東市来町美山

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東市来町美山
—  大字  —
美山中心部(県道24号)
東市来町美山の位置(鹿児島県内)
東市来町美山
東市来町美山
座標: 北緯31度38分30.5秒 東経130度21分45.4秒 / 北緯31.641806度 東経130.362611度 / 31.641806; 130.362611
Flag of Japan.svg 日本
都道府県 鹿児島県
市町村 日置市
地域 東市来地域
人口 (2010年10月1日現在)
 - 計 537人
等時帯 JST (UTC+9)
郵便番号 899-2431

東市来町美山(ひがしいちきちょうみやま Higashiichiki-Chō Miyama)は、鹿児島県日置市大字。旧日置郡伊集院郷苗代川村、日置郡下伊集院村大字苗代川、日置郡東市来町美山。人口は537人、世帯数は206世帯(2010年10月1日現在)[1]郵便番号は899-2431。

安土桃山時代島津氏によって連行された朝鮮人陶工らが江戸時代になり、薩摩藩の各地からこの地に移され、苗代川村が成立した[2]。現在でも多くの窯元で薩摩焼が生産されており、この地で作られた薩摩焼は苗代川焼とも呼ばれる[3]

地理[編集]

日置市の西部に位置している。字域の北方には日置市東市来町長里、南方には日置市東市来町美山元寺脇東市来町宮田東市来町寺脇、東方には日置市伊集院町寺脇伊集院町野田、西方には日置市東市来町伊作田がそれぞれ接している。

字域の中央部には鹿児島県道24号鹿児島東市来線が東西に通っており、東部を日置広域農道が南北に通っている。北部を国道3号が東西に通っており、中央部に鹿児島本線が通っている。南部には南九州西回り自動車道が南北に通っている。

慶長の役島津軍によって朝鮮半島より連行された朝鮮人陶工達の集落が置かれた場所で、現在も薩摩焼の工房が存在している。

歴史[編集]

旧下伊集院村における旧・苗代川(水色)の位置

苗代川村の成立[編集]

苗代川という地名は江戸期より見え、薩摩国日置郡伊集院郷(外城)のうちであった。「伊集院郷土史」及び「東市来町郷土史」によると古くは市来郷養母村(現在の日置市東市来町養母)に属していたとされる。

慶長2年(1597年)、豊臣秀吉朝鮮出兵で行われた南原の戦いの際に島津義弘の軍勢の捕虜となった陶工・朴平意ら朝鮮人男女43名が翌年薩摩国日置郡に留め置かれた。慶長3年に島津義弘朝鮮より連れ帰った陶工を同8年に串木野郷下名村島平や鹿児島郡鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島市高麗町)から当地に移した際に養母村(現在の東市来町養母)より分村し苗代川村として成立した[2]

苗代川焼の隆盛と藩の統治[編集]

慶長8年(1603年)頃、薩摩藩江戸幕府に所領安堵を許されるとようやく情勢が落ち着き、彼らはこの地に移されて朴平意を庄屋に任じて陶磁器製造を許された。続いて藩内他所に居住していた他の朝鮮人も徐々にこの地への集住が命じられた。朴平意らは新しい村の北西に檀君を祀る玉山宮(現在の玉山神社)を創建した。

延宝3年(1675年)、当時の藩主島津光久によって参勤交代の御仮屋(本陣の役割を果たす薩摩藩主の別邸)がこの地に移されて以後、保護と統制の表裏一体の政策が進められるようになる。翌年には他の土地の女子が苗代川に嫁いでくる事を例外として一切の外部との通婚を禁じる命令が出され、続いて日本名を名乗る事や日本の衣服を身に着けることが禁じられた。

更に陶磁器製造を藩庁の厳重な監視下に置いた。これは日本人社会から完全に隔離して薩摩藩御用焼の生産維持と朝鮮風俗の保持を強制するためのものであった。更に藩主の参勤交代の際には陶工たちが演じる朝鮮式の神舞・歌謡を見物し、村から選抜した小姓に朝鮮衣装を身に付けさせて江戸に上らせた。その代償として日本人による苗代川住民への犯罪行為は厳罰に処せられ、村の指導層は郷士、その他一般住民もこれに準じる身分待遇を受ける慣例が保障されていた。

この地域は地下水位が低かったため深い井戸を利用する技術が発達しており、宝永元年(1704年)には約160名の住民が当時不毛の地であった笠野原へ移住している[4]

弘化2年(1845年)、薩摩藩の実権を握った調所広郷が窯の新造を支援するとともに専売制度を改革して住民の生活改善と生産増加を図った。

その後、苗代川の朝鮮人は日韓併合を受け、住民は自ずと日本人姓に改姓した。

寛文5年に伊集院郷のうちとなり、同9年に伊集院郷より独立し地頭が置かれた。宝永4年に伊集院郷に復帰するが、焼物に関しては薩摩藩の管理下に置かれた。村高は「伊集院郷土史」では257石余、「旧高旧領」では253石余であった[2]

町村制施行以後[編集]

1889年(明治22年)に町村制が施行されたのに伴いそれまでの伊集院郷の北部の区域より下伊集院村が成立。江戸期の苗代川村は下伊集院村の大字「苗代川」となった。また、下伊集院村役場が苗代川に設置された[5]1947年(昭和22年)に下伊集院村役場が、下伊集院村の中央部に移転することとなり、下神殿(現在の伊集院町下神殿)1500番地に移転した[6]

1956年(昭和31年)には下伊集院村の一部(苗代川・宮田、寺脇の一部及び、神之川の一部)が東市来町に編入され東市来町の一部となり、同時に大字名を苗代川から美山に改称し[7]、東市来町の大字「美山」となった[2]2004年平成16年)10月29日に美山の一部より分割され、美山元寺脇が設置された[8]

2005年(平成17年)に東市来町が伊集院町日吉町吹上町と新設合併し日置市が設置されたのに伴い、従来の大字名である「美山」に旧自治体名の「東市来町」を冠することとなり、日置市の大字「東市来町美山」となった[9]

字域の変遷[編集]

実施後 実施年月日 実施前
大字 小字
美山元寺脇(全域) 2004年10月29日 美山 大坊迫、大坊平、大坊、鷹ノ巣、分石、大穴、加治ヲン、井手口、下西の谷、上西の谷、控松、打水、小谷口、加治ヲン平、留包、小鹿倉

施設[編集]

日置市立美山小学校
元外相東郷茂徳記念館
教育
郵便局
  • 下伊集院郵便局
寺社
その他
  • 元外相東郷茂徳記念館

小・中学校の学区[編集]

市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる

大字 番地 小学校 中学校
東市来町美山 全域 日置市立美山小学校 日置市立東市来中学校

交通[編集]

道路[編集]

高速道路
国道
県道
広域農道

美山に関連する作品[編集]

  • 『故郷忘じがたく候』 - 司馬遼太郎の小説。第14代沈壽官を主人公とした小説である。
  • 街道をゆく 3』 - 司馬遼太郎の紀行集。紀行の中で沈壽官を訪問する[10]

著名な出身人物[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 2.男女別人口及び世帯数 - 町丁・字等(CSVファイル)( 平成22年国勢調査 小地域集計 46鹿児島県) - 総務省統計局 2012年2月7日閲覧。
  2. ^ a b c d 角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』角川書店 p.614
  3. ^ 角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』角川書店 p.1064
  4. ^ 橋口兼古、五代秀堯、橋口兼柄 『三国名勝図会 巻之8』 1843年
  5. ^ 角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』角川書店 p.461-462
  6. ^ 『伊集院町誌』 p.320 - 伊集院町誌編纂委員会 2002年
  7. ^ 大字の名称変更についての処理(昭和31年10月10日付鹿児島県公報第4066号所収、Wikisource-logo.svg 原文
  8. ^ 平成16年鹿児島県告示第1800号(同年10月29日発行「鹿児島県公報」第2031号所収。Wikisource-logo.svg 原文)。
  9. ^ 日置中央合併協議会の調整内容(字の区域及び名称の取扱い) (PDF) - 日置中央合併協議会 2012年4月15日閲覧。
  10. ^ 司馬遼太郎街道をゆく3陸奥のみち、肥薩のみち ほか - 朝日新聞出版、2018年6月21日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

座標: 北緯31度38分30.5秒 東経130度21分45.4秒