薩た峠の戦い (南北朝時代)

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薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい、薩埵山の戦いとも)は、南北朝時代1351年正平6年/観応2年)12月、駿河国薩埵峠静岡県静岡市清水区)において、足利尊氏の軍勢と足利直義の軍勢との間で行われた合戦である。

概要[編集]

現在の薩埵峠からの眺望(駿河湾越しに富士山2016年

観応の擾乱により、北朝は足利尊氏派と足利直義派に分裂した。直義派による高師直高師泰兄弟の謀殺後も対立は止まらず、1351年(正平6年/観応2年)直義は桃井直常斯波高経山名時氏をはじめ自派の武将を伴って京都を脱出し、北陸信濃を経て鎌倉へ至る。

尊氏は南朝と和睦して後村上天皇から足利直義・足利直冬追討令を得た上で、足利義詮を京都に残し、仁木頼章仁木義長畠山国清らを伴って東海道を東進した。直義は、上杉憲顕石塔義房石塔頼房らの軍勢とともに西進。両軍は、東海道の難所である駿河国薩埵峠で合戦となった。

11月30日、尊氏は3000の兵力で由比の薩多山に自陣した。これに対し、鎌倉に逃れていた直義は10000の兵を率い、三島の伊豆国府に本陣を置いて敵対した。尊氏は宇都宮氏綱などの関東諸氏と合流するつもりであったが、直義軍は山麓を包囲して合流を警戒し、尊氏軍は山上から応戦した。さらに直義は直常に命じて宇都宮を討たせるべく、10000の兵を上野に派遣した。12月15日、氏綱は3000の兵で巧みに戦い直常を破ると、その後軍勢を数万に増やして27日には箱根竹ノ下に到着した。直義軍は兵が潰走し、翌1352年(正平7年/観応3年)1月2日相模国の早河尻での決戦でも敗北。1月5日に降伏し尊氏は鎌倉に入った。

この後、直義は大蔵浄妙寺の延福寺に幽閉され、2月26日に急死した。病死とされている。この日は高師直の1周忌にあたり、『太平記』は尊氏による毒殺であると記している。

関連項目[編集]