藤木幸夫

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藤木 幸夫(ふじき ゆきお、1930年8月18日 - )は、日本の実業家藤木企業(株)代表取締役会長、横浜港運協会会長、横浜エフエム放送(株)代表取締役社長。株式会社横浜スタジアム取締役会長[1][2]1953年早稲田大学政治経済学部卒業。藤木企業の創業者である藤木幸太郎[3]の長男。

横浜港運協会会長のほかに、社団法人日本港運協会副会長、財団法人横浜港湾福利厚生協会会長などを務めている。

略歴[編集]

  • 1970年5月 - 藤木企業株式会社代表取締役社長
  • 1981年6月 - ポートサービス株式会社代表取締役会長(現職)
  • 1986年4月 - 株式会社横浜スタジアム取締役
  • 1986年6月 - 社団法人日本港運協会副会長(現職)
  • 1986年7月 - 社会福祉法人横浜市リハビリテーション事業団理事(現職)
  • 1988年4月 - 神奈川県野球協議会会長(現職)
  • 1992年6月 - 横浜エフエム放送株式会社代表取締役社長(現職)
  • 2000年4月 - 財団法人横浜市体育協会名誉会長(現職)
  • 2000年4月 - 株式会社横浜スタジアム取締役会長(現職)
  • 2003年2月 - 藤木企業株式会社代表取締役会長(現職)
  • 2008年3月 - 同社代表取締役会長(現職)[1]

著書[編集]

出演番組[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 株式会社横浜スタジアム第34期有価証券報告書(2011年4月28日提出、EDINETにて2011年12月7日閲覧)
  2. ^ “本拠地使用にハマスタ会長激怒「ホームレスになれ」”. MSN産経ニュース (産業経済新聞社). (2011年12月7日). http://sankei.jp.msn.com/sports/news/111207/bbl11120710380002-n1.htm 2018年5月17日閲覧。 
  3. ^ 藤木幸太郎は明治25年に現在の横浜戸部に生まれた港湾事業家。明治末に神戸から横浜に来た酒井信太郎(後の鶴酒藤兄弟会の創設者)が地元業者の縄張り意識から孤立した際に「港で働く人間はみんな仲間だ」と一人だけ酒井を助けたが、結果としてここから運を掴み、また京浜の港湾も新しい時代に入った。神奈川県大百科にも写真つきで人物の記事があり、執筆者の白井秀次による藤木幸太郎の伝記のタイトルは異称でもある『ミナトの親父』。息子の自叙伝のタイトルが『ミナトのせがれ』。 ちなみに大正期の京浜の荷役業ではナイガイの賭場から博徒がテラを取らないようにする目的もあり親方が博徒となった例がある。その後は元請けとの関係もあり、多くは堅気になっているのが昭和初期の京浜の特徴である。このため藤木幸太郎も埋地一家初代とされているが、藤田五郎の『任侠百年史』の任侠家系図p 415では埋地ではなく浅田大吉(横浜の大親分である松本辰三郎の系譜)の系統にある。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]