蔣琬 (明)

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蔣 琬(しょう えん、1433年 - 1487年)は、明代軍人は重器、は筠清。本貫揚州府江都県

生涯[編集]

蔣義の子として生まれた。1449年正統14年)1月、祖父の蔣貴が死去した。父の蔣義は病のため後を嗣ぐことができず、10月に蔣琬が定西侯の爵位を嗣いだ。1462年天順6年)冬、侍衛として宮中での宿直を命じられた。1464年(天順8年)、平羌将軍の印を受け、総兵官として甘粛に駐屯した。甘州沙河に諸屯堡を築いた。

1472年成化8年)、蔣琬は北京に召還され、協守南京となり、提督操江を兼任した。1474年(成化10年)、入朝して十二団営を監督した。ほどなく神機営の兵の統括を兼任した。北京の外城城壁の整備を求める上奏をおこなった。また豪右による良田の侵奪を厳禁するよう上奏した。1477年(成化13年)、京軍を率いて大同宣府で秋の侵入警戒にあたった。時宜十数事を上奏し、いずれも成化帝に聞き入れられた。1479年(成化15年)、汪直とともに遼東の辺事を調査した。

1484年(成化20年)、克失と小王子が国境近くで遊牧すると、蔣琬は京営の兵を率いて警戒にあたった[1]。克失と小王子が撤退すると、軍を返した。太保・兼太子太傅の位を加えられた。1487年(成化23年)8月、死去した。享年は55。涼国公の位を追贈された。は敏毅といった。著書に『筠清軒集』10巻・『奏議』2巻・『雑文』1巻があった。

子の蔣驥が定西侯の爵位を嗣いだ。

脚注[編集]

  1. ^ 談遷国榷』巻40

参考文献[編集]

  • 明史』巻155 列伝第43
  • 太保兼太子太傅掌左軍都督府事定西侯追封涼国公諡敏毅蔣公墓誌銘(程敏政『篁墩文集』巻44所収)