可ナリ、皇士守護ノ埞身兵力トシテ今後一層ノ健闘ト成功ヲ祈ル』[83]

※この電信が米軍に探知され蚊龍隊、第二十七魚雷艇隊の運天基地の場所が知れる。

昭和20年3月30・31日

米軍の機動部隊は延べ数百機の艦載機で運天港を空襲し、運天港の海軍部隊と機能を壊滅させる。 「川島 甲標的丙型60号艇」は夜間に岩壁に衝突し沈む。[84]「沖縄県史」各論編6 [85]

昭和20年4月6日

米上陸部隊が運天港に迫って来た為に残存基地と残った「佐藤 甲標的丙型64号艇」 、「河本 甲標的丙型 67号艇」 の2隻の潜航艇を処分し陸戦隊となり第二十七魚雷艇隊と合流し山岳に入る。

昭和20年4月7日

上陸し内陸に入った米軍との銃撃戦になり12名が戦死する。 第二十七魚雷艇隊の名称を『遊撃隊』と改称する。

昭和20年5月末

八重岳から乙羽岳に異動する。

昭和20年7月5日

米軍に居所を知られ無数の迫撃砲を受け更に機銃掃射を受け交戦するが13名が戦死する。

昭和20年7月17日

沖縄の地元の子供たちで構成されている 護郷隊と合流し道案内を頼む。

昭和20年7月末

『遊撃隊』の維持が困難になってきた為に一旦解体し小隊編成を組み直し米軍に対しゲリラ戦をしながら生き延びる策を施す。 沖縄戦では甲標的丙型、蛟龍の乗組員、基地員など関係者の約400名が戦死した。 [86] [87][88] [89]


薩摩半島沖合にて沖縄蛟龍隊9隻全滅  

昭和20年3月25日

沖縄蛟龍隊の水野隊?、9隻は呉の倉橋島を自力航行で沖縄運天基地を目指す(日付・船体番号不明)途中の基地で補給をしながら鹿児島県の桜島海軍基地に立ち寄り沖縄運天基地を目指すが3月25日に沖縄蛟龍隊の9隻がその日の内に全滅する。[90] [91] 『沖縄蛟龍隊が全滅した辺りには日本海軍水中測的機の磁気探知機・水中聴音機・探信機等が配備が無く弱い処を突かれた格好である』


三笠蛟龍隊 種子島近海から呼び戻す  

昭和20年4月10日

1月末、花田隊の後から呉の倉橋島から沖縄に向かっていた三笠隊も花田隊同様、三笠隊3隻の蛟龍が玄界灘に出ると日本海の荒波に艇がローリング船体が損失し修理の為に佐世保のドッグに入る。長崎県の野母崎沖では吹雪で視界不良と岩礁の危険区域に緊張し絶えず位置測定をしながら航行する。[92] 冬の荒波に翻弄され故障に悩まされ計画通りには沖縄に近づく事が出来ないでいた。また沖縄が米軍により制海権制空権が消失し薩摩沖合で毎日の様に米機動部隊航空隊の襲撃に遭い避難、海底に沈降し逃れながら種子島近海にいた。 佐世保鎮守府は沖縄防衛海軍作戦(緊急輸送作戦)に参加していた呂号第六十二潜水艦を一時的に佐世保鎮守府指揮下に組み入れその中に種子島付近に侵攻していた蛟龍隊の三笠隊の「三笠 蛟龍 203号艇」、「飯田 蛟龍 202号艇」、「勝又 蛟龍 201号艇」3隻を薩摩半島の大島基地に戻し本土防衛を強化する。 [93][94]

「新海軍」での再採用案[編集]

敗戦後、吉田英三らが構想した「新海軍」では、旧海軍艦艇ないしその準同型艦の再建造が幾つも企てられているが、蛟龍もその中に含まれていた。準特攻兵器のイメージが強い「特殊潜航艇」という艦種名を避け、「局地防備艇」という艦種名を新たに与え、「蛟龍隊」を60隻10隊整備する計画であった[95]

派生型[編集]

  • 蛟龍初期型:艇の上部に設けられたメインタンク及び浮力タンクの天井部分が、艇首に向かってなだらかに曲線を描いて下がっているのが外形上の特徴である。初期型が何隻完成されたかは不明である。また甲標的の二重反転プロペラを引き継いで装備している[96]
  • 蛟龍量産型:艇上部のメインタンク・浮力タンクの天井部分が水平となり、艇首波切り部分が高くなっている。また推進器が二重反転式からシングルプロペラに替わって採用された[97]
  • 蛟龍改一:計画案に終わった速度向上型である。電池を8個増設、後部電池室と発電機室の位置を前後逆に配置、ディーゼル航行が可能なディーゼル・エレクトリック方式に改良した。また司令塔の向きを反転し、無線マストと吸気筒の位置も変更が加えられた[98]

諸元[編集]

データは以下による[99][100]

  • 全長:26.25m
  • 全幅:2.04m
  • 深さ:3.81m
  • 全没排水量:59.3t
  • 耐圧深度:100m
  • 最大速度:水上8kt、水中18kt(16ktとする文献あり)
  • 水中航続距離:16kt(10.6海里)、2.5kt(125海里)
  • 水上航続距離:8kt(1000海里、1850km)
  • 旋回径:最微速、3ktで150m。半速12~9.5ktで190m
  • 兵装:45cm魚雷発射管×2、二式魚雷×2
  • エンジン:五一号丁型内燃機関、150馬力、重量1500kg
  • 発電機:特G型直流発電機、発電量75~100kW、重量1380kg
  • 電動機:半閉自己通風型他励複巻、直流600馬力、重量2160kg
  • 蓄電池:特H型、200個
  • 乗員:5名
  • 連続行動日数:5日、ただし実際には3日が限度とされる

登場作品[編集]

艦隊これくしょん-艦これ-
装備として「甲標的丁型改(蛟龍改)」が登場する。

脚注[編集]

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  1. ^ a b 昭和17年8月10日.昭和20年7月13日 内令及び海軍公報(軍極秘)/昭和20年6月/昭和20年6月1日(金)海軍公報 第一四二號(甲配付) p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C12070204800 『内令兵第二五號(軍極秘) 回天、海龍及蛟龍ヲ兵器ニ採用ス 昭和二十年五月二十八日 海軍大臣』
  2. ^ 本令では「何ヲ何ト命名ス」あるいは「何ヲ何ト稱シ」とは記されていない。
  3. ^ 昭和17年「密大日記」第8冊/試製蛟龍(SS艇)試験研究実施に関する件」 アジア歴史資料センター Ref.C01004973900 p.2『試製蛟龍(SS艇)試験研究實施計畫 陸軍運輸部』
  4. ^ 『甲標的と蛟龍』97頁
  5. ^ 『甲標的と蛟龍』67頁
  6. ^ 『甲標的と蛟龍』101頁
  7. ^ 『甲標的と蛟龍』92、97頁
  8. ^ 『甲標的と蛟龍』97頁
  9. ^ 『甲標的と蛟龍』43頁
  10. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』24、27頁
  11. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』27、177頁
  12. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』26頁
  13. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』33頁
  14. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』47頁
  15. ^ 木俣『潜水艦入門』280頁
  16. ^ 「海ゆかば蛟龍」P30
  17. ^ 「特殊潜航艇」
  18. ^ 「特攻艇長たち次世代への遺言」P50
  19. ^ 「特殊潜航艇」P234-236
  20. ^ 「特殊潜航艇」P235.236
  21. ^ 「特攻兵器 蛟龍艇長の物語 」P84-88
  22. ^ 「特殊潜航艇」P235.236
  23. ^ 「特殊潜航艇」P236
  24. ^ 「特殊潜航艇」P237
  25. ^ 「特攻艇長たち次世代への遺言」 P108
  26. ^ 「特攻艇長たち次世代への遺言」 P52
  27. ^ 特攻兵器 蛟龍艇長の物語 P101
  28. ^ 「海原会「予科練」」
  29. ^ 「特攻艇長たち次世代への遺言」
  30. ^ 「特攻艇長たち次世代への遺言」
  31. ^ 「われらの軌跡-奈良空十四期生のあゆみ」
  32. ^ 特攻兵器 蛟龍艇長の物語 P92-94
  33. ^ 特攻艇長たち次世代への遺言 P78-82
  34. ^ 特攻兵器 蛟龍艇長の物語 P93・P101-102
  35. ^ 海軍兵学校 戦没者名簿P176.177
  36. ^ 「特殊潜航艇」P274
  37. ^ 「特殊潜航艇」P234.235
  38. ^ 「海ゆかば蛟龍」P52
  39. ^ 海軍水測史P66.67.68P72.73
  40. ^ 福井新聞社2021年3月31日
  41. ^ 十四奈良会「われらの軌跡-奈良空十四期生のあゆみ」 P149.150 P259・P265
  42. ^ アジア歴史資料センターC08011121700
  43. ^ 『甲標的と蛟龍』72、97頁
  44. ^ 『甲標的と蛟龍』43頁
  45. ^ 『甲標的と蛟龍』122頁
  46. ^ 『甲標的と蛟龍』130頁
  47. ^ 『甲標的と蛟龍』122頁
  48. ^ 『甲標的と蛟龍』134頁
  49. ^ 『甲標的と蛟龍』134頁
  50. ^ 『甲標的と蛟龍』134頁
  51. ^ 『甲標的と蛟龍』122頁
  52. ^ 『甲標的と蛟龍』131頁
  53. ^ 『甲標的と蛟龍』81、97頁
  54. ^ 『甲標的と蛟龍』130頁
  55. ^ 木俣『幻の秘密兵器』45、46頁
  56. ^ 『甲標的と蛟龍』129頁
  57. ^ 『甲標的と蛟龍』99頁
  58. ^ 『甲標的と蛟龍』98頁
  59. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』20頁
  60. ^ 『甲標的と蛟龍』98頁
  61. ^ 『海軍水測定史』P40-42P262-263
  62. ^ 『甲標的と蛟龍』97、180、181頁
  63. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』175-177頁
  64. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』202-206頁
  65. ^ 「海ゆかば蛟龍」P32
  66. ^ 「海ゆかば蛟龍」P35
  67. ^ 「海ゆかば蛟龍」P37.38
  68. ^ 「海ゆかば蛟龍」P41
  69. ^ 「特殊潜航艇」P204.205
  70. ^ 「海ゆかば蛟龍」P43
  71. ^ 「海ゆかば蛟龍」P44
  72. ^ 「特殊潜航艇」P210
  73. ^ 「海ゆかば蛟龍」P45
  74. ^ 「特殊潜航艇」P209.210
  75. ^ 「特殊潜航艇」P206
  76. ^ 「特殊潜航艇」P207.208
  77. ^ 「海ゆかば蛟龍」P46.47
  78. ^ 「海ゆかば蛟龍」P47
  79. ^ 「特殊潜航艇」P212.213
  80. ^ 「特殊潜航艇」P213
  81. ^ 「特殊潜航艇」P213
  82. ^ 「特殊潜航艇」P213
  83. ^ 「特殊潜航艇」P213
  84. ^ 「特殊潜航艇」P214
  85. ^ 「特殊潜航艇」P214
  86. ^ 「内閣府 沖縄戦の経緯」
  87. ^ 「特殊潜航艇」P214-218
  88. ^ 「海ゆかば蛟龍」P49-51
  89. ^ 沖縄戦 戦没者名簿
  90. ^ 沖縄蛟龍隊 戦没者名簿
  91. ^ 海軍水測史(全国防備衛所一覧)
  92. ^ 「特殊潜航艇」P204-205
  93. ^ 「特殊潜航艇」P220
  94. ^ 「特攻兵器 蛟龍艇長の物語」 P111.112
  95. ^ 海上自衛隊海上幕僚監部所蔵『旧海軍残務処理機関における軍備再建に関する研究資料』記載の編成表による。
  96. ^ 『甲標的と蛟龍』101-102頁
  97. ^ 『甲標的と蛟龍』101-102頁
  98. ^ 『甲標的と蛟龍』101-102頁
  99. ^ 『甲標的と蛟龍』43頁
  100. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』20、21頁

参考文献[編集]

  • 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ35 甲標的と蛟龍』学習研究社、2002年。ISBN 4-05-602741-2
  • 中村秀樹『本当の特殊潜航艇の戦い』光人社(光人社NF文庫)、2007年。ISBN 978-4-7698-2533-3
  • 木俣滋郎『潜水艦入門』光人社(光人社NF文庫)、1998年。ISBN 4-7698-2199-9
  • 木俣滋郎『幻の秘密兵器』光人社(光人社NF文庫)、2004年。ISBN 4-7698-2204-9
  • 特殊潜航艇
  • 海ゆかば蛟龍
  • 海原会「予科練」
  • 特攻艇長たち次世代への遺言
  • 特攻兵器 蛟龍艇長の物語
  • 琵琶湖の青春
  • 十四奈良会「われらの軌跡-奈良空十四期生のあゆみ」NCID  BA59992718
  • 海軍水測史
  • 蛟龍 戦没者名簿
  • 福井新聞社 2021年3月31日
  • 防衛庁防衛研修所戦史室 「海軍軍戦備」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]