虎門銷煙
この項目「虎門銷煙」は翻訳されたばかりのものです。不自然あるいは曖昧な表現などが含まれる可能性があり、このままでは読みづらいかもしれません。(原文:Destruction of opium at Humen) 修正、加筆に協力し、現在の表現をより自然な表現にして下さる方を求めています。ノートページや履歴も参照してください。(2015年9月) |
| 虎門銷煙 | |||||||
| 繁体字 | 虎門銷煙 | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 簡体字 | 虎门销烟 | ||||||
| |||||||


虎門銷煙は1839年6月3日に始まり23日間続き清の欽差大臣林則徐の指導の下でイギリスの通商人から取り上げた違法なアヘン1000大トン(1016トン)の焼却に関わった。中国東莞市虎門鎮校外の珠江岸で行われこの行動はイギリスが清に宣戦布告する開戦事由を提供した[1]。続いて起こったのは現在西欧列強との一連の条約の下で中国が外国との貿易を開始する戦乱アヘン戦争(1839年-1842年)として知られている。
背景
[編集]
虎門銷煙は中国の清の道光帝時代の反喫煙作戦であり、当時広東省と広西省の省長であった林則徐の庇護の下に1839年6月に行われた。中国に大量のアヘンを輸入するイギリスの通商人には清政府はアヘンに起因する経済的・社会的危機の取り扱いに対する強力な手法を採らざるを得なかった[2]。
1784年に110%から10%に中国茶に関するイギリス政府による輸入税の減少は国内需要における急上昇の原因となり、今度はイギリス東インド会社(EIC)にとって大量の銀貨不足を引き起こし、会社は単なる商品輸入業者となっていた[3]。銀貨は中国が中国茶への支払いを行う唯一の通貨であり、1793年に収支勘定を是正するにあたりEICはイギリス政府からインドでのアヘン製造に対する専売権を必要とした。しかし1800年から中国で薬物を販売することは違法であったために[4]個人通商人は中国大陸の南の港にアヘンを密輸するようになり運送委託品は競りのためにカルカッタに送られた[5][5][6]。
1834年にEICは中国での専売権を失い[7]ナピアー卿がイギリスのための初めての貿易長官に任じられた。ナピアーの広東(現在の広州市)の南の港への初めての訪問は、ここでは厳格な広東システムが中国との全貿易を管理していたが、中国当局に説得して貿易用に更に開港させることに失敗した。1837年清政府は暫く民衆の間で増大するアヘン中毒の問題に正しく対処することをためらいながら違法な貿易に関わった人々と共にジャーディンマセソン会社の商人ウィリアム・ジャーディンを追放することにした。ジャーディンは中国に残ったが粤海関部監督と共に広東省と広西省の総督鄧廷楨と広東省の長官は布告をこの影響に対して発布した[8]。英国海軍の元将校チャールズ・エリオットは1838年に中国でイギリスの通商代表になり、この時までに中国のアヘン中毒者の数は400万人から1200万に増えていた[9]。19世紀初頭までに更に多くの中国人が気晴らしの薬としてイギリスのアヘンを吸引していた。しかし多くの人にとって間もなく余暇として始めることが辛い中毒となり、アヘンの吸引を止めた多くの人は悪寒や吐き気、痙攣に苦しめられ、時に使用中止が原因で死亡した。一旦中毒になると人々は殆どが薬物を摂取し続けるための行動をすることになる[10]。一部の官吏はアヘンへの税金が帝国の財政に利益をもたらすと主張したがその代わりに道光帝は完全に貿易を停止し関係者を厳罰に処することにした。この時尊敬される学者で官吏の林則徐を自分の意思を実行するために欽差大臣に任命した。
林と外国の通商人
[編集]1839年半ばに広東に到着して間もなく林はヴィクトリア女王にアヘン取引を止める女王の道義的責任を訴えながら手紙を書いた[11]。手紙は返答を引き出さなかったが(出典は運送中に失われたことを示唆している)[12]後にイギリス公民への直接の訴えとしてロンドンタイムズに再掲された。道光帝の勅令が3月18日に続き[13]、現在適用されることになるアヘン密輸に対する厳罰を強調した。
1839年3月18日に林は外国のアヘン通商人のために仲介者として活動していた公行の中国人商人12人に出廷を命じた。ヨーロッパの商人全員が所有するアヘンを引き渡し直ちにアヘンの取引を中止するように告げた[13]。大臣は続けて公行を「裏切り者」と呼び違法な取引の共犯と糾弾し、外国人がアヘンを捨てるよう説得するのに3日が与えられるか二人が処刑され富と土地が没収された。次いで3月21日に商工会の会合を招集する公行の代表伍秉鑑は外国の商人に対する林の命令を無視した。会合の後で伍秉鑑は林の動きははったりであり脅しは無視すべきであると言われた。命を奪われないかと恐れてこの商人はこの時一部の密輸を止めることで林をなだめられるかもしれないと提案した。求められた分量は外国の商人が保管する総量即ち数百万ポンド相当の内の僅かな量に相当するに過ぎなかったがデント社のランスロット・デントは少量のアヘンを放棄することに同意し他の商人は要請に応じた[14]。大臣はこの時公行の商人を処刑する約束を取り下げその代わりに会談のために居宅にデントら代表格の外国の商人を招待した。
デントは友人から1774年にそのような召喚状に注意を払った人が鉄環絞首刑に処せられて果てたと警告されたので[15][16]その代わりに伍秉鑑に会談する林が安全の保証の手配をするように依頼した。デントは更に林の部下との会合に同僚の一人ロバート・イングリスを送ることで答えを引き延ばした。チャールズ・エリオットはこの時自身が林の期限の3日後の1839年3月24日に外国の工場に着く前に広東のイギリスの全ての船が香港島の安全のために向かうよう命令した。ユニオンジャックを掲げるとイギリスの通商代表は以後外国の商人は全てイギリス政府の庇護の下にあると発表した[17]。中国兵はこの時工場区域を封鎖し外国人居住者を幽閉すると脅迫する宣伝活動を開始した。エリオットは3月27日午後6時の期限を設けながら商品の費用のためにイギリス政府からの報酬を約束しながらアヘンは全て引き渡すべきだという署名を読み上げた。日暮れまでにイギリスの通商人は200万イギリスポンドの価値のあるアヘン約2万箱(概ね1300大トン(1321トン))を引き渡すことに同意していた[6][18]。林はイギリスが全品を引き渡したと考えたが大臣はアメリカやフランス、インド、オランダが更に全部で2万箱を引き渡すように要求したために工場は事実上包囲された状態のままであった[19]。これは不可能なことになり、フランスはこの時広東を去りオランダがアヘンで合意しなかった一方でインドとアメリカは自分達の持つアヘンは他の国の所有物であると主張した。
虎門銷煙
[編集]林の当初の計画は虎門要塞の南約5マイル (8.0 km)で広東から35マイル (56 km)の中国の龍穴島警護隊に押収したアヘンを移送するよう求めていた。しかしエリオットが任命した人物が代わりにその任務を行うことに同意した[21]。林と共に鄧廷楨が4月11日に虎門に到着した。中国側の報告書によるとこの時点で林はアヘンを放棄した全員のために紅茶3カティを[A]求めた[22]。ジャーディンマセソンの快速帆船オースティンとハーキュールズが川に停泊し船倉のアヘンの移送を始めたが荒天の水域は川を更に下り穿鼻島と虎門街の外側の沙角砲台に接近して移転させた。1839年5月21日までに20283箱が穿鼻島で降ろされていた。結果を喜んで東莞は間もなく起こる昇進を象徴するノロジカの雄の肉と幸運と長命のために漢字で記した手書きの巻物を林に送った[23]。5月24日に嘗てアヘン取引に関わった外国の商人は全員永久に中国を出国するよう林から命令を受け取った。チャールズ・エリオットの指揮の下で小艦隊で出国し、エリオットはそれまでに中国の需要を黙認していたためにイギリス政府と共にペルソナ・ノン・グラータになっていた。
林はこの時押収したアヘンの破壊に取り掛かった。盗まれないように竹矢来で区域を完全に取り囲むと木材で内部を覆った石灰と塩と共に押収したアヘンを流し込む採石場3か所が掘られた。ひとたび採石場が海水で満たされると労働者は盗まれたアヘンと生石灰に注ぎ込む前に湿らしたアヘン焼却用の池に塩を混ぜた。石灰が水と反応するとアヘンを溶かす高温を発した。池の水は潮が引くと海に放出される。23日にアヘン19187箱と2119袋(全部で237万6254㎏)が焼却された[24]。任務が終了すると事件を目撃したアメリカの宣教師イライジャ・コールマン・ブリッジマンは「全作業が行われる配慮と忠実の度合いは我々の予想を遙かに上回った・・・」と論評した[25]。
余波
[編集]ひとたびアヘンが焼却されるとエリオットはイギリス政府からの損害に対する補償を商人に約束した。しかしイギリス議会はそのような要請に決して同意せず代わりに中国政府が商人への賠償金を払うべきだと考えた。焼却されたアヘンへの返済が行われそうもないようだと苛立たせながら商人は林が到着する直前に広東を去ったウィリアム・ジャーディンに向かった。ジャーディンは開戦が清当局から賠償金を強制する唯一の方法と考え1839年10月に外務大臣パーマストン卿と会いながらイギリス政府を動かす運動を開始した[26]。翌3月他にもチャーティストからの強力な反対に会いながら中国に海軍を派遣すべきかについて戦争支持の動きは結局庶民院の討議で271対262で可決した[27]。1840年の春に16隻の戦艦と31隻の船からなる遠征軍は中国に向けインドを発ち[26]続くアヘン戦争で多数の英中間の戦闘に関わることになる。
受け継がれたもの
[編集]国際麻薬乱用・不正取引防止デーは薬物乱用と違法薬物取引に対する国際連合国際デーである。非合法薬物に対する運動を開始した栄誉は(国際連盟ができる前に)1906年に極東の悲惨なアヘンの状況にセオドア・ルーズベルト大統領の注意を向けたフィリピンのアメリカ人司教チャールズ・H・ブレントに与えられている[28]。中国政府とメディアが1839年6月25日に終わる広東省虎門の有害なアヘン取引を解体する林則徐の努力を記念することが毎年6月26日に祝われている[要出典]。
林則徐の偶像がアメリカ合衆国ニューヨーク市チャイナタウンのチャタム・スクエアに立っている。偶像の土台は英語と中国語で「反麻薬戦争の先駆者」と刻まれている[29]。
アヘン焼却を記念する「林則徐記念館」は1957年に虎門郊外に開館し1972年に「アヘン戦争の虎門人民のための反英記念館」に改名した。後に沙角砲台と威遠砲台の管理のために追加された職責と共に「アヘン戦争博物館」になった。敷地内の追加の「海戦博物館」が1999年12月公開されることになった[30]。
注
[編集]参照
[編集]引用
[編集]- ↑ Wright 2000, p. 21.
- ↑ Archives, The National. “The National Archives - Homepage” (英語). The National Archives. 2025年5月2日閲覧。
- ↑ Zhang 2006, p. 23.
- ↑ Ebrey 2010, p. 236.
- 1 2 Alexander 1856, p. 11.
- 1 2 United Nations Office on Drugs and Crime. Policy Analysis and Research Branch 2010, p. 20.
- ↑ Newbould 1990, p. 111.
- ↑ Canton Free Press, 14 February 1837; reprinted in The Times (London), 31 March 1837
- ↑ Hanes & Sanello 2002, p. 34.
- ↑ THE OPIUM WARS IN CHINA
- ↑ Teng & Fairbank 1979, p. 23.
- ↑ Hanes & Sanello 2002, p. 41.
- 1 2 Hanes & Sanello 2002, p. 43.
- ↑ Hanes & Sanello 2002, p. 45.
- ↑ Hanes & Sanello 2002, p. 46.
- ↑ Boswell, James (1785). “Affairs of the East Indies”. The Scots Magazine (Edinburgh: Sands, Brymer, Murray and Cochran) 47: 355.
- ↑ Hanes & Sanello 2002, p. 47.
- ↑ Melancon, Glenn (1999), “Honor in Opium? The British Declaration of War on China, 1839-1840”, International History Review 21 (4): 859, doi:10.1080/07075332.1999.9640880
- ↑ Hanes & Sanello 2002, p. 52.
- ↑ Parker & Wei 1888, p. 6-7.
- ↑ Hanes & Sanello 2002, p. 53.
- ↑ Parker & Wei 1888, p. 6.
- ↑ Hanes & Sanello 2002, p. 54.
- ↑ “China Commemorates Anti-opium Hero” (2009年6月4日). 2013年11月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月18日閲覧。
- ↑ “Elijah Coleman Bridgman”. The Chinese Repository VIII: 74. (1840).
- 1 2 Ebrey 2010, p. 239.
- ↑ Beeching 1975, p. 111.
- ↑ Bertil A. RENBORG, , Office on Drugs and Crime, United Nations, 1 Jan 1964.
- ↑ David Chen, Chinatown's Fujianese Get a Statue, New York Times, 20 November 1997.
- ↑ “The Opium War Museum”. 2014年3月24日閲覧。
参考文献一覧
[編集]- Alexander, Robert (1856). The Rise and Progress of British Opium Smuggling: The Illegality of the East India Company's Monopoly of the Drug, and Its Injurious Effects Upon India, China, and the Commerce of Great Britain. Five Letters Addressed to the Earl of Shaftesbury. London: Judd and Glass
- Beeching, Jack (1975). The Chinese Opium Wars. Hutchinson. ISBN 9780091227302
- Ebrey, Patricia Buckley, ed (2010). “9. Manchus and Imperialism: The Qing Dynasty 1644–1900”. The Cambridge Illustrated History of China. Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-12433-1
- Hanes, W. Travis; Sanello, Frank (2002). Opium Wars: The Addiction of One Empire and the Corruption of Another. Sourcebooks. ISBN 9781402201493
- Newbould, Ian (1990). Whiggery and Reform, 1830-41: The Politics of Government. Stanford University Press. ISBN 9780804717595
- Ouchterlony, John (1844). The Chinese War: An Account of All the Operations of the British Forces from the Commencement to the Treaty of Nanking. London: Saunders and Otley
- Parker, Edward Harper; Wei, Yuan (1888). 聖武記 [Chinese Account of the Opium War]. The Pagoda Library. Shanghai: Kelly & Walsh
- Teng, Ssu-yu; Fairbank, John King (1979). China's Response to the West: A Documentary Survey, 1839-1923. Harvard University Press. ISBN 9780674120259
- United Nations Office on Drugs and Crime. Policy Analysis and Research Branch (2010). A Century of International Drug Control. Bulletin on Narcotics. United Nations Office on Drugs and Crime. ISBN 9789211482454
- Wright, David (2000). Translating Science: The Transmission of Western Chemistry Into Late Imperial China, 1840-1900. Sinica Leidensia. Brill Publishers. ISBN 9789004117761
- Zhang, Weibin (2006). Hong Kong: The Pearl Made of British Mastery and Chinese Docile-diligence. Nova Science Publishers. ISBN 9781594546006