芳賀秀次郎
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芳賀 秀次郎 | |
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誕生 |
1915年1月1日 山形県白鷹町横田尻 |
死没 | 1993年5月9日(78歳没) |
職業 | 教諭 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 山形師範学校 |
ジャンル | 短歌、詩 |
主な受賞歴 |
山形県詩賞(1972年) 斎藤茂吉文化賞(1984年) |
子供 | 芳賀道也 |
芳賀 秀次郎(はが ひでじろう、1915年(大正4年)1月1日 - 1993年(平成5年)5月9日)は、日本の教育者。詩人。歌人。
人物・来歴
[編集]1935年山形師範学校(現:山形大学地域教育文化学部)卒業後、山大教育学部附属小学校、山形南高、上山高での勤務を経て、長井高校長を務める。退職後、日大山形高校に移り教鞭を執った[1]。旧制山形二中・山南には23年にわたり在籍し、児童文学作家である鈴木実は文芸部で指導を受けた[2]。
アララギ派の歌人として出発し、1943年に情報局・朝日新聞主催の懸賞作詞「大日本の歌」が一位入賞。 戦後は、戦中の反省から短歌を捨て詩作におもむく。1952年に洋酒壽屋(現:サントリー)主催で公募された新国民歌では応募した「われら愛す」が一位で入選する[1]。
それ以外にも、服部公一が作曲を手掛けた女声合唱組曲「紅花抄」や、県内の50を超える学校の校歌、山形銀行やヤマザワの歌などの作詞も手掛けた[2]。
晩年は病を得て筆を絶ち[1]、1993年5月9日心不全のため死去[3]。享年78。
4男として山形放送でアナウンサー等を歴任し[4]、2019年7月、参議院議員に当選した芳賀道也がいる。
受賞
[編集]主な著書
[編集]- 『錐について 詩集』げろの会、1957年。
- 『ことばと文章 高校生新書』 三一書房、1966年。
- 『出羽国叙情』 虹書房、1972年。
- 『若い友へ 人間教育者芳賀秀次郎校長の言葉から』芳賀秀次郎先生文言集「若い友ヘ」、1976年。
- 『体操詩集の世界 - 村野四郎』 右文書院、1983年。
- 『風鈴について』Y・K・C(山形教養センター)、1983年。
- 『わが暗愚小傳』ぐるうぷ場、2004年。
共著
[編集]- 黎明書房編集部編『教師の作文 一隅を照らす人びと』黎明書房、1954年。
- 真壁仁、佐藤総右、芳賀秀次郎『やまがた風景と抒情』東北出版企画、1976年。
脚注
[編集]- ^ a b c d 『新版 山形県大百科事典』p.557
- ^ a b 「教えて!がったん 詩人の芳賀秀次郎さん、どんな人?」『朝日新聞』山形版 2015年12月10日
- ^ 『現代物故者人名辞典 1991-1993』
- ^ “白鷹出身の詩人・芳賀秀次郎さんを顕彰 生誕100年祭、合唱や詩の朗読”. 山形新聞. (2015年11月29日) 2016年6月6日閲覧。
- ^ “齋藤茂吉文化賞受賞者一覧”. 2013年10月25日閲覧。
参考文献
[編集]- 山形放送株式会社新版山形県大百科事典発行本部事務局編 『新版山形県大百科事典』 山形放送、1993年。
- 日外アソシエーツ編『現代物故者人名辞典 1991-1993』 日外アソシエーツ、1994年。