藤堂大蔵

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藤堂 大蔵(とうどう たいぞう、1876年3月13日 - 没年不詳)は、長い間浅野財閥の本社で支配人を務めた専門経営者である。

終戦時に日之出汽船(浅野財閥)の社長を兼務していたが、1948年(昭和23年)に息子の藤堂太郎に日之出汽船社長の座を譲った。財閥解体によって藤堂家は同社のオーナーになった。

概要[編集]

藤堂大蔵は旧久居藩家老三重県士族)藤堂八座の長男として、1876年(明治9年)3月13日に生まれる。新撰組隊士の藤堂平助は兄ともされる。

1899年(明治32年)に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業して[1]台湾銀行(あるいは横浜正金銀行[2][3])に就職し香港上海の支店長を務めたが[4]、転職して1914年(大正3年)8月に第五銀行(日本昼夜銀行の前身)の支配人に就任した[5]

1918年(大正7年)には日本昼夜銀行から改称した浅野昼夜銀行の、取締役兼支配人を務めたが[1]、同年に新設された浅野同族会社(浅野財閥の本社)に移り、北米とメキシコを視察した[4]。1929年(昭和4年)には浅野同族会社の支配人と浅野財閥各社の重役を務めた[2]

1932年(昭和7年)には浅野同族の支配人兼総務部長になった[6]

1934年(昭和9年)には浅野同族の支配人と日之出汽船・相模鉄道・順安砂金・浅野雨龍炭鉱・浅野石材工業・信越木材・千代田石油の取締役と鉄筋コンクリート・浅野石炭部の監査役を兼任した[7]。1937年(昭和12年)に浅野同族の支配人兼総務部長と、順安砂金の代表取締役、鶴見製鉄造船・千代田石油・日之出汽船・相模鉄道・信越木材・浅野石材工業・朝鮮鉄山の取締役、浅野雨龍炭鉱・鉄筋コンクリートの監査役を務めた[8]

1941年(昭和16年)には浅野同族の支配人と日之出汽船・順安砂金の社長、浅野雨龍炭鉱・琿春砂金の常務取締役、信越木材・浅野ビル・鶴見製鉄造船の取締役、関東水力電気小倉築港・鉄筋コンクリート・日向興業(朝鮮鉄山の後身)の監査役を兼任した[9]

1943年(昭和18年)に浅野同族の支配人と日之出汽船・順安砂金の社長、浅野雨龍炭鉱・琿春砂金の常務取締役、日之出産業・浅野ビル・鶴見製鉄造船の取締役、関東電気興業(関東水力電気の後身)・小倉築港・鉄筋コンクリート・日向興業の監査役を兼任した。

1944年(昭和19年)7月から1946年(昭和21年)12月まで株式会社浅野本社(浅野同族の後身)の監査役を務めた[10]

終戦時には日之出汽船の社長を兼務していたが、1948年(昭和23年)に長男の藤堂太郎を社長に据えた(藤堂太郎は1940年(昭和15年)に慶応大学を卒業して、浅野財閥の日本鋼管(JFE)に就職したが、1942年(昭和17年)には日之出汽船に転じ、1948年(昭和23年)に常務になっていた[6]。)。

財閥本社と財閥家族が所有した株式は、財閥解体の際に、まず該当企業の役職員に売却されたので、藤堂一族は1956年(昭和31年)には日之出汽船の約14%の株式を保有するオーナー経営者となっていた[11]

家族[編集]

  • 父  八座 三重県士族
  • 母  しま 三重県士族山本忠兵衛の五女
  • 妻  小相 三重県士族国松英太郎の長女
  • 長男 太郎 1916年(大正5年)3月生[1]
  • 三男 三郎 1920年(大正9年)10月生、慶応大学在学[12]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 人事興信所、1918年
  2. ^ a b 帝国興信所、338-339頁
  3. ^ 小早川、64頁
  4. ^ a b 中外産業調査会、217-218頁
  5. ^ 齋藤、88頁
  6. ^ a b 菊地、55頁
  7. ^ 人事興信所、1934年
  8. ^ 西野入、65頁
  9. ^ 人事興信所、1941年
  10. ^ 国立公文書館、8頁
  11. ^ 菊地、35-37頁
  12. ^ 人事興信所、1943年

参考文献[編集]