藤沢母娘殺人事件

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藤沢母娘殺人事件
正式名称 警察庁広域重要指定第112号事件
場所

日本の旗 日本

神奈川県横浜市戸塚区中田町(1件目、現・横浜市泉区中田町)[新聞 1]
神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目7番地3(2件目・座標位置、本項目名事件)[新聞 2]
兵庫県尼崎市西大物町90のマンション踊り場(3件目)[新聞 3]
座標
日付 1981年(昭和56年)10月6日[新聞 1]
1982年(昭和57年)5月27日[新聞 1]
1982年6月5日[新聞 1]
概要 男が知人の女子高生から交際を断られた上にその家族からも交際を反対されたことを逆恨みして女子高生とその母・妹の計3人を刺殺したほか、これに前後して窃盗の共犯・前述の殺人の共犯の男性2人を相次いで刺殺した。
攻撃手段 刃物で刺す
攻撃側人数 1人
死亡者 計5人(女子高生一家の女性3人+一家殺害事件前後に犯罪行為を行っていた共犯者男性2人)
損害 被害総額計321万円余りの窃盗[裁判 1]
犯人 男F
対処 神奈川県警が被疑者Fを逮捕・横浜地検が被告人Fを起訴
刑事訴訟 死刑執行済み
管轄

警察庁

神奈川県警察(県警本部捜査一課・藤沢警察署
兵庫県警察(県警本部捜査一課・尼崎南警察署
横浜地方検察庁東京高等検察庁
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最高裁判所判例
事件名 訴訟終了宣言決定に対する異議申立て棄却決定に対する特別抗告事件
事件番号 平成6年(し)第173号
1995年(平成7年)6月28日
判例集 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第49巻6号785頁、『最高裁判所裁判集刑事』(集刑)第265号873頁、『裁判所時報』第1149号6頁、『判例時報』第1534号139頁、『判例タイムズ』第880号131頁、裁判所ウェブサイト掲載判例
裁判要旨
死刑判決の言渡しを受けた被告人が、その判決に不服があるのに、死刑判決の衝撃及び公判審理の重圧に伴う精神的苦痛によって精神障害を生じ、その影響下において、苦痛から逃れることを目的として控訴を取り下げたなどの判示の事実関係の下においては、被告人の控訴取下げは、自己の権利を守る能力を著しく制限されていたものであって、無効である。
第二小法廷
裁判長 大西勝也
陪席裁判官 中島敏次郎根岸重治河合伸一
意見
多数意見 全員一致
反対意見 なし
参照法条
刑事訴訟法359条・411条1号
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藤沢母娘殺人事件(ふじさわおやこさつじんじけん)は、1982年昭和57年)5月27日神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目の家屋で住民男性の妻・娘2人の計3人が刺殺された殺人事件である[新聞 2]

加害者の男(本文中では実名のイニシャル「F」と表記)はストーカー行為をしていた相手だった女子高生とその家族(母親・妹)の計3人を刃物で刺殺したほか、その犯行に前後して事件前年の1981年(昭和56年)から逮捕されるまでに共犯者を含めて2人を殺害していたことが逮捕後に判明、一連の連続殺人事件は警察庁広域重要指定第112号事件に指定された。

被告人として起訴された男Fは1988年(昭和63年)第一審・横浜地裁で死刑判決を受け東京高裁に控訴するも控訴審の最中に「不安定な精神状態」で控訴を取り下げたため、その効力を巡って最高裁までもつれ込んだ「深刻な争い」が生じたことから第一審判決から2000年平成12年)の控訴審判決までに12年近く、2004年(平成16年)の上告審判決で死刑が確定するまでに計16年を要する異例の長期裁判となった[裁判 1]

概要[編集]

加害者の男Fは1960年(昭和35年)8月21日に生まれ[書籍 1]法務省法務大臣鳩山邦夫)の発した死刑執行命令により2007年平成19年)12月7日に収監先・東京拘置所で死刑を執行された[書籍 1][新聞 4]

本事件は以下4つの事件からなる[裁判 1]

  1. 1981年10月6日、神奈川県横浜市内で窃盗の共犯者だった仲間の男性1人を殺害した事件(殺人罪)[裁判 1]
  2. 1982年5月27日、神奈川県藤沢市内で交際に応じなかった女子高生とその母・妹の母娘3人を殺害した事件(殺人罪、本項目事件[裁判 1]
  3. 2.の事件後となる1982年6月5日、同事件の共犯者だった少年を兵庫県尼崎市内で殺害した事件(殺人罪)[裁判 1]
  4. 10回にわたり窃盗を繰り返し、被害総額321万円あまりを出した事件(窃盗罪)[裁判 1]

母娘3人を含め5人が殺害された一連の連続殺人事件は、いずれも上告審判決で「被害者の言動により被告人Fがその心情を害されることが多少はあったが、それでも被告人Fが殺害を決意・実行していく過程は誠に短絡的かつ身勝手なもので動機に酌量の余地はない」「いずれの殺害行為もあらかじめ『殺傷能力の高い鋭利な刃物』を凶器として複数準備して計画的に行われており、攻撃の態様も『確定的殺意の下に各被害者の身体の枢要部を刃物で滅多刺しにする執拗・残虐な犯行』だった」と事実認定された[裁判 2]

事件発生[編集]

Fは本事件前から少年院で知り合った友人男性X(死亡当時20歳・神奈川県鎌倉市出身)[新聞 3]とともに2人でアパートを借りて同居していた。単独またはXと共謀した上で、1981年5月から本項目事件前後の1982年5月にかけて前後10回にわたり神奈川県内各地(鎌倉市川崎市厚木市・横浜市・藤沢市)で被害総額計321万円あまりにわたるひったくり・事務所荒らしなどの窃盗をしたが(窃盗罪)、XがFから現金20万円を盗んで逃走する事件を起こした[裁判 1]。FはXを探し出して盗んだ金の返済を迫ったが、Xが一向に誠意ある態度を見せなかったことに激怒して1981年10月5日夜には「Xを人気のない場所に連れて行って殺害しよう」と決意した[裁判 1]

1981年10月6日午前5時ごろ[裁判 1]、FはXを神奈川県横浜市戸塚区中田町(現・横浜市泉区中田町)のキャベツ畑に連れ出す。[新聞 3]路上で殺意を持ってガソリンを振りかけた上で刺身包丁で大腿部を突き刺し、くり小刀で背中・首・胸を10か所以上にわたり滅多刺しにして被害者男性Xを「左総頚動脈切断」により失血死させて殺害した(第1の殺人)[裁判 1]

第1の殺人を犯してから約1か月後の1981年11月20日ごろの夕方、Fは女子高生ナンパするために神奈川県茅ケ崎市内の高等学校付近の路上で待ち構えていた。偶然目の前を通りかかった当時高校1年生だった本項目名事件の被害者少女A[裁判 1](死亡当時16歳・神奈川県立高校2年生の女子高生)[新聞 3]に「時刻を尋ねるふり」をして声をかけ、軽い気持ちで応答した少女Aから名前・電話番号を聞き出した[裁判 1]。Fはその後、Aの家に電話で誘いをかけた上で、同年12月15日には2人で静岡県熱海市内の遊園地に行くなどしたが[裁判 1]、その後AがFの人柄を知ったことから交際を拒否するようになった[裁判 2]。同年12月25日ごろにA宅を訪れた際には予期に反して家に上げてもらえなかった上、同年の大晦日(1981年12月31日)ごろに再度交際を求めると「あんたなんかダサいよ」などと言われて交際を拒絶された[裁判 1]

年が明けて1982年になってからも[裁判 1]、Fは「心変わりされた腹立たしさ」「なお交際を求めたい気持ち」が入り混じった感情から無言電話・いたずら電話で少女Aに嫌がらせをするなど[裁判 2]執拗に交際を求めて少女Aに付きまとうストーカー行為をしたが、少女A本人のみならずAの両親[裁判 1]・妹B(一家の次女・事件当時13歳の中学生)[新聞 3]から交際を強く拒絶された[裁判 1]。さらにFは遊園地で少女Aのために使った金の返済を要求して執拗にAに付きまとったが、ますます疎まれてAやその家族から強く交際を拒まれ[裁判 2]、1982年5月8日にA宅を訪ねた際には110番通報されて逃げ帰る事態となった[裁判 1]。これを逆恨みしたFは「A一家の者たちから散々馬鹿にされた」と感じたことから「Aを家族もろとも皆殺しにしてやる」と企てる。皆殺しを成功させるために少年院で知り合った[裁判 1]少年Y(死亡当時19歳・東京都江東区出身)[新聞 2]に計画を打ち明けた上でYを犯行に協力させ、事件当日の1982年5月27日夕方には包丁・くり小刀を凶器として持参し、A宅に向かった[裁判 1]

FはYと共謀し、当時不在だった父親以外の3人(A・B姉妹+死亡当時45歳の少女の母親C)を殺害することを決意して、1982年5月27日午後8時ごろ、それぞれ新聞集金人を装って[裁判 1]神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目7番地3の少女A宅に上がり込んだ。共犯Xに廊下で見張り役をさせつつ[新聞 2]、持っていた包丁・くり小刀でA・B・Cの3人に襲い掛かり、3人を次々と滅多刺しにしていずれも以下のような傷害により失血死させて殺害した(第2の事件・本項目名事件)[裁判 1][新聞 2]

  • 少女Aの妹B - 15か所におよぶ左右前胸部刺切創などの傷害[裁判 1]
  • 少女A - 6か所におよぶ右前胸部刺切創などの傷害[裁判 1]
  • A・B姉妹の母親C - 6か所におよぶ背部刺切創などの傷害[裁判 1]

Fは共犯少年YとともにA一家殺害事件の直後から大阪府方面に逃亡したのち、さらに九州福岡県熊本県)方面を経てさらに再度大阪方面に逃亡した。その間に「一家殺害の時に全く度胸のなかったYが警察に自首するのではないか」と不安になったことに加え、Yに誘いの隙を見せたところ現金20万円を盗まれたことから「Yは裏切り者だから口封じのために殺すしかない」と考えるようになった[裁判 1]

1982年6月5日、FはYを殺害するのに適当な場所を探しながら大阪府から兵庫県尼崎市内に至り、偶然見つけた[裁判 1]兵庫県尼崎市西大物町90のマンション踊り場で[新聞 3]殺意を持って以前から持ち歩いていたくり小刀2本でYの胸・首・背中を多数回突き刺し、共犯少年Yを「29か所におよぶ右側頸部刺切創などの傷害」により失血死させて殺害した(第3の殺人)[裁判 1]

捜査[編集]

逃亡を続けたFだったが、本項目事件で殺害されたA一家のみならずX・Y両名が殺害された2事件を含めて全被害者と接点があったことから、神奈川県警察捜査本部(県警本部捜査一課が藤沢警察署と合同で同署内に設置)は「5人全員と交流関係があり、かつ本項目事件以降に所在不明となっている」点から重要参考人として行方を追われた。そして、X殺害事件の口止めを図ろうとした別件脅迫事件が判明したため、1982年6月14日にはその脅迫容疑で通常逮捕された[裁判 3]

Fは本項目事件およびX・Y両名殺害事件の被疑者として取り調べを受けることとなったが、当初は容疑を否認し、逮捕2日後の1982年6月16日にはポリグラフ検査を拒否するなどして抵抗した。同年6月20日にY事件を捜査していた兵庫県警察鑑識課の係員が神奈川県警を訪れ、被告人Fの足跡・Y事件現場に残された足跡の対照を実施した。同年6月22日、その結果を記載した捜査復命書を作成した上で兵庫県警本部に報告した[裁判 3]

逮捕から10日後の6月23日には事実を認める自供を始め、6月26日から9月9日までの長期にわたって横浜地方検察庁の検察官から取り調べを受けた際には、一連の連続殺人事件に関して詳細に供述した[裁判 3]。それまでの経緯は以下の通り[裁判 3]である。

  • 脅迫容疑で別件逮捕された当初、神奈川県警本部の捜査員2人が直接の取り調べを担当し、捜査本部の設置された藤沢署の署員1人が雑用・連絡係を務めて被告人Fを取り調べた。Fは殺人事件に関する取り調べに対して否認したばかりか、「アリバイ」と主張する行動に関してその裏を取ると「まったくのでたらめ」というような状況があったために追及すると「壁に頭を打ち付ける・立ち上がるなど相当な動揺を示した」[裁判 3]
  • 取り調べ途中では電線マンの歌を歌ったり大声を出したりする振る舞いをしたが、結局は自白に至らなかったため「現在の捜査員では性格が合わない」と判断した県警上層部が6月22日から新たな取り調べ担当者として「県警本部から別の捜査員2人」「これら担当者の調整役としてまた別の捜査員1人」の計3人を応援として加えた[裁判 3]
  • 6月23日午後、Y事件を捜査していた兵庫県警察から「Y事件の現場に残された足跡が被告人Fの靴の足跡と一致する」と情報提供がなされ、従来からの捜査員2人がそれをFにぶつけるとFはショックを受けた様子を示した。同日の夕方にはFの実母が「Fは本項目事件の当夜に傷を負って帰ってきた。手当てをしてやった際に『母親と娘2人を殺して帰ってきた』と述べていた」と証言したことが報告され、その情報をもとに捜査員らがFを説得したところ、Fは同日中に犯行を認めるに至った[裁判 3]

なお被告人Fは、第一審第2回公判・第44回公判(特に第44回公判)にて弁護人の所論と同様に「別件逮捕された直後から取り調べを行った警察官らから『A一家はお前が殺したのだろう。白状しろ』『X・Yもお前が殺しただろう』などと平手打ちなどの暴行を受け、ポリグラフ検査を拒否すると膝蹴りなどの暴行を受けた。特に取り調べ捜査員が増員されてからは『本格的な拷問』を受けるようになり、顔を平手打ちされては『キョウカンゴウメイで訴える』などと言っても無視して顔を叩かれ、壁に頭を打ち付けるなどの暴行を受け、果ては体を抑えられてタオルで首を絞められるなど激しい暴行を受けた。食事に唾液をかけられるなどしてろくに食事もとれない状況に耐え切れず自白した」などと「暴力的な取り調べを受けた」と主張したが、第一審・控訴審判決では以下のように「被告人Fの供述のみから『暴力的な取り調べがあったことが明らかだと認定する』ことは困難だというべきだ」と事実認定された[裁判 3]

  1. 被告人Fが当該公判で主張した「取り調べを担当して警察官の顔ぶれ」には「やや首をかしげざるを得ない誤り」があり、「内容的に客観的事実に相違する点」があった。また、仮にそのような行為をされたのであれば「勾留裁判官をはじめ直後に取り調べをした検察官・第一審心理の際や鑑定人に対して訴える機会」が数多くあったにもかかわらず、全くその点を訴えていないことから「一過性の訴えに過ぎない」時点で「まず根本的な疑問を持たざるを得ない」ものである[裁判 3]
  2. またその述べる内容も「具体性に富む」という反面で「強調するためだろうか、『同じパターンの訴え』が目に付く」上に「『キョウカンゴウメイ』など意味不明な言葉」「『取り調べ警察官が食事に唾をかけた』などの信じがたい内容」を含むものである[裁判 3]。また被告人は第一審の第7,8回公判で「拘置所職員に関してオーバーな訴えをした」事実があり、それを勘案すると被告人Fの主張は信用性が薄い[裁判 3]
  3. 被告人Fは少年時代から窃盗など非行を繰り返して警察に検挙され、2度にわたって少年院に収容された前歴があった。また、かねてから六法全書を読んだり、少年院仲間のYから知識を得たり、刑事もののテレビ番組などに関心を持ったりしていたことから「黙秘権があること」「警察官の暴力的な取り調べは許されないこと」を知っていた[裁判 3]。そのため「殺人事件に関する追及をかわす目的」で取り調べ中に歌を歌うなど、あえて「挑発的態度に出ていた」可能性がある[裁判 3]
  4. 前述のような被告人Fの態度は捜査官にとって「被告人Fに対する反抗の嫌疑を強める」ものとして働き、被告人Fへの厳しい追及につながったことは想像に難くない。その一方で、「被告人Fのようなタイプの被疑者には暴行・脅迫など暴力的な取り調べは有効ではない」ことは捜査員もよく心得ていたことが窺える。当時、「被告人Fへの取り調べ以外の捜査[注釈 1]も相当程度進展していた」状態であった。その中で「自白を無理に、しかも被告人Fが主張するような『警察官が総出で暴行などを加えて無理矢理にでも獲得しなければならない』ような切羽詰まった状況にあったか」という点は甚だ疑問である[裁判 3]
  5. 以上に挙げた点から、捜査官が反論したように「アリバイを追及して供述の矛盾を突き、状況証拠を突き付けるなどして厳しく追及したこと」は当然である[裁判 3]。また「被告人Fの心情に訴える取り調べ」も行われたと思われるが、結局は「Y事件現場に残された足跡」という「言いぬけしがたい証拠」に加え、「『A一家殺害直後にその犯行を打ち明けるほどの信頼・愛情を抱いていた』母親から『正直に話せ』という言葉を伝え聞いたことから自白するに至った」ということが真相に近いと思われる[裁判 3]。だからこそ「6月23日に上申書を作成して以降は素直に取り調べに応じ、6月25日付をはじめとして計8通の調書が作成され、並行して検察官の取り調べに対し本件の検察官調書が作成された」ものと認められる[裁判 3]
  6. なお、自白の経緯に関しては「新聞報道とやや齟齬がある点」が認められるが、新聞報道自体各紙により違いがあり、「捜査中の事件の微妙な問題のある事柄」に関しては「どの程度まで正確に報道されているか」は疑問である[裁判 3]。また自白を始めた翌日に被告人Fは取調室で貧血などにより倒れているが、それは「前述のように警察を散々挑発して追及を逃れようとしていたにもかかわらず、自白に追い込まれたショック」と「それまでの心身の疲労」が出たとみることも可能であり(その後には精神障害をり患している)、上記の判断を左右する事情とはならないものと思料される[裁判 3]
  7. 検察官の供述調書などの内容を見るとその内容は「犯人にしか語れない具体性に富み、裏付けも十分で信用性にまったく問題がない」ことが認められる。その中には「自白の動機」「偽らざる心境を述べたもの」などが存在することから「被告人Fの供述・自白が拷問・強制によらないこと」を示す証拠の1つと思われる[裁判 3]
  8. 以上を総合勘案すると、被告人Fの第一審公判における供述が「正常な精神状態」におけるものだったとしても「暴力的な取り調べなどしていない」と一致して訴える警察官の供述を排斥するには足りず、まして「信用性のある検察化の供述調書など」における「『自白の任意性』には全く問題はない」と判断できる[裁判 3]

また弁護人は「検察官の供述調書などは、別件逮捕・交流を利用した取り調べの結果なされた自白をもとに得られたものであるため、証拠能力はない」と主張したが、第一審・控訴人は「脅迫事件自体が逮捕・勾留を必要とするものである上、その事件に関する調べがなされていることも被告人が6月21日に勾留裁判官に対して質問調書上で述べたことからも明らかだ。本件連続殺人事件は原因・動機と関連するものであり、その間になされた自白が基となって供述調書などが作成されたとしても、『別件逮捕・勾留を利用して得られた不当なもの』とは言えない」と事実認定した[裁判 3]

刑事裁判[編集]

第一審・横浜地裁[編集]

被告人Fは3件5人の殺人罪・被害総額約321万円の窃盗罪10件で横浜地方検察庁により横浜地方裁判所起訴された[裁判 1]

1982年9月10日、横浜地検は既に母娘3人殺害事件で横浜地裁に起訴されていた被告人Fを「横浜市内のキャベツ畑殺人事件」・「兵庫県尼崎市内のマンション殺人事件」の2件に関していずれも殺人罪で横浜地裁に追起訴した[新聞 5]。被告人Fはこの時点までにひったくり8件・事務所荒らし・友人への脅迫電話事件などを自供していたため、横浜地検はそれらの余罪に関しても裏付け捜査をした上で追起訴した[新聞 5]

1982年10月12日、横浜地裁刑事第2部(小川陽一裁判長)で初公判が開かれた[新聞 6]。罪状認否で被告人Fは黙秘権を行使し、弁護人は「神奈川県警は被告人Fを別件逮捕した上で自白を強要した」と無罪を主張した[新聞 6]。さらに弁護人は横浜地裁に対し「起訴状には『予断を抱かせる犯行動機・経過など』が記載されている」と主張して公訴棄却を求めたが、小川裁判長から却下された[新聞 6]

1987年(昭和62年)11月26日、横浜地裁刑事第2部(和田保裁判長)にて第57回公判(論告求刑公判)が開かれ[新聞 3]、横浜地検は被告人Fに死刑を求刑した[新聞 7][新聞 8][新聞 3]

1988年(昭和63年)1月14日午前10時から横浜地裁刑事第2部(和田保裁判長)で最終弁論公判が開かれて結審した[新聞 9]。最終弁論で弁護人は「被告人Fは脅迫罪で別件逮捕された上で取り調べを受けており、これは刑事手続き上違法である上、殺人の自白も強制・拷問によるもので証拠能力はない」として無罪を主張した[新聞 9]

1988年3月10日午前10時から判決公判が開かれ[新聞 2]、横浜地裁刑事第2部(和田保裁判長)は横浜地検の求刑通り被告人Fに死刑判決を言い渡した[新聞 10][新聞 1][新聞 2]

和田裁判長は判決理由を朗読する途中、本事件で殺害された母娘3人と1人残された遺族の男性の一家4人に言及して「幸せな家庭を突然奪われた無念さは計り知れない」と述べた瞬間に思わず涙声になり、被告人Fに対しては「5人もの命を奪った責任はあまりにも重い。君自身の命でその罪を償ってもらう以外にない」と説諭した。しかし、これに対し被告人Fは「言いたいことがある」と立ち上がると傍聴席に向かって2,3回両手でVサインをしながら「自分は(暴力団・稲川会総裁の)稲川聖城さんが世界で一番好きだ」などと発言したため、これに激怒した和田が「君には反省の色がない」と非難した[新聞 2]

被告人F・弁護人は同日午後に東京高等裁判所控訴した[新聞 11]

控訴審・東京高裁[編集]

死刑判決を不服として東京高等裁判所に控訴した被告人Fだったが、同高裁刑事第11部で1989年(平成元年)7月10日に開かれた控訴審初公判、および1989年9月11日に開かれた控訴審第2回公判では「もう助からないから控訴をやめたい(死刑判決が覆る見込みがないから控訴を取り下げたい)」という趣旨の発言をした[裁判 4]。これに対し裁判長は「重要な事項なので(控訴を取り下げる場合は)弁護人とよく相談してから決めるように」と説諭したが、当時の被告人Fは収監先・東京拘置所の職員や接見のために同拘置所を訪れた弁護人に対してもしばしば「控訴を取り下げたい」という趣旨の発言をしていた[裁判 4]。また被告人Fは法廷で「裁判官がタレントに似ている」などと発言していた[新聞 12]

弁護人はその度に被告人Fを説得して控訴取り下げを思い留まらせつつ、東京拘置所職員にも「被告人Fの『控訴取り下げ』要求を取り上げないでほしい」などと依頼するなどしていたが、被告人Fは1991年(平成3年)4月10日の第11回公判で、東京高裁が「弁護人がかねてから請求していた被告人Fの犯行時及び現在の精神状態に関する精神鑑定」を採用した際に「その精神鑑定を拒否する。要求が容れられないなら控訴を取り下げる」などと発言した上、それから8日後の1991年4月18日には東京拘置所で控訴取下に必要な手続・書類の交付を強く求めた[裁判 4]

この事実を東京拘置所から連絡された弁護人・岡崎敬は1991年4月23日に被告人Fと接見して[裁判 4]控訴を取り下げないように説得した上で[新聞 12]被告人Fを制止したが[新聞 13]、被告人Fは説得に応じることなく[新聞 12]弁護人との接見・拘置所職員による事情聴取などの手続を経て「控訴取下書」用紙の交付を受け、所要事項を記入して同日付の控訴取下書を作成して東京拘置所長に提出した[裁判 4]

これを受けて弁護団は以下のように「控訴取り下げの効力には疑義がある」と表明した[新聞 12]

  • 被告人Fは「控訴取り下げ」の意味を理解しておらず「控訴を取り下げれば死刑判決が確定する」とは思っていなかった[新聞 12]
  • 控訴取り下げ書提出後、被告人Fは1991年10月から11月にかけて実母宛の手紙・公判で一転して控訴取り下げを撤回する意思表示をしている[新聞 12]

1991年5月10日、被告人Fは東京高裁から審尋を受けて控訴取下書提出の動機・経緯などの真意を質問された際に「裁判所・訴訟関係人の質問」に対してはあまり多くを語らなかったが、「1991年4月23日付の控訴取下書は自ら作成したものだ」と認めた。それを作成した動機は「世界で一番強い人に『生きているのがつまらなくなる』魔法をかけられているので毎日がとても苦しい。『控訴を取り下げれば早く死刑になって楽になれる』と思ったからだ」と供述した[裁判 4]

これを受けて東京高裁は、被告人Fのその供述に鑑みて「被告人Fの現在の精神状態、特に被告人Fが控訴取下書を提出した時点で『控訴取り下げなどの行為が訴訟上持つ意味を理解して行為する能力』(=訴訟能力)があったか否か」を含めて大学医学部名誉教授の医師に精神鑑定を命じた[裁判 4]。その鑑定人は関係記録を検討して、1991年6月10日から8月20日までの約2か月間に6回にわたり被告人Fに面接して精神鑑定作業を進めたが、被告人Fはその間も鑑定人の再三にわたる説得を聞き入れず身体的・精神的諸検査を拒否したため、鑑定人はやむを得ず「被告人Fとの面接結果」を中心に鑑定を行い、1991年9月13日付で東京高裁に精神鑑定書を提出した[裁判 4]

東京高裁は「死刑判決に対する控訴の取り下げ」という「訴訟法上重大な効果を伴うもの」である本件に関して「その効力の有無を慎重に検討する」目的で1991年11月18日には定人に対する証人尋問を行い、「被告人Fの精神状態の把握」「被告人Fの訴訟能力の有無」に関する疑問点の解消に努めた[裁判 4]。その結果、1992年(平成4年)1月31日付で東京高裁刑事第11部(小泉祐康裁判長)は以下のように「控訴取り下げは被告人F自身の『死への願望』というやや特殊な動機だが、被告人本人の真意であるため取り下げは有効である」という決定を出した[新聞 12][新聞 13]

  • 被告人F自身が控訴審初公判で「もう助からないから控訴を取り下げたい」と発言したり、取り下げ書提出後に東京高裁の質問に対し「『控訴を取り下げれば早く死刑になって楽になれる』と思った」と回答した[新聞 12]
  • 精神鑑定結果で「被告人Fの精神は拘禁反応の状態にはあるが、『控訴取り下げの意味を理解する能力』は多少の問題はあるにしても完全に失われているわけではない」とされており、弁護団の「取り下げは被告人Fの一時の気紛れ・気の迷いによるもの」という主張は当てはまらない[新聞 12]
  • 控訴取り下げ撤回の意思を表明しても、いったん終了した訴訟状態は復活させることはできない[新聞 12]

これに伴い控訴審は「控訴取り下げ時点にさかのぼって終了し、そのまま第一審・死刑判決が確定」することになったが、被告人Fの弁護団は同日夜に「控訴取り下げは精神的に不安定な状況で行われており、本人に訴訟能力がないため無効だ」などとして東京高裁決定に対する異議を申し立てた[新聞 12]

1992年6月11日までに東京高裁刑事第12部(横田安弘裁判長)は「『被告人Fが控訴取り下げの意味を理解した上で取り下げを行ったかどうか』を改めて精査する必要がある」として、聖マリアンナ医学研究所顧問・逸見武光を鑑定人に指定し、被告人Fに対し2度目の精神鑑定を行うことを決定した[新聞 14]

1994年(平成6年)11月30日までに東京高裁(円井義弘裁判長)は「被告人Fは控訴を取り下げた時点で拘禁反応状態にはあったが、取り下げの意味は理解しており有効なものだった」と認め、弁護人からなされた「訴訟終了決定」への異議申し立てを棄却する決定をした[新聞 15]

しかし弁護人が同決定を不服として最高裁に特別抗告した結果[新聞 15]1995年(平成7年)6月29日までに最高裁判所第二小法廷大西勝也裁判長)は弁護人の特別抗告を認容した上で「控訴取り下げは有効」とした東京高裁決定を取り消し、「控訴取り下げは無効であり、東京高裁は控訴審の公判を再開すべきである」と命じる決定を出した[新聞 16]。決定理由で同小法廷は「死刑判決に対する上訴取り下げは死刑を確定させる重大な法律効果を伴うものである」と指摘した上で、東京高裁が行った尋問の際に被告人Fが「無罪になって自由の身になりたいから控訴取り下げを撤回する」などと意思表示をしていたことから「被告人Fは無罪を希望していた」と認定した[新聞 16]。その上で「被告人Fは控訴を取り下げた当時『もう助かる見込みがない』と思い詰めており、その精神的苦痛から逃れるために控訴を取り下げた。今回のように『判決に不服があるにもかかわらず死刑宣告の衝撃などで精神障害を生じ、その苦痛から逃れるために上訴を取り下げた場合』は取り下げは無効とするのが相当である」との判断を示した[新聞 16]

最高裁決定後に東京医科歯科大学教授・山上晧による精神鑑定が行われたのち、1998年(平成10年)6月22日に東京高裁(荒木友雄裁判長)で約7年ぶりに控訴審公判が再開された[新聞 17]。同日の公判では「被告人Fは異常性格だが、犯行当時は特に病的な精神状態ではなかった」とする鑑定書が証拠採用された一方、弁護人は「被告人Fは『控訴取り下げを行う能力がない』と認定されており、裁判を続ける訴訟能力もない」などと主張して公判手続き停止を申し立てた[新聞 17]

1999年(平成11年)10月29日に東京高裁(荒木友雄裁判長)で控訴審第19回公判が開かれ、弁護人・検察官の双方が最終弁論を行って結審した[新聞 18]

2000年(平成12年)1月24日に開かれた控訴審判決公判で東京高裁(荒木友雄裁判長)は第一審・死刑判決を支持して被告人F・弁護人側の控訴を棄却する判決を言い渡した[新聞 19]。上記の控訴取下げ及びその無効についての争いが影響し一審判決から約12年を要する長期裁判となった。

被告人Fの弁護人は、控訴審判決を不服として2000年2月4日付で最高裁判所上告した[新聞 20]

上告審・最高裁第三小法廷[編集]

2003年(平成15年)12月17日までに最高裁判所は被告人Fの上告審口頭弁論公判開廷期日を「2004年3月23日」に指定して関係者に通知した[新聞 21]。最高裁はこのほか警察庁広域重要指定118号事件で死刑判決を受けた被告人3人に対しても「2004年4月22日に上告審口頭弁論公判を開廷する」と関係者に通知した[新聞 21]

2004年(平成16年)3月23日、最高裁第三小法廷濱田邦夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれた[新聞 22]。弁護人側は「被告人Fは長期間の拘禁により精神障害が生じており刑罰を理解できず、死刑執行は意味をなさない」と主張して死刑判決破棄を求めた一方、検察側は「被告人Fが刑罰を理解できない証拠はなく、極悪非道の重大犯罪である本事件は死刑が相当だ」と主張して死刑判決支持・被告人側上告棄却を求めた[新聞 22]

2004年6月15日、最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)は上告審判決公判にて第一審・控訴審の死刑判決を支持して被告人F・弁護人の上告棄却する判決を言い渡したため、死刑が確定することとなった[新聞 23]

被告人Fは上告審判決から10日の判決訂正申し立て期限内(2004年6月24日まで)に判決訂正を申し立てなかったため、2004年6月25日付で正式に死刑判決が確定した[新聞 24]

死刑執行[編集]

2007年平成19年)12月7日午前、法務省法務大臣鳩山邦夫)の発した死刑執行命令により収監先・東京拘置所で死刑囚Fの死刑が執行された[新聞 4]。国会会期中の死刑執行は極めて異例である。法務省はそれまでの死刑執行ではその事実・人数しか公表していなかったが、鳩山が法務大臣に就任してから初となるこの死刑執行では、同日に執行されたほか2人の死刑囚(うち1人は東京拘置所、もう1人は大阪拘置所)を含めて「死刑囚の氏名・犯罪事実の概要・執行場所」が初めて法務省により公表された[新聞 4]。鳩山は同日、衆議院法務委員会でこの死刑執行にあたって氏名などを公表した理由を「死刑という非常に重い刑罰が『法に基づいて適正に粛々と行われているかどうか』は被害者あるいは国民が知り理解する必要がある」と説明した[新聞 4]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「事件当時の被告人Fの行動」に加えて「被害者少女Aに付きまとっていた男」=被告人Fであることは「被害者少女Aの日記帳・メモの分析」「被害者少女Aの実父である被害者遺族男性による写真面割り」から判明していたばかりか、現場で採取された血液型の鑑定もABO式のみならずMN式・G型の鑑定が進められていた[裁判 3]

出典[編集]

刑事裁判の判決文・決定文

新聞報道記事(※見出しに死刑囚の実名が含まれる場合はその箇所を死刑囚の姓イニシャル「F」で表記している)

  1. ^ a b c d e 『朝日新聞』1988年3月10日夕刊第一社会面19面「藤沢の母娘など5人殺し Fに死刑判決 横浜地裁」
  2. ^ a b c d e f g h 『毎日新聞』1988年3月10日東京夕刊第一社会面13面「死刑判決 神奈川の母娘3人など5人殺害のF被告に横浜地裁」
  3. ^ a b c d e f g h 『毎日新聞』1987年11月27日東京朝刊第二社会面26面「8か月間に5人殺人のF被告に死刑求刑」
  4. ^ a b c d 『読売新聞』2007年12月7日東京夕刊1面「3人死刑、初の氏名公表 法相『国民が知る必要』 5人殺害のF死刑囚ら」
  5. ^ a b 『日本経済新聞』1982年9月11日朝刊第一社会面23面「横浜地検、藤沢の母娘3人刺殺で起訴のFを戸塚と尼崎の殺人事件で追起訴」
  6. ^ a b c 『日本経済新聞』1982年10月12日夕刊第一社会面11面「横浜地裁、藤沢の母娘殺し初公判--F、黙秘権使う」
  7. ^ 『読売新聞』1987年11月27日東京朝刊第一社会面27面「5人殺しの『F』に死刑求刑/横浜地裁」
  8. ^ 『朝日新聞』1987年11月27日朝刊第一社会面31面「連続殺人、Fに死刑求刑」
  9. ^ a b 『読売新聞』1988年1月14日東京夕刊第二社会面18面「神奈川県内で5人殺害のF裁判が結審」
  10. ^ 『読売新聞』1988年3月10日東京夕刊第一社会面15面「神奈川・藤沢市の母娘ら5人殺し F被告に死刑判決/横浜地裁」
  11. ^ 『読売新聞』1988年3月11日東京朝刊第二社会面30面「死刑判決のF被告が控訴/神奈川の母娘ら5人刺殺」
  12. ^ a b c d e f g h i j k 『読売新聞』1992年2月4日東京朝刊第一社会面31面「昭和57年の5人殺し F被告の控訴取り下げ 高裁が有効の判断 死刑確定へ」
  13. ^ a b 『毎日新聞』1992年2月4日大阪朝刊第一社会面23面「“志願”の死刑が確定、F被告の控訴取り下げ有効--東京高裁が決定」
  14. ^ 『読売新聞』1992年6月12日東京朝刊第一社会面31面「母娘ら5人殺人 『死刑』の控訴取り下げた被告 再度精神鑑定へ/東京高裁」
  15. ^ a b 『読売新聞』1994年11月30日東京夕刊第二社会面18面「神奈川・藤沢の連続殺人 一審死刑判決のF被告の控訴取り下げ有効/東京高裁」
  16. ^ a b c 『読売新聞』1995年6月30日東京朝刊第二社会面35面「神奈川・藤沢の5人殺し、F被告 控訴審の公判再開 最高裁が決定」
  17. ^ a b 『読売新聞』1998年6月23日東京朝刊第一社会面35面「女子高生ら5人殺害、一審死刑判決のF被告 7年ぶり控訴審再開/東京高裁」
  18. ^ 『毎日新聞』1999年10月29日東京夕刊第一社会面15面「5人殺害の被告、判決は1月24日に--東京高裁」
  19. ^ 『読売新聞』2000年1月25日東京朝刊第二社会面30面「女子高生ら5人殺害のF被告、二審も死刑 異常行動『拘禁の影響』/東京高裁」
  20. ^ 『東京新聞』2000年2月5日朝刊第二社会面26面「F被告側が上告 女子高生ら5人刺殺」
  21. ^ a b 『朝日新聞』2003年12月18日朝刊第三社会面37面「最高裁、弁論実施へ 死刑判決の4被告」
  22. ^ a b 『読売新聞』2004年3月23日東京夕刊第二社会面18面「女子高生ら5人殺害 F被告、最高裁で弁論」
  23. ^ 『読売新聞』2004年6月15日東京夕刊第一社会面19面「女子高生と母、妹ら5人殺害 F被告の死刑確定へ」
  24. ^ 『読売新聞』2004年6月29日東京朝刊第三社会面37面「女子高生ら5人殺害 F被告の死刑確定 判決に訂正申し立てず」

書籍

参考文献[編集]

刑事裁判の判決文・決定文[編集]

  • 横浜地方裁判所刑事第2部判決 1988年(昭和63年)3月10日 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28175496(判決文本文は未収録)、昭和57年(わ)第1271号・昭和57年(わ)第1684号・昭和57年(わ)第1857号、『殺人,窃盗被告事件』。
  • 判決内容:死刑(求刑・同、被告人側控訴)
  • 裁判官:和田保(裁判長)
  • 東京高等裁判所第11刑事部決定 1992年(平成4年)1月31日 『高等裁判所刑事判例集』第45巻1号20頁、『判例タイムズ』第783号276頁、裁判所ウェブサイト掲載判例、昭和63年(う)第622号、『殺人,窃盗被告事件』「死刑判決を受けた被告人の控訴取下げが有効とされた事例」、”被告人の控訴取下げ当時、訴訟能力に欠けるところがなく、その動機が第一審の死刑判決の重圧による精神的苦痛から逃避するため、死刑になって早く楽になりたいということにあり、真意に出たものと認められる本件事情(判文参照)の下においては、右取下げは、有効である。”。
『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:27921242
  1. 第一審で死刑の判決を受けて控訴した被告人の控訴取り下げが訴訟能力の瑕疵及び錯誤がなく有効であると認められた事例。
  • 決定内容:控訴取り下げを「有効」と認定、訴訟終了宣言(弁護人側が異議申立、のちに特別抗告)
  • 裁判官:小泉祐康(裁判長)・秋山規雄・川原誠
  • 弁護人:岡崎敬・大西啓介(1991年12月18日付で意見書を連名作成)
  • 東京高等裁判所第12刑事部決定 1994年(平成6年)11月30日 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第49巻6号797頁、平成4年(け)第1号、『訴訟終了宣言決定に対する異議申立事件』。
『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:24006453
  • 決定内容:弁護人側の異議申立棄却(原決定支持・弁護人側は特別抗告)
  • 裁判官:円井義弘(裁判長)
  • 弁護人:岡崎敬・大西啓介(異議申立書・異議申立補充書を連名作成)
  • 最高裁判所第二小法廷決定 1995年(平成7年)6月28日 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第49巻6号785頁、『最高裁判所裁判集刑事』(集刑)第265号873頁、『裁判所時報』第1149号6頁、『判例時報』第1534号139頁、『判例タイムズ』第880号131頁、裁判所ウェブサイト掲載判例、平成6年(し)第173号、『訴訟終了宣言決定に対する異議申立て棄却決定に対する特別抗告事件』「死刑判決の言渡しを受けた被告人の控訴取下げが無効とされた事例」、”死刑判決の言渡しを受けた被告人が、その判決に不服があるのに、死刑判決の衝撃及び公判審理の重圧に伴う精神的苦痛によって精神障害を生じ、その影響下において、苦痛から逃れることを目的として控訴を取り下げたなどの判示の事実関係の下においては、被告人の控訴取下げは、自己の権利を守る能力を著しく制限されていたものであって、無効である。”。
  • 東京高等裁判所第11刑事部判決 2000年(平成12年)1月24日 『判例タイムズ』第1055号294頁、『高等裁判所刑事裁判速報集』(平成12年)号53頁、昭和63年(う)第622号、『殺人、窃盗被告事件』。
『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28065107
  1. 殺害された被害者の数が合計5名に及ぶ3件の殺人等の事案において、完全責任能力が肯定され、一審の死刑判決が維持された事例。
  2. 約8か月の間になされた3件5名に対する殺人につき、死刑を言い渡した原判決の量刑が相当とされた事例。
  • 判決内容:被告人・弁護人側の控訴棄却(原審の死刑判決支持・弁護人側上告)
  • 裁判官:荒木友雄(裁判長)・田中亮一・林正彦
  • 弁護人:岡崎敬・大西啓介(異議申立書・異議申立補充書を連名作成)
  • 最高裁判所第三小法廷判決 2004年(平成16年)6月15日 『最高裁判所裁判集刑事』(集刑)第285号457頁、『判例タイムズ』第1160号109頁、裁判所ウェブサイト掲載判例、平成12年(あ)第823号、『殺人、窃盗被告事件』。
『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28095644
  1. 窃盗の共犯者であった仲間を殺害し、女子高生とその母及び妹を殺害し、女子高生一家を殺害する際の共犯者であった仲間を殺害し、その他10回にわたって窃盗をした被告人に対し、原判決が維持した第一審判決の死刑の量刑が維持された事例。
『判例タイムズ』第1160号109頁
辻堂の女子高生一家3名殺害等事件-死刑の量刑が維持された事例
裁判所ウェブサイト掲載判例
 死刑の量刑が維持された事例(神奈川・兵庫の5人殺害事件)
  • 判決内容:被告人・弁護人側の上告棄却(原審の死刑判決支持・確定)
  • 最高裁判所裁判官:濱田邦夫(裁判長)・金谷利廣上田豊三藤田宙靖
  • 弁護人:岡崎敬・大西啓介(異議申立書・異議申立補充書を連名作成)
  • 「辻堂の女子高生一家3名殺害等事件 死刑の量刑が維持された事例(2004年6月15日 上告審判決)」『判例タイムズ』第1160巻、判例タイムズ社、東京都千代田区麹町三丁目2番1号、2004年12月1日、 109-111頁、2018年12月3日閲覧。

関連書籍[編集]

  • 遠藤允『○○の家―ある連続殺人事件の記録』講談社、1988年9月。ISBN 978-4061842847
    • 書籍名に死刑囚Fの氏名が使われているためその部分を伏字とする。
  • 年報・死刑廃止編集委員会『オウム死刑囚からあなたへ 年報・死刑廃止2018』インパクト出版会、2018年10月25日、253頁。ISBN 978-4755402883

関連項目[編集]

  • 奈良小1女児殺害事件闇サイト殺人事件 - 死刑判決を受けた被告人が控訴を自ら取り下げたため、弁護人が控訴取下げの無効を主張して裁判所に異議を申し立てたが認められず後に死刑が執行された事件。
  • ^ 年報・死刑廃止 2018.