虞授

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虞 授(ぐ じゅ、? - 279年)は、中国三国時代武将政治家史学家承卿揚州会稽郡余姚県の人。虞翻の一族に当たる[1]

生涯[編集]

若い頃は、史書や経典を読み漁り、壮大な志を持っていたという。文武の才幹を持ち合わせた者として、奏曹に任命された。

同族の虞汜薛珝陶璜らが交阯郡九真郡日南郡を取り戻した後に、虞授は広州刺史や広州督を歴任した。平和な時代であっても、自ら死を覚悟するほど仕事に勤しんだという。

天紀3年(279年)、交州で郭馬が反乱が起こした際に、南海太守劉略[2]と共に郭馬に攻められて殺されたという。

虞授は三国時代晩期の易学での集大成的学者であったという。当時の人々は「経典を読むのではなく、虞授の生きざまを見るべし」と評したという。

子孫[編集]

  • 虞基 - 虞授の子。晋の右軍将軍府司馬。
  • 虞球 - 字は和琳。虞基の子。晋の黄門侍郎[3]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『余姚虞氏譜』
  2. ^ 留略の説もある
  3. ^ 『世説新語注・賞誉-85』:『虞氏譜』