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藤浪剛一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤浪 剛一
人物情報
生誕 (1880-06-07) 1880年6月7日
日本の旗 日本愛知県名古屋市
死没 1942年11月29日(1942-11-29)(62歳没)
出身校 岡山医学専門学校
学問
研究分野 医学(病理学)
研究機関 慶應義塾大学
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藤浪 剛一(ふじなみ ごういち、1880年6月7日 - 1942年11月29日)は、日本の医学者放射線科医

経歴

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1880年、愛知県名古屋市生まれ。獨逸学協会学校(現・獨協中学校・高等学校)卒、岡山医学専門学校卒業後、同校の病理学教室に入る。1908年よりウィーン大学に留学し、レントゲン学を学ぶ。1912年に帰国して順天堂医院レントゲン科長となり、1920年からは慶應義塾大学の教授を務めた。

レントゲン学の第一人者で温泉学・医学史の分野においても数多くの業績を残している。

慶應義塾大学医学部放射線科学教室初代教授である。

掃苔家として

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剛一は、偉人や著名人の墓を訪ね歩く掃苔活動を趣味とし、同好団体の東京名墓顕彰会を設立したほどであった[1]。妻の和子も同会の機関誌『掃苔』の編集を手伝ううちに影響されて掃苔に没頭していき[2][3]、家事の合間を縫って東京の諸寺院を巡り、各故人の墓を調査するようになり、1940年(昭和15年)にはその成果をまとめた『東京掃苔録』を出版するに至った[3]。同書は593寺・2477名を収録しており、以後も再版が繰り返されている名著である[4][5]

剛一と和子の墓所は、日泰寺愛知県名古屋市千種区)と多磨霊園東京都府中市)にある[1][6][7]

家族・親族

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主な著作

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  • 藤浪剛一・福光廉平共述『内臓レントゲン診断学』南山堂, 1916年.
  • 藤浪剛一・原邦郎著『レントゲン深部放射の一般概念』 吐鳳堂書店, 1928年.
  • 藤浪剛一ほか『れんとげん学』 改訂第5版, 南山堂, 1928年.

参考文献

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  • 大鳥蘭三郎「故藤浪剛一先生略歴及び病歴」『日本医史学雑誌』第1315号, 1943年5月28日, 217-219頁.
  • 読売新聞 (1938年10月8日). “自慢一ト色 お墓 藤浪和子氏(談)”. 読売新聞 夕刊 (読売新聞社): p. 2 
  • 読売新聞 (1940年6月7日). “人の墓、浄めて六年 藤浪博士夫人の「東京掃苔録」上梓”. 読売新聞 朝刊 (読売新聞社): p. 7 
  • 森, まゆみ「大正快女伝 35 物集和子 おだやかな掃苔の日々」『本の話』第10巻第7号、文藝春秋、2004年7月1日、74-77頁、NAID 40006296424 
  • 佐藤, 康智「東京掃苔録々」『望星』第50巻第11号、東海教育研究所、2019年10月15日、50-55頁、ISSN 02889862NAID 40022047397 

外部リンク

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脚注

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  1. ^ a b 森 2004, p. 77.
  2. ^ 読売新聞 1938, p. 2.
  3. ^ a b 読売新聞 1940, p. 7.
  4. ^ 『東京の墓地・霊園』の巻 - 東京都立図書館、2019年7月7日閲覧。
  5. ^ 1973年、八木書店から1982年、『続日本史籍協会叢書』として東京大学出版会から2000年、『日本人物情報大系 第57巻』に収録、皓星社から、2019年7月7日閲覧。
  6. ^ 佐藤 2019, p. 55.
  7. ^ 藤浪剛一 歴史が眠る多磨霊園、2020年3月2日閲覧。