蔦 (樅型駆逐艦)

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Japanese patrol boat No35.jpg
1940年、呉で撮影された第35号哨戒艇(旧「蔦」)[1]
艦歴
計画 1918年度[2]
起工 1920年10月16日[2]
進水 1921年5月9日[2]
就役 1921年6月30日[2]
その後 1940年4月1日哨戒艇編入、第三十五号哨戒艇と改名[3]
1941年高速輸送艦に改造[2]
1942年9月2日空爆で沈没[2]
除籍 1943年2月10日[2]
性能諸元(計画)
排水量 基準:公表値 770トン
常備:850.00トン
全長 全長:290 ft 0 in (88.39 m)
水線長:280 ft 0 in (85.34 m)
垂線間長:275 ft 0 in (83.82 m)
全幅 26 ft 0 in (7.92 m)または7.93m
吃水 8 ft 0 in (2.44 m)
深さ 16 ft 3 in (4.95 m)
推進 2軸 x 400rpm
直径 8 ft 6 in (2.59 m)、ピッチ3.378m
または直径2.565m、ピッチ3.353m
機関 主機:ブラウン・カーチス式オールギアードタービン(高低圧) 2基[4]
出力:21,500shp
ボイラー:ロ号艦本式缶(重油専焼) 3基
速力 36ノット
燃料 重油240トン
航続距離 3,000カイリ / 14ノット
乗員 計画乗員 107名[5]
竣工時定員 110名[6]
兵装 45口径三年式12cm砲 単装3門
三年式機砲 2挺
53cm連装発射管 2基4門
魚雷8本
搭載艇 内火艇1隻、18ftカッター2隻、20ft通船1隻
備考 ※トンは英トン

(つた)は、大日本帝国海軍駆逐艦で、樅型駆逐艦の14番艦である。同名艦に橘型駆逐艦の「」があるため、こちらは「蔦 (初代)」や「蔦I」などと表記される。

艦歴[編集]

1920年大正9年)10月16日、神戸川崎造船所で起工[7]1921年(大正10年)5月9日午前7時30分進水[8]。同年6月30日竣工[7]

1937年昭和12年)から1938年(昭和13年)まで、日中戦争において華北沿岸の作戦に参加した[2]

1940年(昭和15年)4月1日、哨戒艇に類別変更。第三十五号哨戒艇に改称。

太平洋戦争において南方で海上護衛、哨戒作戦に従事[2]1942年(昭和17年)9月2日、ニューギニア輸送作戦中、ビコリア島北東で米軍機の空爆により沈没[2]1943年(昭和18年)2月10日に除籍。

艦長[編集]

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

艤装員長
  • 斎藤直彦 少佐:1921年4月30日[9] -
駆逐艦長
  • 斎藤直彦 少佐:1921年7月1日[10] - 1921年12月1日[11]
  • 大熊政吉 少佐:1921年12月1日 - 1922年12月1日
  • 郷田喜一郎 少佐:1922年12月1日[12] - 1923年6月1日[13]
  • 竹下志計理 少佐:1923年6月1日 - 1923年10月15日
  • 佐倉武夫 少佐:1923年10月15日 - 1924年5月10日
  • 五藤存知 少佐:1924年5月10日 - 1925年12月1日
  • 多田武雄 少佐:1925年12月1日 - 1926年4月20日
  • 大藤正直 少佐:1926年4月20日[14] - 1926年12月1日[15]
  • 宮武重敏 少佐:1926年12月1日[15] - 1928年12月10日[16]
  • 早川幹夫 少佐:1928年12月10日 - 1929年11月30日
  • 勝原満好 少佐:1929年11月30日[17] - 1930年12月1日[18]
  • (兼)村上暢之助 少佐:1930年12月1日 - 1931年11月2日
  • (兼)佐々木丙二 大尉:1931年11月2日[19] - 1931年12月1日[20]
  • 浜野元一 少佐:1931年12月1日[20] - 1932年3月10日[21]
  • 小山猛男 大尉:1932年3月10日[21] - 1933年11月1日[22]
  • 成冨武光 大尉:1933年11月1日[22] - 1935年11月15日[23]
  • (兼)宇垣環 少佐:1935年11月15日[23] - 1936年5月26日[24]
  • (兼)愛甲文雄 大尉:1936年5月26日[24] - 1936年12月1日[25]
  • (兼)上杉義男 少佐:1936年12月1日[25] - 1937年4月6日[26]
  • 上杉義男 少佐:1937年4月6日[26] - 1937年11月15日[27]
  • 青木久治 少佐:1937年11月15日[27] - 1938年2月21日[28]
  • 岩上次一 少佐:1938年2月21日 - 1938年12月1日
  • (兼)山下達喜 少佐:1938年12月1日[29] - 1939年2月20日[30]

脚注[編集]

  1. ^ #日本海軍全艦艇史下巻p.847、No.2660の写真解説
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本海軍史』第7巻、302頁。
  3. ^ #日本海軍全艦艇史 資料編「主要艦艇艦歴表」12頁。
  4. ^ #帝国海軍機関史下巻pp.589-590(四八五-四八六頁)
  5. ^ #一般計画要領書p.16、士官6名、特務士官3名、下士官26名、兵72名
  6. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.601-602、『大正八年六月十日(内令一八二) 海軍定員令中左ノ通改正セラル 二三等驅逐艦定員表ヲ附表ノ通改ム | 第六十表 | 二三等驅逐艦定員表 |(詳細、備考略) |』將校、機關將校6人、特務士官准士官3人、下士26人、卒75人
  7. ^ a b #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1074-1075、昭和3年2月14日附内令第34号、艦船要目公表範囲。
  8. ^ #T10公文備考24艦船1/駆逐艦蔦、葦製造一件(2)画像14『大正十年五月九日(中略)驅逐艦蔦今朝七時三十分無事進水致シマシタ』
  9. ^ 『官報』第2623号、大正10年5月2日。
  10. ^ 『官報』第2676号、大正10年7月2日。
  11. ^ 『官報』第2801号、大正10年12月2日。
  12. ^ 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
  13. ^ 『官報』第3251号、大正12年6月2日。
  14. ^ 『官報』第4095号、大正15年4月21日。
  15. ^ a b 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
  16. ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
  17. ^ 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
  18. ^ 『官報』第1179号、昭和5年12月2日。
  19. ^ 『官報』第1455号、昭和6年11月4日。
  20. ^ a b 『官報』第1478号、昭和6年12月2日。
  21. ^ a b 『官報』第1557号、昭和7年3月11日。
  22. ^ a b 『官報』第2053号、昭和8年11月2日。
  23. ^ a b 『官報』第2663号、昭和10年11月16日。
  24. ^ a b 『官報』第2818号、昭和11年5月27日。
  25. ^ a b 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
  26. ^ a b 『官報』第3076号、昭和12年4月7日。
  27. ^ a b 海軍辞令公報 号外 第91号 昭和12年11月15日付』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500 
  28. ^ 海軍辞令公報 号外 第140号 昭和13年2月21日付』 アジア歴史資料センター Ref.C13072073400 
  29. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第267号 昭和13年12月1日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074700 
  30. ^ 海軍辞令公報(部内限)第303号 昭和14年2月20日』 アジア歴史資料センター Ref.C13072075400 

参考文献[編集]

  • 『海軍制度沿革 巻十の1』明治百年史叢書 第182巻、海軍省/編、原書房、1972年4月(原著1940年)。
  • 『海軍制度沿革 巻十一の2』明治百年史叢書 第185巻、海軍省/編、原書房、1972年5月(原著1941年)。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊銘銘伝』光人社、1993年。
    • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
  • 『日本駆逐艦史』世界の艦船 1992年7月号増刊 第453集(増刊第34集)、海人社、1992年ISBN 4-905551-41-2
  • 日本舶用機関史編集委員会/編 『帝国海軍機関史』明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月
  • 福井静夫 『写真 日本海軍全艦艇史』 ベストセラーズ、1994年ISBN 4-584-17054-1
  • 「二等駆逐艦及水雷艇 一般計画要領書 附現状調査」。

関連項目[編集]