二条為氏

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二条 為氏
時代 鎌倉時代中期
生誕 貞応元年(1222年
死没 弘安9年9月14日1286年10月3日
改名 為氏→覚阿(法名)
別名 藤原為氏
官位 正二位、権大納言
主君 後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇後宇多天皇
氏族 藤原北家長家流御子左家
父母 父:藤原為家、母:宇都宮頼綱の娘
兄弟 為氏為教為顕為相為守
飛鳥井教定の娘、藤原重名の娘
為世為雄為実為言
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二条 為氏(にじょう ためうじ)は、鎌倉時代中期の公卿歌人藤原北家御子左家嫡流で、権大納言藤原為家の長男。和歌の家である二条家(二条派)の祖。

生涯[編集]

嘉禄2年(1226年)叙爵。侍従左少将・左中将を歴任し、建長2年(1250年蔵人頭建長3年(1251年)に参議として公卿に列し、累進して正二位・権大納言に至った。父為家に和歌の指導を受け、大覚寺統に近侍して歌壇で大きな力を持った。

正統な御子左家(二条家)の当主であったが、相続に関連して弟の為教為相(継母は阿仏尼)と不和になったため、京極家冷泉家という別家ができた。

弘安8年(1285年)8月に出家し、法名を覚阿と称した。弘安9年(1286年)9月14日薨去、享年65。阿仏尼と播磨国細川荘(現在の兵庫県三木市)の領有を巡って訴訟があり、鎌倉に下向してその地で没したと推定される。

人物[編集]

寛元元年(1243年)『河合社歌合』以下、多くの歌合に出詠し、また『宝治御百首』『弘長百首』などを詠進する。亀山上皇の信任が篤く、その勅を受けて弘安元年(1278年)に『続拾遺和歌集』を奏覧した。他にも『続後撰和歌集』以下の勅撰和歌集への200首以上の入首を始めとして、宇都宮二荒山神社へ奉納された『新式和歌集』(宇都宮氏とその関係者の詠歌を集めたもの)以下の私撰和歌集にも多くの和歌が残る。その歌風は平明優艶と評される。『大納言為氏集』は、為氏と長男為世の詠歌を集めた後世の他撰集。連歌も能くした。文永7年(1270年)10月~12月の自筆日記「為氏卿記」が冷泉家時雨亭文庫に蔵されている。

同時代の他の公卿の日記によれば、為氏は廷臣としても甚だ有能だったらしく、公事に精勤している様子がわかる。また、若年期からしばしば外祖父の本拠地である下野国宇都宮に下向し、関東武士とも親交を結んだという。

系譜[編集]

    • 養子:源承 - 実は藤原為家の子、法眼
    • 養子:慶融 - 実は藤原為家の子、法眼

参考文献[編集]

  • 平野邦雄・瀬野精一郎編『日本古代中世人名辞典』吉川弘文館、2006年

脚注[編集]

  1. ^ 「御子左系図」(『続群書類従』巻第148所収)

関連項目[編集]

  • 十六夜日記 - 執筆の背景には阿仏尼と為氏の争いがある。