イギリス連邦

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イギリス連邦
Commonwealth of Nations
イギリス連邦の加盟国(2015年現在)。 オレンジ色は旧加盟地域、水色はイギリスの海外領土
イギリス連邦の加盟国(2015年現在)。
オレンジ色は旧加盟地域、水色はイギリスの海外領土
本部
(かつ最大の都市)
公用語 英語
メンバー #加盟国の一覧
首脳
 -  連邦の長 エリザベス2世
 -  事務総長 スコットランド・オブ・アスタル男爵夫人
 -  事務局長 ボリス・ジョンソン
成立
 -  バルフォア報告書 1926年11月18日 
 -  ウェストミンスター憲章 1931年12月 
 -  ロンドン宣言 1949年4月28日 
面積
 -  総計 31,462,574 km2 
12,147,768 sq mi 
人口
 -  2013年推計 23億28百万人 
 -  人口密度 75/km2 
194/sq mi
ウェブサイト
thecommonwealth.org
イギリス連邦の事務局および主要機関が置かれているロンドンのマールボロ・ハウス

イギリス連邦(イギリスれんぽう、英語: Commonwealth of Nations、旧名: British Commonwealth)は、かつてのイギリス帝国(大英帝国)を前身とし、現在では、イギリスと対等な、その植民地から独立した主権国家を中心に、旧イギリス領でない諸国にも門戸を広げた、共通の中央政府を有さない、緩やかな連合体、共同体、国際機関である。

近年では、(名称に「British」も「English」も「UK」も含まない)原語に忠実に、日本語でも「コモンウェルス」と呼ばれることも多い[1][2]#名称・日本語訳も参照)。

概要[編集]

その実態は、「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織」(コモンウェルス原則の宣言前文)と再定義され、共通の中央政府を有さない、独立・主権国家の緩やかな連合体である。

一国の国家形態としての連邦国家(連合国家)でもなければ、加盟国が必ずしも同君連合の関係にあるとも限らず、イギリスの君主を自動的に自国の君主元首として戴く英連邦王国も存在する一方、マレーシアなど(イギリスの君主と別に)独自の君主を戴く加盟国も存在しており、現在では、加盟国の過半がインドなど共和制共和国で構成されている。

一方で、1971年に締結された5か国防衛取極イギリスオーストラリアニュージーランド、マレーシア、シンガポール)のように、白人が多数派で共通の君主を戴くイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、マレー人が多数派で独自の君主を戴くマレーシア、華僑が多数派で共和国であるシンガポール、という政体や多数派の人種も異なる加盟国が国防面で軍事同盟を結んでいる例もある。

かつて宗主国植民地という関係だったが、後に独立して対等な主権国家同士の関係で結成されている、という意味で類似する国際組織として、フランコフォニー国際機関ポルトガル語諸国共同体オランダ語連合、そして、本コモンウェルスをモデルに英称でも「コモンウェルス」を名乗る国際組織として独立国家共同体がある。

名称・日本語訳[編集]

「ブリティッシュ・コモンウェルス(British Commonwealth)」を旧称とし、これが「イギリス連邦」や「英連邦」と日本語訳されていたことの慣習から、このように現在でも呼ばれることが多いが、1949年から「イギリス」(英国)を意味する「British」が除去されて「コモンウェルス・オブ・ネイションズ(Commonwealth of Nations)」が正式名(直訳するならば「諸国連合」)となっており、イギリスなど加盟国において定冠詞「the」付きで「ザ・コモンウェルス(the Commonwealth)」というと、この「コモンウェルス・オブ・ネイションズ(Commonwealth of Nations)」を指すことが多く、イギリスの外務省の正式名称も「Foreign and Commonwealth Office」(外務・英連邦省)である。

歴史[編集]

前史[編集]

19世紀には世界最大の帝国として覇を唱えていた大英帝国は、20世紀に入るとアメリカ合衆国ドイツの追い上げによって国力の優位は次第に小さなものとなっていった。こうしたなか、19世紀後半以降イギリス本国は世界各地の入植型植民地の権限を強化していき、特に白人が人口の多くを占める植民地に自治権を与え、自治領(ドミニオン)とするようになっていった。1867年英領北アメリカ法によって3つのイギリス北米植民地が連邦を組み、カナダとしてドミニオン化したのを皮切りに、1901年にはオーストラリア大陸の6植民地が連邦化してオーストラリア連邦が成立し、1907年にはニュージーランドニューファンドランドが、1910年には南アフリカの4植民地が合同して連邦化し南アフリカ連邦が成立した。これらの自治領とイギリスとの間には1887年から協議機関として植民地会議が開催されていたが、1907年にはこれは帝国会議と改称され、帝国会議に出席できる自治領は「植民地」(Colony)ではなく「ドミニオン」(Dominion)と呼称するようになった。この動きの中で、1911年にはオーストラリアとカナダが独自の海軍創設を認められるなど、自治領諸国は自立の動きを強めていった。

こうした動きは第一次世界大戦においてより強まった。この大戦にはすべてのドミニオン・植民地が参戦したが、オーストラリアで1916年徴兵制導入が拒否されたり[3]ボーア戦争以来反英感情のくすぶる南アフリカにおいては1914年ボーア人によるマリッツ反乱が起きるなど、各ドミニオンにおいてイギリスからの自立を目指す動きが活発化した。この動きが最も激しかったのはイギリス本国に組み込まれていたアイルランドであり、1919年にはついにアイルランド独立戦争が勃発し、1921年にはアイルランド自由国としてドミニオンの地位を獲得した。こうしたなか、各植民地の協力を得るためにイギリス本国はさらに融和的な姿勢を取るようになり、1917年には各ドミニオンの代表が参加した帝国戦時内閣が開催された。第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約1919年に締結された際には各ドミニオンの代表は出席を許され、国際連盟委任統治領としてオーストラリアがニューギニアを、南アフリカが南西アフリカを、ニュージーランドが西サモアをそれぞれ本国とは別に獲得し、連盟にもそれぞれ加盟を許された[4]。こうして、各ドミニオンはすでに実質的には独立国と変わりないものとなっていった。

第一次世界大戦後、イギリスの国力退潮が鮮明となると帝国の支配体制は揺らぎはじめ、それにともない各ドミニオンはさらに独立傾向を強めていき、1926年の帝国会議では特に反英感情に強かったアイルランド自由国アフリカーナー主体の南アフリカ連邦がついに帝国離脱を要求。これをうけて、イギリス本国と各ドミニオンとが対等であるとするバルフォア報告書が作成され、これを土台とした新しい帝国の在り方を規定する憲章が制定されることとなった。こうして制定されたのがウェストミンスター憲章である[5]

始まり[編集]

1944年のイギリス連邦会議に出席したメンバー
(左から右: カナダのウィリアム・キング、南アフリカ連邦のヤン・スマッツ、イギリスのウィンストン・チャーチル、ニュージーランドのピーター・フレイザー、オーストラリアのジョン・カーティン)

1931年、イギリス議会におけるウェストミンスター憲章: Statute of Westminster)において、イギリス国王に対する共通の忠誠によって結ばれた、それぞれが主権をもつ対等な独立国家の自由な連合体と定義され、イギリス、アイルランド自由国(のちに脱退)、カナダニューファンドランド(のちにカナダの1州となる)、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦をメンバーとして発足した[6]。この時点では旧来のドミニオンの連合に過ぎず、白人自治領の連合体としての性格を持っていた。また、この時点においては旧来のイギリス帝国はいまだ存続しており、帝国と連邦が併存する体制を取っていた[7]

ブロック経済化とその崩壊[編集]

成立期のイギリス連邦は、ブロック経済としての側面を強める傾向にあった。1929年に始まった世界恐慌はイギリス連邦にも甚大な被害をもたらしており、こうした中でイギリスは従来取っていた自由貿易主義を放棄し、他国からの輸入に関税をかけた一方で、イギリス連邦内においては1932年のオタワ協定において相互に関税率を引き下げ、連邦内の貿易を促進する政策を取った。この関税は帝国特恵関税と呼ばれ、これによってポンド圏(スターリング・ブロック)が成立した[8]。ただし、経済的にアメリカと非常に強い関係にあったカナダはこのブロックには加入していなかった[9]。逆にイギリスと非常に強い経済関係にあったアルゼンチンはこのブロックに加入する[10]など、イギリス連邦とスターリング・ブロックの範囲は完全に一致していたわけではない。この帝国特恵関税およびスターリング・ブロックは第二次世界大戦中に崩壊し[11]、以後イギリス連邦が経済ブロック化することはなかった。

非同君連合化[編集]

第二次世界大戦後、1947年インドおよびパキスタンが独立したことで白人連合としての性格が消滅した。さらにこの独立の際にインドは近日中に制定される予定の憲法において共和制を取ることを表明し、なおかつその後もイギリス連邦にとどまることを希望した。この要望は受け入れられ、1950年にインドが共和制をとった際、連邦へのインドの残留を認めたために、以後「イギリス国王に対する共通の忠誠」は連合体の必要条件から除外されることとなり、同君連合以外の国家も連邦参加が可能となった[12]。こうして、同君連合である英連邦王国とイギリス連邦とが制度的に分離した。これにより、政治体制にかかわらずイギリスから新たに独立した国家がイギリス連邦にとどまることが可能になり、以後の拡大をもたらすこととなった[13]。一方で、1947年には当時まだ形式上は同君連合である印パ両国が第一次印パ戦争に至るなど、連邦や同君連合の拘束力の形骸化も顕わとなった。1949年には、従来の加盟国の中で最も反英的だったアイルランドが完全に連邦から脱退した[14]

独立主権国家連合[編集]

戦後、イギリスは海上覇権をほぼ喪失した形となり、1940年代から1950年代にはアジア諸国が次々とイギリスから独立した。1956年に起きたスエズ動乱において、エジプトに軍事介入したイギリスの行動は連邦内においてもほとんど支持を得ることができず、さらに戦後の超大国である米ソの反対によって軍事介入自体が失敗に終わった。これによりイギリスの軍事的威信は失墜し、脱植民地化の流れはとどめようのないものとなっていった[15]。イギリスも植民地を独立させたうえで連邦内にとどめて影響力を維持する戦略へと転換し、1960年代にはアフリカ諸国が次々とイギリスから独立した。こうした新独立国のほとんどはイギリス連邦にとどまった。

一方で、1961年には創設時からの加盟国であった南アフリカ共和国が脱退した。南アフリカは1961年国民投票を行って英連邦王国から共和制を取ることとなったが、共和制でも加盟はできるため、南アフリカ政府は当初は脱退する意向は持っていなかった。しかしいまや有色人種国家が多数を占める連邦内において南アフリカのアパルトヘイト政策への批判が噴出し、これで態度を硬化させた南アフリカが脱退を通告した[16]。こうした流れは、1964年に起きたローデシア問題においてよりいっそう明確なものとなった。1923年以降広範な自治権をもっていた南ローデシアはイギリス連邦の準加盟国に近い立場にあったが、その後身であるローデシア・ニヤサランド連邦1963年に解体し、そこから独立したマラウイザンビアが連邦に加盟すると、いまだ人種差別主義を取る南ローデシアの完全独立および加盟が焦点となった。連邦加盟国のほとんどは南ローデシアに対し強硬な姿勢を取り、人種差別が撤廃されない限り独立および連邦加盟を認めない立場を取ったため、宗主国であるイギリスもこれを考慮せざるを得なくなった。これに南ローデシア政府は反発し、1965年にはローデシア共和国として一方的に独立を宣言した。この対立は、1980年にローデシアが崩壊し黒人国家であるジンバブエ共和国が連邦に加盟するまで続いた。

また同じく創設時からの加盟国であるカナダオーストラリアニュージーランドが軍事および経済においてアメリカ合衆国に依存するようになる一方、新独立国の経済規模は当時まだ大きくなかった。こうした流れの中で、イギリス本国もイギリス連邦よりも、統一化の進むヨーロッパ大陸を志向するようになり、1961年には保守党ハロルド・マクミラン政権のもとで欧州経済共同体(EEC)加盟を申請した。この申請はフランスシャルル・ド・ゴールに拒否されて実現しなかったものの、結局1973年エドワード・ヒース政権のもとでEEC加盟は実現し、イギリスは完全にイギリス連邦からヨーロッパへと重心を移すこととなった。

事務局創設と首相会議の持ち回り化[編集]

イギリス連邦成立時、連邦に関する事務は1926年に植民地省から分離独立したイギリス政府内の自治領省が担っていた。自治領省は1947年にコモンウェルス省に改名され、その後も連邦の事務を担っていたが、英領植民地の急速な独立とそれによる加盟国の急増によって連邦内のイギリスの地位は低下し、ガーナクワメ・エンクルマなどによってイギリス政府からの連邦事務の独立が要求されることになった。こうして1965年にはイギリス連邦の独立事務局が創設され、イギリス連邦はイギリス政府から独立した機構となった[17]。さらにそれまでロンドンにおいて行われていた英連邦首脳会議が1966年にはナイジェリアラゴスにおいて開催された。1971年には英連邦首相会議はシンガポールで行われ、これ以降会議はイギリス本国での開催から加盟国間における持ち回りでの開催となった[18]

1971年に発せられたシンガポール宣言において、イギリス連邦は「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織である(コモンウェルス原則の宣言前文)」と再定義され、ゆるやかな独立主権国家の連合となった(連邦国家ではない)。1970年代から1980年代には残されたイギリス植民地のほとんどが独立し、かつての帝国のほとんどは連邦化が完了した。1994年にはアパルトヘイトを撤廃した南アフリカが再加盟を認められた。また、この時期までイギリス連邦の加盟国はすべて旧イギリス領または旧ドミニオン諸国領に限られていたが、1995年には旧英領以外のはじめての加盟国としてモザンビーク(旧ポルトガル領)の加盟が承認され、イギリス連邦は旧英領以外にも加盟国の範囲を広げることとなった。さらに、ルワンダ紛争による新政権樹立を経て親フランスから親英米へと外交方針を転換したルワンダ(旧ドイツ帝国領→ベルギー委任信託統治領)が2009年に加盟した。この前年にルワンダは、ルワンダ語フランス語に加えて新たに英語を公用語としている。

制度[編集]

イギリス連邦加盟国
  英連邦王国(英国との同君連合)
  共和制
  独自の君主制
ロンドンのパーラメント・スクエアに掲げられたイギリス連邦加盟国の国旗
オタワのカナダ国会議事堂に掲げられたイギリス連邦旗

イギリス連邦は独立した事務局および各種機関を備えており、それらの多くはロンドンのマールボロ・ハウスにおかれている。

高等弁務官[編集]

加盟国同士では、通常の国対国のように特命全権大使を交換せず、「高等弁務官」を外交使節長として、大使館のかわりに高等弁務官事務所を置いている。これは、大使が国家元首の代理、およびその大使の駐在先を大使館として呼ぶことが、各国の国家元首が同一人物たる同君連合にあたる諸国間では不適当であったためだが、加盟国の中でイギリス国王を君主・元首としなくなった国においても、伝統的にこの名称が使われている。

連邦市民権[編集]

イギリスは加盟国国民に国政および地方選挙における選挙権および被選挙権を認めている。また加盟国国民には査証発給(免除)やワーキング・ホリデーに関する優遇措置がある。さらに自国の在外公館が置かれていない英連邦外の国において、イギリスの在外公館による援護を受けることができる。これらの特典は連邦市民権英語版: Commonwealth Citizenship)と称される。この連邦市民権は旧来の「イギリス帝国臣民」に対応するもので、1948年のイギリス国籍法において制定された[19]。ただし連邦市民権は互恵的なものではなく、加盟国国民に対する待遇は加盟国によってまちまちである。

英連邦首脳会議[編集]

開催日 開催都市 リトリート(会議合宿) 議長
1971年 1月14-22日 シンガポールの旗 シンガポール シンガポール なし リー・クアンユー
1973年 8月2-10日 カナダの旗 カナダ オタワ モントランブラン ピエール・トルドー
1975年 4月29日-5月6日 ジャマイカの旗 ジャマイカ キングストン なし マイケル・マンリー
1977年 6月8-15日 イギリスの旗 イギリス ロンドン グレンイーグルス・ホテル ジェームズ・キャラハン
1979年 8月1-7日 ザンビアの旗 ザンビア ルサカ ルサカ ケネス・カウンダ
1981年 9月30日-10月7日 オーストラリアの旗 オーストラリア メルボルン キャンベラ マルコム・フレーザー
1983年 11月23-29日 インドの旗 インド ニューデリー ゴア インディラ・ガンディー
1985年 10月16-22日 バハマの旗 バハマ ナッソー Lyford Cay リンドン・ピンドリング
1986年 8月3-5日 イギリスの旗 イギリス ロンドン なし マーガレット・サッチャー
1987年 10月13-17日 カナダの旗 カナダ バンクーバー オカナガン ブライアン・マルルーニー
1989年 10月18-24日 マレーシアの旗 マレーシア クアラルンプール ランカウイ マハティール・ビン・モハマド
1991年 10月16-21日 ジンバブエの旗 ジンバブエ ハラレ ヴィクトリアフォールズ ロバート・ムガベ
1993年 10月21-25日 キプロスの旗 キプロス リマソール なし グラフコス・クレリデス
1995年 11月10-13日 ニュージーランドの旗 ニュージーランド オークランド ミルブルック ジム・ボルジャー
1997年 10月24-27日 イギリスの旗 イギリス エディンバラ セント・アンドリュース トニー・ブレア
1999年 11月12-14日 南アフリカ共和国の旗 南アフリカ ダーバン ジョージ ターボ・ムベキ
2002年 3月2-5日 オーストラリアの旗 オーストラリア クーラム英語版 なし ジョン・ハワード
2003年 12月5-8日 ナイジェリアの旗 ナイジェリア アブジャ Aso Rock オルセグン・オバサンジョ
2005年 11月25-27日 マルタの旗 マルタ バレッタ メリッハ ローレンス・ゴンズィ
2007年 11月23-25日 ウガンダの旗 ウガンダ カンパラ Munyonyo ヨウェリ・ムセベニ
2009年 11月27-29日 トリニダード・トバゴの旗 トリニダード・トバゴ ポートオブスペイン Laventille Heights パトリック・マニング
2011年 10月28-30日 オーストラリアの旗 オーストラリア パース キングスパーク ジュリア・ギラード
2013年 11月15-17日 スリランカの旗 スリランカ コロンボ スリジャヤワルダナプラコッテ マヒンダ・ラージャパクサ
2015年 11月27-29日 マルタの旗 マルタ バレッタ; メリッハ Fort St Angelo ジョゼフ・ムスカット
2018年 4月19-21日 イギリスの旗 イギリス ロンドン; ウィンザー ウィンザー城 テリーザ・メイ
2020年 6月22-27日 ルワンダの旗 ルワンダ キガリ en:Kigali Convention Centre ポール・カガメ
2022年 未定 未定 未定 未定 未定

加盟国の政府の長(首相または大統領)は2年に1度、西暦の奇数年に会議を行う。開催地は1971年以降、加盟各国による持ち回りとなっている。 前身は以下のとおり[21]

加盟国の国家元首[編集]

加盟国には、国家元首として独自の大統領や君主を置く国と、イギリス国王(現在は女王エリザベス2世)を元首たる国王とする国(英連邦王国)とがある。後者では、国王から任命された総督が国王の役割を代行しているが、現代では総督は実質的には首相による指名制とする場合が多い。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどがこの事例に含まれる(詳細は現在の英連邦王国を参照)。

文化・国内制度[編集]

共通語としての英語[編集]

モザンビーク(旧ポルトガル領、公用語ポルトガル語)を除くほとんどの国では、英語を公用語かそれに準じる言語としている。ルワンダはベルギー統治時代以降、ベルギーの主要公用語であったフランス語を第二公用語としてきたが、親仏(および旧フランス植民地)的な政府が打倒されたルワンダ紛争後は、英語が公用語に追加された。

教育[編集]

イギリスの旧植民地や英連邦加盟国は、統治時代に英語教育と共に導入されたイングランド式の教育制度を独立後もそのまま引き継いだり、一部を変更して継続する国が多い。資格制度においてもイギリスの制度設計が導入されていることが多い。

このためイギリスへの留学時に優遇される措置や、本国での資格を有していればイギリスで同じ資格を取得する際に試験の一部が免除されるなどの共通化制度がある。

法と政治の制度[編集]

イングランドに倣いコモン・ロー英米法)を導入した国が多い。ただし、コモン・ローは土着の慣行を柱とする法体系でもあるため、それ以前から大陸法が根付いていた地域(南アフリカ共和国など)では大陸法ないし大陸法的な要素が取り入れられている。ウェストミンスター・システムを採用する国も多いが、これにもナイジェリアのような例外もある。

人権尊重と法の支配が求められ、これらに対して重大な侵害があるという理由で資格停止とされる国もある。

交通[編集]

世界的には右側通行が多くを占めているが、英連邦やイギリスの影響が強い国では左側通行が大半を占める(それ以外では日本タイインドネシアなど)。また2階建てバスの運行さらにイギリス本国との航空便数が多かったり、フラッグキャリアの唯一の長距離国際線がロンドンと首都を結ぶ便でことであることも多い(ロイヤルブルネイ航空ビーマン・バングラデシュ航空など)。

生活・スポーツ[編集]

加盟国や旧加盟国ではイギリス本国の影響で、食文化では紅茶を飲む習慣など、元々現地には無かった文化や風習が導入され定着している。またイギリス英語が定着している国が殆どである。

スポーツではラグビークリケットポロモータースポーツなどが盛んな国が多い。1930年以降、4年に1回コモンウェルスゲームズと呼ばれる、加盟国による総合競技大会も行われている[22]

加盟国の一覧[編集]

現在の加盟国[編集]

括弧内は加盟年。2020年2月時点での加盟国数はイギリスを含め54ヶ国[23]で、特記なき限り旧イギリス帝国領。太字英連邦王国

アジア[編集]

ヨーロッパ[編集]

南北アメリカ[編集]

アフリカ[編集]

オセアニア[編集]

加盟申請中の国[編集]

離脱した国・自治領[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 小川浩之「「新コモンウェルス」と南アフリカ共和国の脱退 (一九六一年) -拡大と制度変化-」『国際政治』第2004巻第136号、日本国際政治学会、2004年、 79-96,L10、 doi:10.11375/kokusaiseiji1957.136_792020年6月1日閲覧。
  2. ^ 大阪大学大学院 文学研究科 藤川研究室 (2011年). “Commonwealth of Nations”. 大阪大学大学院文学研究科・文学部 西洋史学研究室. 2020年5月30日閲覧。
  3. ^ 『西洋の歴史――近現代編』p248 大下尚一・服部春彦・望田幸男・西川正雄編(ミネルヴァ書房, 1988年)
  4. ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p201 秋田茂(中公新書, 2012年)
  5. ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p202 秋田茂(中公新書, 2012年)
  6. ^ レナード・トンプソン 『南アフリカの歴史』p480 宮本正興・峯陽一・吉国恒雄訳、明石書店、1995年6月、新訂増補版第1刷。ISBN 4-7503-0699-1
  7. ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p202 秋田茂(中公新書, 2012年)
  8. ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p207 秋田茂(中公新書, 2012年)
  9. ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p210 秋田茂(中公新書, 2012年)
  10. ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p209-210 秋田茂(中公新書, 2012年)
  11. ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p223 秋田茂(中公新書, 2012年)
  12. ^ 「世界民族問題事典」(新訂増補)p440 平凡社 2002年11月25日新訂増補第1刷
  13. ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p234 秋田茂(中公新書, 2012年)
  14. ^ 「イギリス史10講」p281 近藤和彦 岩波書店 2013年12月20日第1刷発行
  15. ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p242 秋田茂(中公新書, 2012年)
  16. ^ 「南部アフリカ政治経済論」p119 林晃史 アジア経済研究所 1999年4月15日
  17. ^ 「二〇世紀後半のコモンウェルス 新しい統合の展望」p140 旦祐介:「現代世界とイギリス帝国」(イギリス帝国と20世紀第5巻)所収 ミネルヴァ書房 2007年6月30日初版第1刷
  18. ^ 「二〇世紀後半のコモンウェルス 新しい統合の展望」p144 旦祐介:「現代世界とイギリス帝国」(イギリス帝国と20世紀第5巻)所収 ミネルヴァ書房 2007年6月30日初版第1刷
  19. ^ 『イギリス帝国の歴史――アジアから考える』p232 秋田茂(中公新書, 2012年)
  20. ^ BBC News. (2015年11月28日). http://www.bbc.com/news/uk-34953782 
  21. ^ Commonwealth Secretariat (2007): Brief History of CHOGM. Commonwealth Heads of Government Meeting - CHOGM. http://www.thecommonwealth.org/subhomepage/33250/ 2007-11-15 現在
  22. ^ 「スポーツの世界地図」p20 Alan Tomlinson著 阿部生雄・寺島善一・森川貞夫監訳 丸善出版 平成24年5月30日
  23. ^ https://www.theguardian.com/world/2020/feb/01/maldives-rejoins-commonwealth-after-evidence-of-reforms 「Maldives rejoins Commonwealth after evidence of reforms」The Guardian 2020年2月1日 2020年2月25日閲覧
  24. ^ モルディブ大統領選挙での親中派現職の敗北―それでも中国の「楽園」進出は止まらない(六辻彰二) - Yahoo!ニュース” (日本語). Yahoo!ニュース 個人. 2019年7月19日閲覧。
  25. ^ https://www.theguardian.com/world/2020/feb/01/maldives-rejoins-commonwealth-after-evidence-of-reforms 「Maldives rejoins Commonwealth after evidence of reforms」The Guardian 2020年2月1日 2020年2月25日閲覧
  26. ^ 「南部アフリカ政治経済論」p119 林晃史 アジア経済研究所 1999年4月15日
  27. ^ 2013年10月4日の中日新聞朝刊6面
  28. ^ The Gambia rejoins the Commonwealth”. イギリス連邦 (2018年2月8日). 2018年7月14日閲覧。
  29. ^ https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/fiji/data.html 「フィジー共和国基礎データ」日本国外務省 令和2年2月13日 2020年2月16日閲覧
  30. ^ https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/zimbabwe/data.html 「ジンバブエ共和国基礎データ」日本国外務省 令和元年9月26日 2020年2月16日閲覧

関連項目[編集]

外部リンク[編集]