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葉名琛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
葉名琛

葉 名琛(しょう めいちん、拼音: Yè Míngchēn1807年12月21日嘉慶12年11月23日) - 1859年4月9日咸豊9年3月7日))は、の官僚。字は崑臣[1]アロー戦争が勃発したときの両広総督だったが、外交に無知であり、それを学ぼうともしなかった[1]。最後は英仏連合軍に捕らえられ、インドのカルカッタで死去した[1]

略歴

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湖北省漢陽出身[1]。父は葉志詵[1]1835年進士となり、1838年陝西省漢中の知府となった[1]。その後山西雁平道、雲南按察使湖南布政使江寧布政使、広東布政使を歴任し、1847年に広東巡撫に昇進した。当時の清朝では朝野ともに排外的な雰囲気が高揚してきており、最強硬派であった葉名琛は重用され、1852年には両広総督に昇進した。またこの年には凌十八の蜂起を鎮圧している。1854年には陳開李文茂周春陳金釭らが率いる天地会の蜂起軍に広州を包囲されるが、これを撃退し、数万人を処刑した。1855年には両広総督に協弁大学士体仁閣大学士を兼ねた。

1856年10月8日、アロー号事件が発生するとイギリス領事ハリー・パークスが抗議した[1]。アロー号の船籍登録は香港で行われ、イギリスの国旗を掲げる権利があったが、事件の11日前に登録の期限が過ぎていた[1]。もっとも、葉名琛など清の官僚はこれを知らないまま[1]、強硬な態度をとってイギリスと妥協しなかった。これにより事態はアロー戦争へと発展していった。イギリス軍は10月27日に広州を砲撃したが、人数が少なかったためにすぐに撤退した。葉名琛は大勝利を収めたと朝廷に上奏し、広州市民に各国の商館と貿易会社を焼き討ちさせた。

1857年、パークスは大軍を要請し、9月にはイギリス・フランス連合軍が広東に到達した。12月28日、連合軍は広州への砲撃をはじめ、翌日に入城した[1]。1858年1月5日、葉名琛は捕らえられ、香港のイギリス軍艦に連行された。当時の人々は葉名琛を六不総督、すなわち「戦わず・和さず・守らず・死なず・降らず・逃げず」こんな人物は古来官僚にはいなかったとそしった[1]

2月23日、軍艦は香港を離れ、葉名琛はインドのカルカッタに幽閉された[1]。葉名琛は自らを「海上の蘇武」と称し、1859年に絶食して、同年4月9日に餓死した。

清代名人伝略英語版』(1943年)は葉名琛が「運よく科挙に合格して、責任のある地位にありついたが、不適任である」と評した[1]。また、強硬派の林則徐も弱腰のキシャンも失脚したことから、葉名琛が折衷しようとしたが、結果としてはただの無策だったとも評した[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n Tu, Lien-che (1943). “Yeh Ming-ch'ên” . In Hummel, Arthur William (ed.). en:Eminent Chinese of the Ch'ing Period  (英語). Vol. 2. Washington D.C.: Library of Congress. pp. 904–905. ウィキソースより閲覧.

関連項目

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外部リンク

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公職
先代
徐広縉
広東巡撫
1847年 – 1852年
次代
柏貴
先代
徐広縉
両広総督
1852年 – 1858年
次代
黄宗漢