藤原景清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
歌川国芳画『耀武八景 大寺晩鐘 悪七兵衛景清』

藤原 景清(ふじはら の かげきよ、? - 建久7年(1196年)?)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武士藤原忠清の子。

略歴[ソースを編集]

平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓平景清とも呼ばれているが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏伊藤氏)で、伊藤景清ともいう。通称、上総七郎(上総介忠清の七男であるため)。信濃守1180年)、兵衛尉。「悪七兵衛」(あくしちびょうえ)の異名を持つほど勇猛であった。

平安末期における治承・寿永の乱(源平合戦)において活躍した。『平家物語』巻十一「弓流」において、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ)を素手で引きちぎったという「錣引き」が特に有名である。壇ノ浦の戦いで敗れた後に捕られ、一説には預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれる。

「悪七兵衛」の「悪」は悪人という意味ではなく、「悪党」と同様に勇猛さを指すものとされるが、壇ノ浦の敗戦後に自分を匿った叔父の大日房能忍を疑心暗鬼にかられて殺害してしまったためにそう呼ばれるようになったとの伝承もある。ただし近年は能忍の死因は病死または事故死とする説が有力。

実在したとはいえ生涯に謎の多い人物であるため、いわゆる平家の落人として扱われる事は少ないが、各地に様々な伝説が残されている。このためか各種の創作において主人公としてよく取り上げられている。

吾妻鏡』の記述によれば、景清には兄がいて、上総五郎兵衛尉忠光といい、鎌倉二階堂の永福寺の造営中、源頼朝を暗殺しようと土工にまぎれこむも、怪しまれて捕まっている。

逸話・伝承[ソースを編集]

伝承によれば、名刀と言われるあざ丸の所有者であったという。「あざ丸」の「あざ」は、景清がこの刀に映った自身の顔を見た際、顔のあざが見えた事に由来するという[1]

各地の景清伝説[ソースを編集]

滋賀県東近江市内の景清道

景清物[ソースを編集]

古典芸能において、「景清」または「何某誰々実ハ景清」が登場する作品を、一括して景清物(かげきよ もの)と呼ぶ。

脚注[ソースを編集]

関連項目[ソースを編集]