花守信吉

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花守 信吉(はなもり しんきち、生没年不詳)は、白瀬矗南極探検隊に参加した樺太アイヌの男性。

生涯[編集]

南樺太の敷香の領域にあった多来加(タライカ)の首長の子孫として生まれる。アイヌ名は「シシラトカ」。 アイヌの伝承に詳しく、ポーランド人民族学者ブロニスワフ・ピウスツキの研究に協力し、彼の著書には彼の語ったアイヌの伝承文学がいくつも紹介されている。

1910年(明治43年)11月29日に、白瀬矗を隊長とする南極探検隊の隊員として、山辺安之助らとともに、船『開南丸』に乗り込み、芝浦埠頭を出発する。花守信吉が集めたカラフト犬の10匹も含め、1911年2月に、ニュージーランドに到着し、その直後、南極大陸上陸のために出発するものの、一旦断念し、同年5月1日オーストラリアシドニーに寄港することとなる。シドニーへの帰りの帰路にて、横柄ということで部下から不満が噴出していた白瀬矗隊長の毒殺計画を、山辺安之助と共に花守信吉が阻止したという情報がある[1]。 同年11月19日に、日本の南極探検隊は、南極大陸を目指して、シドニーを離れ、翌年1912年1月16日、南極大陸上陸する。同年1月28日、日本の南極探検隊一行は、南緯80度5分・西経165度37分まで到達し、付近を「大和雪原」と命名し、帰路の道をとる。同年2月4日、一行は、南極大陸を離れる。同年6月に、東京に戻る。南極探検隊での花守信吉が写っている写真があり、今でもインターネット上で見ることが可能である[2]

南極からの帰還後の足跡については詳しく分かっていない。

2004年サハリン州レスノエ(旧・落帆)にて、山辺安之助とともに花守信吉の名前が書かれた日本語ロシア語による「白瀬南極探検隊慰霊碑」が建てられる[3]

関連項目[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]