藤原文脩

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藤原文脩
時代 平安時代中期
生誕 不詳
死没 年不詳2月3日?または寛仁2年3月3日1018年3月22日[1]または万寿2年2月15日1025年3月17日[2]
別名 文條(文条)、文修
神号 若宮八幡宮[2]
戒名 安蔵寺殿野州大守清山光国大禅定門[2]
墓所 栃木県佐野市吉水町の清水安蔵寺[2]
官位 従五位下鎮守府将軍下野国押領使
主君 一条天皇
氏族 藤原北家秀郷流
父母 父:藤原千常、母:源通の娘[3]
兄弟 文脩千方
藤原利仁の娘?
文行兼光、条方
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藤原 文脩(ふじわら の ふみなが)は、平安時代中期の軍事貴族。名は文條(文条)、文修とも。鎮守府将軍藤原千常の子。藤原秀郷の孫。佐藤氏小山氏足利氏を始めとする秀郷藤原氏の祖系に属する人物の一人。

経歴[編集]

下野国押領使内舎人を経た後、摂政藤原兼家60歳の賀料として皇太后宮詮子に任料を納めた結果、永延2年(988年10月3日臨時除目鎮守府将軍に補任された[4]。時に従五位下。このことから文脩は摂関家を本主として仰いでいたと考えられる。長保3年(1001年)2月には藤原行成に馬1疋を送っており、これは為尊親王へ献上された[5]。某年2月3日に卒去したという[1]

鎌倉時代初期に成立した『二中歴』には、「一能歴」の武者・勢人の各項に「文脩将軍」の名が挙げられており、彼が名高い軍事貴族であったのみならず、本拠の下野で培った経済力を背景として大いに勢威を誇ったことが窺える。文脩の妻が藤原利仁の女であったとする系図の記事は、世代が整合しないためにそのまま信用する訳にはいかないものの、秀郷流藤原氏が坂東における利仁の地位・地盤を継承したことの反映として解釈する向きもある。

なお、南北朝時代に成立した播磨国地誌峰相記』によると、天徳年間に播磨揖保郡で勇健な武士が賊徒を従え、年貢官物の輸送や旅人の往還を妨げたため、「文修将軍」が播磨に派遣されてこれらを誅罰することに成功し、この功により同国の押領使を給わったという。この逸話を裏付ける史料は何もないが、都の軍事貴族として内舎人の経歴を有した文脩が、将軍補任より前に地方の賊徒平定に起用され、押領使に任じられたこと自体は史実とみて特に不自然な点はない。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『小山系図』(『続群書類従』所収)。『川村氏系図』は寛仁2年3月3日1018年3月22日)卒、63歳とする。
  2. ^ a b c d 『田原族譜』第4版 山士家左伝
  3. ^ a b 系図纂要』。『結城系図』(『続群書類従』所収)は「侍従源道女」、『川村氏系図』は「藤原常佐女」とする。
  4. ^ 小右記』同日条、『類聚符宣抄』8。『結城系図』は永延3年(989年1月10日とする。
  5. ^ 権記』長保3年2月12日

出典[編集]

  • 大日本史料
  • 石垣宏 「川村氏系図・黒印状・知行目録」(『伊寺水門』第5集 石巻市図書館、1982年3月、NCID BN0618121X
  • 槙野広造編 『平安人名辞典―長保二年』 高科書店、1993年、NCID BN08807071
  • 野口実 『伝説の将軍 藤原秀郷』 吉川弘文館、2001年、ISBN 9784642077798
  • 山士家左伝 編 『田原族譜』東明会、1883年9月。 NCID BA85281841https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780477