蔵王山神社

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蔵王山神社
Zao shrine.jpg
所在地 山形県山形県山形市大字上宝沢2762-1
位置 北緯38度08分37秒
東経140度26分22秒
主祭神 須佐之男命
創建 伝 慶雲5年(708年
例祭 7月第2日曜日
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1976年度(昭和51年度)撮影の国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
写真左上の熊野岳山頂に蔵王山神社がある。
そのほか、写真中央に御釜(五色沼)があり、その東側に五色岳がある。これらを東側が開いたC形の外輪山が囲む。南側の外輪山の刈田岳頂上には「蔵王」の名称の由来となった刈田嶺神社(奥宮)、および、蔵王レストハウスなどがある。

蔵王山神社(ざおうさんじんじゃ)は、山形県山形市上宝沢の蔵王連峰主峰である熊野岳山頂(標高1,841m)にある神社である。祭神は須佐之男命

山形市蔵王温泉を見下ろす「瀧山」、蔵王温泉内にある「酢川神社」(酢川温泉神社)とともに三社一宮をなしている。

歴史[編集]

680年天武天皇9年)、奥羽山脈宮城県側の不忘山に「権現社」が建立され、690年持統天皇4年)に、役小角という行者吉野金峯山寺から金剛蔵王大権現を勧請して、宮城県側の刈田岳山頂に祀った(「蔵王大権現社」。後の刈田嶺神社(奥宮)および刈田嶺神社(里宮))。これ以降、修験道修行の場となった当地の奥羽山脈は「蔵王山」と呼ばれるようになった。

「蔵王山」の山形県側では708年、当社の前身である「熊野神社」が熊野岳に建立された。熊野修験の信者からは、吉野・大峰山に対して「東のお山」と呼ばれている。熊野神社には、後年熊野権現白山権現も勧請されている。

712年には、山形市下宝沢に「三乗院」が作られて山岳修験の拠点となり、承和年間中(834年847年)に、酢川神社が作られ、851年慈覚大師が「瀧山」(りゅうざん)を開山した。これ以降、当社は、瀧山(本宮)、酢川神社(口ノ宮)、熊野神社(離宮)の三社一宮となった。三社一宮は、熊野信仰の特徴である。

後に、瀧山の周辺には300坊と呼ばれるほどの宿坊が立ち並び、蔵王修験の中心となった。

1952年昭和27年)、熊野神社から蔵王山神社へと改名された。

瀧山に関しては蔵王権現と切り離し、「瀧山信仰」であったとする論もあるが、現在も続いている瀧山の例大祭は、蔵王山神社と瀧山閉山後に遷座した瀧山神社が合同で行っている。また、毎年の山開きの日には、蔵王山神社の氏子、刈田嶺神社の氏子双方が、刈田峠駐車場に集い、共に山の安全祈願を行っている。

社殿[編集]

木製の鳥居とトタン葺きのささやかなお宮が存在し、お宮の周りを石垣で固めている。

補足[編集]

  • 現在山形県県庁所在地である山形市は、蔵王連峰の麓にあるため、「山方」と呼ばれていた。さらに、「山方」はさらに細かく「下山方」、「上山方」に分けられ、後に、「下山方」が山形、「上山方」が上山になった。
  • 三社一宮ではあるが、瀧山は閉山されて久しく蔵王山神社は山頂にあるため、酢川温泉神社(祭神:大国主命少彦名命、須佐之男命、軻遇突智神)が三社の管理を行っている。瀧山山頂にもささやかな神社がある。
  • 瀧山は、北条時頼の不興をかったため閉山を命ぜられた。その後、山麓に移転し、もともと瀧山の1坊であった岩波の天台宗新福山石行寺(本尊:十一面観音菩薩、別名:岩波観音)、そこから分かれた天台宗医王山瀧山寺、瀧山神社(祭神:木花咲耶姫)として現存している。瀧山寺境内には、巨大な蔵王山板碑がある。山形市内には、いくつか瀧山を遥拝する石鳥居が残されており、往時の繁栄をしのぶことが出来る。元木の石鳥居もその一つとされる。
  • 蔵王修験の拠点となった下宝沢には、今でも個人宅(上述「三乗院」の末裔)に「木造蔵王権現立像」が現存している。毎年8月3日、山形花笠祭りの前夜祭に合わせ、「木造蔵王権現立像」を蔵王温泉の酢川温泉神社に遷座している。この日、蔵王温泉では「蔵王温泉夏祭り」が開催される。
賽の河原の蔵王寺
  • 蔵王エコーラインを宮城側に少し下った通称「賽の河原」には、単立寺院である「金峰山蔵王寺(延命地蔵尊)」があり、役小角による創建であるとしている。実際には、神仏分離によって刈田嶺神社から切り離され廃された寺を、1953年昭和28年)に賽の河原に復興したものである。遠刈田温泉内に蔵王寺別院を置いている。

関連項目[編集]

周辺[編集]