菅野佐世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Jump to navigation Jump to search

菅野 佐世(すがの の すけよ、延暦21年(802年) - 元慶4年5月28日880年7月9日)は、平安時代前期の貴族儒学者氏姓は御船宿禰のち菅野朝臣百済渡来人王辰爾の後裔。官位従五位上摂津権守

経歴[編集]

文徳朝斉衡2年(855年従五位下に叙せられる。翌斉衡3年(856年)助教に任ぜられるたのち、明経道学者として清和朝において大学助・大学博士などを歴任する一方、備後権介越前権介など地方官も務めた。またこの間の貞観5年(863年)には、同族の皇太后宮大進御船彦主内蔵少属・御船氏柄ら男女6人とともに菅野朝臣に改姓し、貞観10年(868年)従五位上に叙せられている。なお、佐世は儒学者として、以下の活動を行ったことが『六国史』に記載されている。

  • 天安2年(858年)釈奠において座主を務める[1]
  • 貞観6年(864年)釈奠において尚書の題を発した[2]
  • 貞観13年(871年太皇太后藤原順子葬儀に際して、天皇祖母である太皇太后のに服すべき期間について疑義が生じて決定できなかったために、儒者たちに議論させたが、佐世は大学博士として、助教・善淵永貞とともに、中国故事に基づき葬儀が終わればただちに服喪を終わらせるべきである旨を言上[3]
  • 同年、応天門の変による焼亡から修復した応天門の改名の是非、応天門・朱雀門羅城門の名称の由来について、明経博士文章博士らに議論が命じられた際、佐世は大学博士として、助教・善淵永貞とともに、中国の故事に基づきの三門(庫門・雉門・路門)が日本の三門(応天門・朱雀門・羅城門)に該当すること、魯では天災で三門が焼失した際も改名していないことから人災により焼失した応天門の名を改める必要がないこと、応天・朱雀・羅城の名称は経典にも記載がないことの旨を言上[4]
  • 貞観17年(875年清和天皇が『群書治要』を読んだ際、五経の文を授けた[5]

のち、刑部大輔を経て、安芸権守摂津権守と地方官を歴任した。元慶4年(880年)5月28日卒去享年79。最終官位は従五位上行摂津権守。

人物[編集]

礼記』『儀礼』に精通し、清和天皇が『孝経』を読んだ際には、侍読を務めたという[6]

官歴[編集]

六国史』による。

脚注[編集]

  1. ^ 日本文徳天皇実録』天安2年8月19日条
  2. ^ 日本三代実録』貞観6年8月3日条
  3. ^ 『日本三代実録』貞観13年10月5日条
  4. ^ 『日本三代実録』貞観13年10月21日条
  5. ^ 『日本三代実録』貞観17年4月25日条
  6. ^ 『日本三代実録』元慶4年5月28日条

参考文献[編集]