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菊麿王妃範子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
菊麿王妃 範子
山階宮
山階宮菊麿王妃範子

身位 王妃
敬称 殿下
出生 1878年12月4日
死去 (1901-11-11) 1901年11月11日(22歳没)
日本の旗 日本東京府東京市
埋葬 1901年11月17日
豊島岡墓地
配偶者 山階宮菊麿王
子女 武彦王
芳麿王
安子女王
父親 九条道孝
母親 野間幾子
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菊麿王妃 範子(きくまろおうひ のりこ、1878年明治11年〉12月4日 - 1901年明治34年〉11月11日)は、日本皇族山階宮菊麿王の先妃。旧摂家九条道孝公爵の次女で、貞明皇后の同母姉。

略歴

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1895年(明治28年)9月14日、菊麿王と結婚[1]。菊麿王との間に武彦王芳麿王安子女王を儲けた。

1901年(明治34年)10月31日に第3子安子女王を出産するも、胎盤離脱困難と出血により急性脳貧血に陥る[2]11月1日午後8時頃より発熱(産褥熱)し、11月9日に脳症を併発すると、11月11日午前5時10分に心臓麻痺により薨去した[2][3]。薨去に先立つ11月9日、勲一等宝冠章を授与されている[4]

11月16日午前10時に、明治天皇皇后美子の御使として、宮内書記官の丹羽龍之助が山階宮邸へ遣わされ幣帛神饌を供する[5]

11月17日午前9時、明治天皇の代拝として侍従の廣幡忠朝、皇后の代拝として権掌侍の北島以登皇太子嘉仁親王の代拝として東宮侍従の大迫貞武皇太子妃節子の代拝として東宮女官の吉見光子が、それぞれ山階宮邸に遣わされた[6]

午後1時に、山階宮邸を出棺し東京都文京区豊島岡墓地で葬儀が行われる[6]

午後2時、明治天皇より侍従の廣幡忠朝、皇后より皇后宮亮の山内勝明、皇太子より東宮侍従の大迫貞武、皇太子妃節子[注釈 1]より東宮職御用掛の錦小路在明が、それぞれ墓所に遣わされて玉串を供えた[6]。午後5時30分に葬儀が終了した[6]

栄典

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脚注

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注釈

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  1. ^ 範子妃の実妹、後の貞明皇后。当時は4月29日に迪宮裕仁親王を出産した後、精神的に落ち込んだ状態のまま第2子懐妊中であった(本人の項を参照)。

出典

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  1. ^ 明治28年宮内省告示第13号(明治28年法令全書)(NDLJP:787997/403
  2. ^ a b 『官報』号外「宮廷録事」、明治34年11月11日(NDLJP:2948809/26
  3. ^ 明治34年宮内省告示第14号(『官報』号外、明治34年11月11日)(NDLJP:2948809/26
  4. ^ 『官報』号外、明治34年11月11日(NDLJP:2948809/26
  5. ^ 『官報』第5514号「宮廷録事」、明治34年11月18日(NDLJP:2948815/2
  6. ^ a b c d 『官報』第5515号「宮廷録事」、明治34年11月19日(NDLJP:2948816/3
  7. ^ 『官報』第3741号「叙任及辞令」、明治28年12月16日(NDLJP:2947017/3
  8. ^ 『官報』号外「叙任」、明治34年11月11日(NDLJP:2948809/26